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第六章 敗走、そして
第一節 河の畔
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月の光が踊る水面が、もう随分遠く見える。
水を吸った服が四肢に重たく絡みつき、波に揺らめく前髪越しに、漏れた呼気がゆらゆらと昇って行く。
落ちていく身体を自分ではどうすることもできずに、ゆっくりと目を閉じた――。
◇
「リュヌ!!」
ぱちりと、少年は琥珀の瞳を見開いた。眠っていた時間の長さに反して、覚醒は瞬間的かつ、突然だった。
心臓が急にどきどきと、早鐘を打ち始めるのを感じる。ゆっくりと瞬きして左右に瞳を巡らせると、見たことのない天井とコレットの顔が目に入った。
「……コレット」
泣いてた?
デリカシー云々を考えられるほど、頭は覚醒していなかった。口にすればぼふりと、幼馴染の顔が赤くなる。
「ばっ、なっ、泣いてないわよ!」
誰があんたのことなんかで泣くもんですかと憤り、コレットは横になったままのリュヌに白い枕を投げつけた。照れ隠しにしてもあんまりではないだろうかと思いながら、少年はむくりとベッドの上に起き上がる。
そこは見知らぬ部屋だった。広く、十数のベッドが縦横にきっちりと並んだ部屋はどうやらどこかの兵舎の一室らしかったが、他の兵士達の姿は見えない。
「僕、なんで寝てたんだっけ……?」
寝癖で酷いことになっているだろう髪を掻きながら、リュヌは呟く。するとコレットは、呆れたような声を出した。
「覚えてないの? あんた、セレス様に運ばれてここに来たのよ」
ミュスカデルの南西に位置するここ、グルナードは、王城の背を流れる大河の下流に位置する城塞だ。皇都を脱した人々の多くは北と南の農村部へと散り散りに逃げ延びたが、兵士達は上からの指示に従ってグルナードをめざし、遁走した。
第一師団の敗走とミュスカデル陥落を知ったグルナードの第二師団は兵士達の受け入れに追われ、夜を徹して負傷者の救護が続けられた。セレスタンが気を失った皇女ベアトリスと少年兵をグルナードの河岸に引き上げたのは、狂騒の一夜が明けた黎明のことだった。
「それから丸二日も寝てたんだから。ミレーヌさんは、命に別状はないって言ってたけど……」
なかなか目を覚まさないからと、コレットは瞳を潤ませる。起き抜けにまた枕を食らいたくはないので、リュヌはそっと見ない振りをした。
「他のみんなは無事なの?」
「うん、一応。知ってる人達はみんな――あ、でも」
言いかけて、コレットは口ごもった。聞けばジルの小隊の二人の内、マルセルは戻らなかったらしい。
「ジルさん、あたしには何も言わなかったけど……」
伏しがちにした睫毛の奥で、橄欖の瞳が曇る。そうなんだ、と返すしかなくて、リュヌは窓の外に目を向けた。
ほんのわずかに言葉を交わしただけとはいえ、昨日まで確かにそこにいた人間が今日はいないという事実は、それが戦と知っていても堪えるものだ。自分でさえそうなのだから、ジルの心痛はいかほどだっただろう。そう考えると、いたたまれない気持ちになった。
鈍重な沈黙に息苦しさを覚えていると、部屋の入り口の扉が音を立てた。
「あ……」
「リュヌ! 起きたのか!」
眠っていたのはほんの二日のことなのに、その声は随分と懐かしく響いた。
「ベル、フォルテュナ」
名を呼んだ声に、喜色が滲んだ。敵味方、少なくない数の人命が失われた中にあっては不謹慎と言われるかもしれないが、親しい友人達の無事は素直に嬉しかった。小走りに駆け寄る二人に向き直れば、唇が自然に弧を描く。
「ったく心配かけやがって! やっと起きたのかよ」
「うん、ついさっき」
苦笑気味に応じると、ベルナールが安堵の表情を浮かべた。心配させてごめんと口にすると、さらりとした青髪が左右に揺れる。
「無事だったんだから、いいよ」
どこか夢心地だった世界が、ようやく現実感を帯びてくる。ひとまずは助かったのだと自覚すると、急激な空腹感が襲ってきた。二日も何も食べていないのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
