先生×生徒

小貝川リン子

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9 嵐

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 朝から降り続いた雨は、夜になってみぞれへと変わった。准一の帰りが遅い。週末にはよくあることだが、今夜は特に遅かった。

 深夜一時過ぎ、錠を開ける音が静寂を破る。布団にくるまったまま、俺はうっすらと目を開けた。べろべろに酔っているらしい准一は、上機嫌で布団の上に覆い被さってくる。濡れた髪の匂いと混じって妙な臭いが鼻を衝き、俺は反射的に准一を突き飛ばした。准一は全く心外だという風に首を傾げ、またじりじりと迫ってくる。

「おい、どこで何してきたか言え」
「何って……肉食ってきただけだけど?」

 肉だと? 准一が纏っている香りは、焼肉屋のそれとは全然違う。

「どこの店だ? 俺の知ってる場所か?」
「あぁ? んだよ、しつこいなぁ」

 俺が食い下がるので、准一はうんざりと眉をしかめる。

「東口の、イタリアンなんとかっつーとこだよ」
「い、いたりあん? 普段はそんな洒落た店行かねぇくせに。せいぜいサイゼリヤだろ」
「オレがどこで飯食おうがオレの勝手だろ。関係ねぇことに口出すな。おら、わかったらさっさと股開け」

 腕ずくで組み敷かれ、背中が布団に触れる。
 初めて嗅ぐ臭いだと思ったが、それは嘘だ。知らないはずはない。これは女の香水の匂いだ。昔、母が男に会いに行く時に吹きかけていたものと似ている。胸がムカムカして吐き気を催すような、嫌な臭いだ。

「あん? おい、抵抗すんな」

 抵抗しているつもりはない。ただ、体が勝手に強張る。きっとこの臭いのせいだ。
 俺の事情など顧みず、行為は速やかに進められる。無造作に脱ぎ捨てられたジャケットを見て、こいつにしては珍しくきちんとジャケットを着込んでいたということに、今さらながら気が付いた。

 准一は解いたネクタイで俺の手首をきつく縛り、ワイシャツのボタンを外して胸元を緩めていく。ぷち、ぷち、と一個ずつ器用に外していく。合わさっていた襟がはだけて、鉄のように頑丈で引き締まった男の肉体が覗く。

 そこで、必然的に目に付いてしまったのだ。別に見るつもりなどなかった。しかしどうしたって目に付いてしまう。襟の内側、普通に暮らしていたら絶対にありえないはずの位置に、くっきりと口紅の跡が残っていた。

 瞬間湯沸かし器のように、沸騰した怒りが腹の底から込み上げてくる。震える拳を握りしめ、唇を噛みしめて血が流れても――俺は結局、怒りを抑えることはできなかった。

 助走をつけ、准一の額に思い切り頭突きを食らわす。重い衝撃は俺の側にも伝わり、視界がぐらぐら揺れた。虚を衝かれた准一はというと、尻餅をついて額を押さえ、苦しそうに呻いている。

「っ……てぇ、何しやがる」
「てめぇ、女抱いてきたんだろ」

 ほぼ同時に口を衝いた言葉は、内容は違えど同じ恨み言である。
 俺の台詞を聞いた准一はわずかに目を見開いたが、たちまち眉間に皺を刻む。俺も負けじと睨み返した。

「女ァ? 女抱いてたらどうだってんだ。お前には関係のねぇこったろ」
「……関係ねぇだと」
「事実だろうが」

 確かに、俺には関係のないことだ。准一がどこで誰と飲んでこようが、帰りが一時を回ろうが、男を抱こうが女を抱こうが、俺には一切関係ない。そんなことは重々承知だ。

 だが、そうだとしたら、この沸々と煮え滾る怒りの正体は何なのだ。鬱屈した苛立ちと、息が詰まるほどの苦しさと、ひりつくような胸の痛みは、一体何だというのだ。こんなに複雑でおかしな気持ちになったことは、これまでただの一度もない。こんな気持ちは他に知らない。

 たとえ寒空の下へ放り出されることになるとしてもこいつに指一本触れられたくない、なんて、どうしてそんな風に思わなくちゃいけないのだろう。

「……今日はしねぇ」
「あぁ?」

 苛立っているのは俺だけではない。准一もあからさまに不機嫌だ。

「何、今さら。オレの布団で、オレが帰ってくるの待ってたくせに」
「気分じゃなくなった。酒くせぇし、香水くせぇんだよ。俺はそいつが大ッ嫌いなんだ。反吐が出るほどな」

 吐き捨てるように言い、括られた腕を准一の目の前に差し出す。こんなもの、今日はもう必要ないのだ。早く解くように促すが、准一は額を押さえてうずくまったまま動かない。目元が陰に隠れ、表情も見えない。

「おい、聞こえねぇのかよ。早くしねぇと引きちぎるぜ」

 そう言って急かしたが、しかしついに拘束が解かれることはなかった。両手が自由になるどころか、凄まじい力で掴みかかられる。咄嗟に受け身が取れずに尻餅をつき、その上後頭部を軽く打って、深く布団に沈められた。

 形勢逆転――というか、俺が優勢だったことなどただの一度だってない。准一は俺の上にどっかと乗り上げ、いやらしく口元を歪める。

「おもしろいこと言うねェ。まさかお前、自分に拒否権があるとでも思ってんの」
「……ぃッ」
「なぁ。お前までオレを置いていくのか」

 腕をねじ上げられて骨が軋む。大きな手で頸動脈を絞められる。あまりにも手加減しないので、至るところに指の跡が残るだろうなと思った。

「お前の考えてること、当ててやろうか? オレが女抱いてきたのが気に食わねぇんだろ。裏切られたと思ったんだ?」
「ち、が」
「違わないね。教えてやろうか? そういうのを嫉妬って言うんだぜ。たかがウリ専の分際でセフレにすら昇格できてねぇってのに、小生意気に嫉妬たぁいい度胸してんじゃねぇの」

 首を絞められ、だんだん意識が遠のいていく。視界が真っ暗になり、落ちる寸前でぱっと手を放された。瞬時に血液が脳へ巡り、肺が焦って酸素を取り込む。激しく咳き込みながら肩で息をする俺を、准一の冷めた目が見下ろしていた。

「オレの言いたいこと、わかった? お前に拒否権なんかねぇし、今日のシャワー代くらいはきっちり体で払ってもらうからな」

 地を這うような低い声だ。この男からは決して逃げられないということが、酸欠で回らない頭にもよく理解できた。


 
 一体どうして。どうしてこんなことになったのか。気づかぬうちに准一の地雷を踏み抜いてしまったのだろうか。頭の中はクエスチョンマークでいっぱいである。

 俺の抵抗を物ともせず、准一は強引に事を進めた。そもそもの体格差が歴然である上に両手を拘束されているのだから俺に勝てる見込みはなかった。そのうち暴れるのに疲れ、諦めて愛撫を受け入れた。

 いつもと違う体位で挿入された。バックと似てはいるが、バックよりも屈辱的なポーズだ。股を大きく広げられ、片足は准一の肩に担がれ、もう片足は准一にまたがられている。下半身がぴったり密着し、がっちり固定されているので、思うように身動きできない。惨めったらしく布団にしがみついて律動に耐えるしかない。

「ってェ、痛ぇよ」
「痛ぇわけねぇだろ。あんだけ慣らしたのに」
「……痛ぇ、んだよ。くそ、死ね、いっぺん死ね」

 准一の言う通り、十分慣らしたのだから尻は痛くない。しかし、強制的に開かされている股が痛い。持ち上げられている足が攣りそうに痛い。それから、胸がとても苦しい。潰れてしまいそうなくらいに。きっと無理な姿勢を取らされているせいだ。

「ぁッ、く……」

 浅いところをぐりぐり突かれて、抑えきれなかった声が漏れる。普段の准一ならば「悪態ついてても感じるんだ」などと揶揄ってくるはずなのに、今日はだんまりである。さっきもそうだ。こいつは、俺に死ねと言われて黙っているようなやつじゃない。いつもなら倍の分量で言い返してくるはずなのに、やはりだんまりである。

 終始、やけに静かだった。准一は元来おしゃべりで、「気持ちいいの?」とか「ここがいいの?」とか――あるいは体内の様子を実況したりだとか――言葉責めめいたことを好む傾向にあったが、今日はそれもない。黙って腰を振っている。聞こえるのは自らの乱れた呼吸と卑猥な水音のみで、准一の様子はほとんどわからなかった。

 ふと、この体勢ならば准一の顔を見ることができるのではないかと思った。うつ伏せにさせられてはいるが、少し体をよじるだけでいい。それで見えるはずだ。知りたいと思った。どんな顔で俺を抱いているのか、今何を考えているのか知りたい。
 気づかれないよう、そろそろと振り返る。頬にかかる髪の隙間から、初めてその表情を覗き見た。

 理性と感情との間で葛藤しているらしい、張り詰めた面持ちだった。歯軋りをしながら、凶暴な本性と脆い本心を必死で押し殺しているように思えた。余裕とは程遠い表情だ。普段の飄々とした態度からは想像もつかない。

 これが、セックス中の男の面構えだろうか。どうしてこいつがこんな顔をしなくちゃいけないんだ。全身痛くてたまらないのは俺の方だってのに、どうしてこいつが傷付いたような面をしているんだ。