「なんかもらって来てやろうか? そろそろ昼飯の時間だし」
「ううん、自分で行くよ」
先に行っててと促して、一旦、フォルテュナ達と別れた。起きるにしても最低限の身支度は必要だ。昼間から湯は使わせてもらえなくても、水場へ行けば顔くらいは洗えるだろう。
◇
王城を起点に広がる街を城壁で囲んだミュスカデルが要塞都市であるのに対し、グルナードは平野に突き立つ要塞そのものだ。兵舎から訓練場、軍議の間まで全てを一つの建物の中に収めたその構造は、初めてこの場所を訪れるリュヌにとっては一種の迷路のようだった。目覚めた部屋はどうやら地上から二、三階の高さにあったので、正方形に近い建物の回廊をぐるりと周り、最初に目についた階段を降りた。訓練に出ているのか、城外で警戒に当たっているのかは分からないが、人影は思った以上に疎らだ。
(それにしても)
セレスタンはなぜ、自分を助けてくれたのだろう。
ぐるぐると渦を巻く螺旋階段を下りながら、リュヌは黙考した。
(姫様さえ助けられれば、それでよかったはずなのに)
色々なことが一度に起き過ぎたせいだろうか、あの夜――特に王城に入った後のことは、今一つはっきりと思い出せない。人を殺めた手の感触と、玉座の間の凄惨な光景が強烈過ぎて、それ以外の一切が霞んで見えるのもあるだろう。
しかし一つ確かなのは、一介の志願兵に過ぎないリュヌを、セレスタンは見捨てなかったということだ。そういう人間なのだと言ってしまえば終わりであるし、またそれも一つの事実であるのだろう。
聖剣の担い手であるという事実が全てなのではなく、助けられる可能性のある者を諦めないその清廉な姿勢もまた、セレスタンを英雄たらしめる一つの要素なのだ。或いはエーレルを救えなかったことについて、負い目を感じていたということもあるかもしれない。
漠然とそう結論付けて、それ以上は考えるのをやめた。いずれにせよ、後できちんと礼を言わなければ――そんなことを考えながら階段を降り、現れた扉に手を掛ける。押し開ければ爽やかな秋の外気が、石造りの建物に篭った空気をどっと押し流していく。
「あれ……!」
扉の外は、小さなバルコニーに繋がっていた。地階へ下りきったと思ったのに、どうやらそうではなかったらしい。
だが驚きに足を止めたのは、別の理由からだった。日に日に冷えゆく空気に色づき始めた木々を背に、思いも寄らぬ人物がこちらを見詰めていたからだ。
「ひ……姫、様?」
突然開いた扉に驚いたのか、高貴な少女はその場に硬直していた。サファイアブルーの瞳は潤み、白磁の頬には涙の落ちた痕があった。
見てはいけないものを見てしまったような気がして、すみませんと口走る。慌てて身体を扉の内側へ引っ込め、その場を離れようと踏み出すが――。
「お待ちなさい!」
鈴のような声音が、それを制した。ぎくりとして立ち止まり、ゆっくりと声の主を振り返る。
「あなた、わたくしを助けに来ましたわね」
セレスと一緒に、と、ベアトリスは言った。
覚えられていたとは意外だった。あの夜、玉座の間でセレスタンと共に敵将と対峙した時、彼女はほとんど気を失っていたはずだ。生死を分けるぎりぎりの状況は、彼女の脳裏にあの広間の光景を焼き付けたのだろうか――だとしたら、なんとも惨いことだ。
「お名前は?」
「……リュヌ、です」
桃色の唇が、リュヌ、とその名を繰り返し、なんとも言えないこそばゆい気分になった。一国の姫君に名前を呼ばれる日が来るなどとは、今日まで想像だにして来なかったからだ。
続く言葉を探しているのか、皇女はそれきり黙ってしまったので、リュヌは思い切って口を開いた。
「皇王陛下のこと、申し訳ありませんでした」
目の前で父親の首を刎ねられたのだ。彼女の味わった恐怖と悲傷とは、凡そ言葉では言い表せまい。そしてそれは同時にリュヌ自身にも、あの夜のエーレルを思い起こさせた――手の届く距離にいながら喪った妹のことを思うと、押し寄せる後悔に溺れてしまいそうになる。
「いいえ――あなた達は、わたくしを助けれくれた。何もできずにいたわたくしに、あなた方を責めることができて?」
そう言って、ベアトリスは少年に背を向けた。滑らかな肩を覆う艶麗な衣は薄く、寒々しく見える。
「あの、風邪を引かない内に中へ」
「ミュスカデルのご出身?」
敢えて諫言を遮るように、ベアトリスは質問を続けた。触れたくはない話題だが答えを拒むわけにも行かず、いえと小さく首を振った。
「エーレルから来ました」
「……エーレル…………」
今はない村の名を呼んで、皇女は美しい面立ちに影を落とした。
「……お恥ずかしい話ですけれど、わたくし、こんなことになるなんて考えてもおりませんでしたの」
東岸の砦は陥落し、エーレルの村が焼き払われた。しかしそれだけのことが起きても、王城の生活に変化はなかった。父王は確かに難しい顔をしていることが多くなったが、それが直接彼女の日常に影響を及ぼすわけではない。
いつものように侍女達に傅かれ、普段と同じ服を纏い、普段と同じものを食べる間は、どんな事件も遠い世界の出来事だった。
「わたくしには関係のないことだと、そう思っていた。同じこの国の中で、あんなにも恐ろしいことが起きていたというのに――わたくしは、なんて愚かだったのでしょう」
調練場で初めて彼女を目にした時は、王族というのはなんと気楽な生き物なのだろうかと思ったものだ。しかし悔恨に暮れる姿を前にすると責める気にはなれず、リュヌは言った。
「姫様だけじゃありませんよ」
上っ面の慰めではなく、それが率直な感想だった。このミュスカデルの人々は、否、皇国軍の兵士達でさえも、心のどこかできっと大丈夫と思っていたのだから。
「……こんな、わたくしですけれど」
白い指先で涙の痕を拭って、皇女は言った。
「お父様亡き今、このイヴェールはわたくしの国。わたくしはもう、失いたくありません。わたくしの国の民に、辛い思いをさせたくもありません」
新たに込み上げるものをぐっと堪えると、碧い瞳が潤んだ。しかしもう、零れることはなかった。
「必ずや、イヴェール皇国を取り戻してみせます。それがわたくしの、父と、この国に対する償いです」
毅然として、ベアトリスは秋景に背を向けた。歳は大きく違わないはずなのに、その横顔は初めて会った時よりも、ずっと大人びて見えた。こつこつとブーツの踵を鳴らして、高貴な少女は立ち尽くす少年の傍らを抜け、そして振り返る。
「あなたのこと、憶えておきますわ」
そう言い残して、皇女は建物の中に消えて行った。一人バルコニーに残されて、リュヌはぱちりと瞳を瞬かせる。皇女様と知り合いになった、と言ったら、コレットはどんな顔をするだろう。
水を吸った服が四肢に重たく絡みつき、波に揺らめく前髪越しに、漏れた呼気がゆらゆらと昇って行く。
落ちていく身体を自分ではどうすることもできずに、ゆっくりと目を閉じた――。
◇
「リュヌ!!」
ぱちりと、少年は琥珀の瞳を見開いた。眠っていた時間の長さに反して、覚醒は瞬間的かつ、突然だった。
心臓が急にどきどきと、早鐘を打ち始めるのを感じる。ゆっくりと瞬きして左右に瞳を巡らせると、見たことのない天井とコレットの顔が目に入った。
「……コレット」
泣いてた?
デリカシー云々を考えられるほど、頭は覚醒していなかった。口にすればぼふりと、幼馴染の顔が赤くなる。
「ばっ、なっ、泣いてないわよ!」
誰があんたのことなんかで泣くもんですかと憤り、コレットは横になったままのリュヌに白い枕を投げつけた。照れ隠しにしてもあんまりではないだろうかと思いながら、少年はむくりとベッドの上に起き上がる。
そこは見知らぬ部屋だった。広く、十数のベッドが縦横にきっちりと並んだ部屋はどうやらどこかの兵舎の一室らしかったが、他の兵士達の姿は見えない。
「僕、なんで寝てたんだっけ……?」
寝癖で酷いことになっているだろう髪を掻きながら、リュヌは呟く。するとコレットは、呆れたような声を出した。
「覚えてないの? あんた、セレス様に運ばれてここに来たのよ」
ミュスカデルの南西に位置するここ、グルナードは、王城の背を流れる大河の下流に位置する城塞だ。皇都を脱した人々の多くは北と南の農村部へと散り散りに逃げ延びたが、兵士達は上からの指示に従ってグルナードをめざし、遁走した。
第一師団の敗走とミュスカデル陥落を知ったグルナードの第二師団は兵士達の受け入れに追われ、夜を徹して負傷者の救護が続けられた。セレスタンが気を失った皇女ベアトリスと少年兵をグルナードの河岸に引き上げたのは、狂騒の一夜が明けた黎明のことだった。