 さっき、俺が行為を拒んだ時には激昂したように罵声を浴びせたくせに、どうして今は静かに苦悶の表情を浮かべているだけなのだろう。こんな辛気臭い面で抱かれるくらいなら、いっそ怒鳴られたり叩かれたりした方がマシだ。准一の思考が俺には理解できない。本当に、隅から隅までムカつく男だと思った。

 凝視しすぎたのか、ばちりと視線がかち合う。見られていたことに気づいた准一はいささか表情を緩めたが、無言で俺の後ろ髪を掴んで頭を押さえ込む。

「まだまだ余裕そうじゃん。物足りないの」
「……てめぇこそ、手加減してんじゃねぇ。殺す気でこいよ」
「ほんと、かわいくねぇガキ」

 かすかに笑ったような気配がした。
 振り返って表情を盗み見るなんてことが二度とできないように、准一は俺の頭を押さえ付けて放そうとしなかった。ぐしゃぐしゃに鷲掴みにされた髪の毛が准一の指に絡みつき、全身を揺さぶられる度に引っ張られて痛んだ。


 
 准一が眠るのを待って家を出ていってやるつもりだったが、俺の方が先に眠ってしまい、そのまま朝を迎えてしまった。

 香ばしい甘い匂いが鼻先に漂ってきて目が覚めた。窓を見やると、明るい光が射し込んでいる。裸ではあるが、一応後処理がされていて綺麗になっていた。しかし、全身が鉛を食ったように重い。徹夜明けの朝とよく似ているが、それ以上の倦怠感と虚脱感に襲われる。

「おー、おはよう」

 台所に准一が立っている。こちらを一瞥した後、すぐにコンロに向き直る。器用にも煙草を咥えながら調理しているらしく、煙草の煙とフライパンから出る煙が静かに換気扇へと吸い込まれていく。

「ホットケーキ焼いてたんだよ。食う?」

 炬燵テーブルの上を指し示した。真っ白な皿の上に、きつね色のホットケーキが何段も重なっている。起き上がろうとするが、やはり体が悲鳴を上げた。腰に力が入らないし、足の付け根は痺れているし、太腿は筋肉痛で引き攣っている。下半身がぶっ壊れていてクソの役にも立たない。

「食わねぇの」

 間延びした声で言い、准一は新しく焼けたホットケーキを最上段に追加する。

「……って……」
「あ?」
「起きるの手伝え、っつったんだ。動けねぇ」
「あ、そういうこと」

 介護される老人みたいに、背中に腕を回されて抱き起こされた。腰と股関節の調子がおかしいので、座っているのもやっとである。そんな俺の様子を見て、准一は意地悪く微笑む。

「昨日はやりすぎたな」
「……水」
「んだよ、女王様気分?」
「……誰のせいだと……」

 体だけでなく喉の調子もおかしい。昨晩、殺す気でこいなどと言って焚き付けてしまったせいで、声が枯れるまで容赦なく抱き潰された。自業自得と言えばそうだが、准一のせいでもある。

 それにしても、昨晩はいきなり窒息させられそうになったり無理やり股を開かされたりと散々いたぶられたわけだが、今朝の准一はそれら全部が嘘だったかのようにあっけらかんとしている。呑気にホットケーキなんか焼いたりして、同一人物とは思えないくらいだ。

 准一の持ってきたカルキ臭のする水道水を口に含むと、いくらか喉の通りがよくなる。テーブルに手を伸ばし、最上段にある出来立て熱々のホットケーキを手掴みで頬張った。准一も、二段目のものを手掴みで取って一口齧る。

「我ながらなかなかの出来だな」

 嬉しいのか何なのかよくわからない顔で自画自賛して、准一はおもむろにテレビをつけた。チャンネルを回し、土曜お昼の情報番組に落ち着く。特におもしろくもないが、画面の中の芸能人が喋ってくれるおかげでお茶の間の空気は保たれる。

 しかし、テレビの音声なんかで誤魔化さずとも、俺は准一を責める気なんてさらさらなかった。もちろん、昨晩は何度も殺してやると思ったし口走りもしたが、今となってはどうでもいい。

 上等のジャケットは押し入れに仕舞われ、口紅の付いたシャツは洗濯機に放り込まれ、准一はいつも通りのだらしない恰好に戻っている。シャワーを浴びたから、吐き気を催す香水の匂いもしない。いつも通り、煙草の香りだけだ。だから、もうどうだっていいのだ。

 ムラのない綺麗なきつね色で、満月みたいに真ん丸に焼けたホットケーキの、ふんわりとした優しい甘さが胸いっぱいに広がる。

「なぁ」

 俺はゆっくりと口を開いた。

「今度女抱いてくる時はよぉ、事前に言っとけよな。そしたらわざわざここに戻ってこねぇし、アンタも存分に遊んでこられんだろ」

 そうだな、と呟いた准一の目はテレビ画面に向いていたが、それよりもずっと遠くを見つめている。その瞳は若干の切なさと諦めの色を湛えていた。
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