「それから丸二日も寝てたんだから。ミレーヌさんは、命に別状はないって言ってたけど……」
なかなか目を覚まさないからと、コレットは瞳を潤ませる。起き抜けにまた枕を食らいたくはないので、リュヌはそっと見ない振りをした。
「他のみんなは無事なの?」
「うん、一応。知ってる人達はみんな――あ、でも」
言いかけて、コレットは口ごもった。聞けばジルの小隊の二人の内、マルセルは戻らなかったらしい。
「ジルさん、あたしには何も言わなかったけど……」
伏しがちにした睫毛の奥で、橄欖の瞳が曇る。そうなんだ、と返すしかなくて、リュヌは窓の外に目を向けた。
ほんのわずかに言葉を交わしただけとはいえ、昨日まで確かにそこにいた人間が今日はいないという事実は、それが戦と知っていても堪えるものだ。自分でさえそうなのだから、ジルの心痛はいかほどだっただろう。そう考えると、いたたまれない気持ちになった。
鈍重な沈黙に息苦しさを覚えていると、部屋の入り口の扉が音を立てた。
「あ……」
「リュヌ! 起きたのか!」
眠っていたのはほんの二日のことなのに、その声は随分と懐かしく響いた。
「ベル、フォルテュナ」
名を呼んだ声に、喜色が滲んだ。敵味方、少なくない数の人命が失われた中にあっては不謹慎と言われるかもしれないが、親しい友人達の無事は素直に嬉しかった。小走りに駆け寄る二人に向き直れば、唇が自然に弧を描く。
「ったく心配かけやがって! やっと起きたのかよ」
「うん、ついさっき」
苦笑気味に応じると、ベルナールが安堵の表情を浮かべた。心配させてごめんと口にすると、さらりとした青髪が左右に揺れる。
「無事だったんだから、いいよ」
どこか夢心地だった世界が、ようやく現実感を帯びてくる。ひとまずは助かったのだと自覚すると、急激な空腹感が襲ってきた。二日も何も食べていないのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
「なんかもらって来てやろうか? そろそろ昼飯の時間だし」
「ううん、自分で行くよ」
先に行っててと促して、一旦、フォルテュナ達と別れた。起きるにしても最低限の身支度は必要だ。昼間から湯は使わせてもらえなくても、水場へ行けば顔くらいは洗えるだろう。
◇
王城を起点に広がる街を城壁で囲んだミュスカデルが要塞都市であるのに対し、グルナードは平野に突き立つ要塞そのものだ。兵舎から訓練場、軍議の間まで全てを一つの建物の中に収めたその構造は、初めてこの場所を訪れるリュヌにとっては一種の迷路のようだった。目覚めた部屋はどうやら地上から二、三階の高さにあったので、正方形に近い建物の回廊をぐるりと周り、最初に目についた階段を降りた。訓練に出ているのか、城外で警戒に当たっているのかは分からないが、人影は思った以上に疎らだ。
(それにしても)
セレスタンはなぜ、自分を助けてくれたのだろう。
ぐるぐると渦を巻く螺旋階段を下りながら、リュヌは黙考した。
(姫様さえ助けられれば、それでよかったはずなのに)
色々なことが一度に起き過ぎたせいだろうか、あの夜――特に王城に入った後のことは、今一つはっきりと思い出せない。人を殺めた手の感触と、玉座の間の凄惨な光景が強烈過ぎて、それ以外の一切が霞んで見えるのもあるだろう。
しかし一つ確かなのは、一介の志願兵に過ぎないリュヌを、セレスタンは見捨てなかったということだ。そういう人間なのだと言ってしまえば終わりであるし、またそれも一つの事実であるのだろう。
聖剣の担い手であるという事実が全てなのではなく、助けられる可能性のある者を諦めないその清廉な姿勢もまた、セレスタンを英雄たらしめる一つの要素なのだ。或いはエーレルを救えなかったことについて、負い目を感じていたということもあるかもしれない。
漠然とそう結論付けて、それ以上は考えるのをやめた。いずれにせよ、後できちんと礼を言わなければ――そんなことを考えながら階段を降り、現れた扉に手を掛ける。押し開ければ爽やかな秋の外気が、石造りの建物に篭った空気をどっと押し流していく。
「あれ……!」
扉の外は、小さなバルコニーに繋がっていた。地階へ下りきったと思ったのに、どうやらそうではなかったらしい。
だが驚きに足を止めたのは、別の理由からだった。日に日に冷えゆく空気に色づき始めた木々を背に、思いも寄らぬ人物がこちらを見詰めていたからだ。
「ひ……姫、様?」
突然開いた扉に驚いたのか、高貴な少女はその場に硬直していた。サファイアブルーの瞳は潤み、白磁の頬には涙の落ちた痕があった。
見てはいけないものを見てしまったような気がして、すみませんと口走る。慌てて身体を扉の内側へ引っ込め、その場を離れようと踏み出すが――。
「お待ちなさい!」
鈴のような声音が、それを制した。ぎくりとして立ち止まり、ゆっくりと声の主を振り返る。
「あなた、わたくしを助けに来ましたわね」
セレスと一緒に、と、ベアトリスは言った。
覚えられていたとは意外だった。あの夜、玉座の間でセレスタンと共に敵将と対峙した時、彼女はほとんど気を失っていたはずだ。生死を分けるぎりぎりの状況は、彼女の脳裏にあの広間の光景を焼き付けたのだろうか――だとしたら、なんとも惨いことだ。
「お名前は?」
「……リュヌ、です」
桃色の唇が、リュヌ、とその名を繰り返し、なんとも言えないこそばゆい気分になった。一国の姫君に名前を呼ばれる日が来るなどとは、今日まで想像だにして来なかったからだ。
続く言葉を探しているのか、皇女はそれきり黙ってしまったので、リュヌは思い切って口を開いた。
「皇王陛下のこと、申し訳ありませんでした」
目の前で父親の首を刎ねられたのだ。彼女の味わった恐怖と悲傷とは、凡そ言葉では言い表せまい。そしてそれは同時にリュヌ自身にも、あの夜のエーレルを思い起こさせた――手の届く距離にいながら喪った妹のことを思うと、押し寄せる後悔に溺れてしまいそうになる。
「いいえ――あなた達は、わたくしを助けれくれた。何もできずにいたわたくしに、あなた方を責めることができて?」
そう言って、ベアトリスは少年に背を向けた。滑らかな肩を覆う艶麗な衣は薄く、寒々しく見える。
「あの、風邪を引かない内に中へ」
「ミュスカデルのご出身?」
敢えて諫言を遮るように、ベアトリスは質問を続けた。触れたくはない話題だが答えを拒むわけにも行かず、いえと小さく首を振った。
「エーレルから来ました」
「……エーレル…………」
今はない村の名を呼んで、皇女は美しい面立ちに影を落とした。
「……お恥ずかしい話ですけれど、わたくし、こんなことになるなんて考えてもおりませんでしたの」
東岸の砦は陥落し、エーレルの村が焼き払われた。しかしそれだけのことが起きても、王城の生活に変化はなかった。父王は確かに難しい顔をしていることが多くなったが、それが直接彼女の日常に影響を及ぼすわけではない。
いつものように侍女達に傅かれ、普段と同じ服を纏い、普段と同じものを食べる間は、どんな事件も遠い世界の出来事だった。
「わたくしには関係のないことだと、そう思っていた。同じこの国の中で、あんなにも恐ろしいことが起きていたというのに――わたくしは、なんて愚かだったのでしょう」
調練場で初めて彼女を目にした時は、王族というのはなんと気楽な生き物なのだろうかと思ったものだ。しかし悔恨に暮れる姿を前にすると責める気にはなれず、リュヌは言った。
「姫様だけじゃありませんよ」
上っ面の慰めではなく、それが率直な感想だった。このミュスカデルの人々は、否、皇国軍の兵士達でさえも、心のどこかできっと大丈夫と思っていたのだから。
「……こんな、わたくしですけれど」
白い指先で涙の痕を拭って、皇女は言った。
「お父様亡き今、このイヴェールはわたくしの国。わたくしはもう、失いたくありません。わたくしの国の民に、辛い思いをさせたくもありません」
新たに込み上げるものをぐっと堪えると、碧い瞳が潤んだ。しかしもう、零れることはなかった。
「必ずや、イヴェール皇国を取り戻してみせます。それがわたくしの、父と、この国に対する償いです」
毅然として、ベアトリスは秋景に背を向けた。歳は大きく違わないはずなのに、その横顔は初めて会った時よりも、ずっと大人びて見えた。こつこつとブーツの踵を鳴らして、高貴な少女は立ち尽くす少年の傍らを抜け、そして振り返る。
「あなたのこと、憶えておきますわ」
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