32 / 38
第六章 敗走、そして
第五節 転陣
しおりを挟む
「……!」
打ち寄せる波のように、どよめきが広がった。大多数の兵士達の例に漏れず、リュヌもまた息を飲んだ。
棄てる。
つまりはこの要塞を放棄すると、セレスタンは確かにそう言った。しかし彼らの動揺は織り込み済みなのだろう、若き司令官は落ち着き払っていた。
フレデリック、と名を呼ばれ、金髪の軍師が進み出る。
「私達の現在地は、ここです」
大河の滸の一角を指示棒で示して、副軍師は言った。
「我々の最終的な目的は、皇都ミュスカデルの奪還です。しかし現状、すぐにミュスカデルを攻め返すのは容易なことではありません。ほとんど無傷の敵軍に対して我々の戦力は目減りしている上、敵の火魔法に対して決定的な対策を持たないからです」
ルクシスを使えば、一度はあの魔法を打ち消すことが出来るかもしれない。しかしもし敵が余力を残していたら、二度目を防ぐ術がないことは先の戦いから明らかである。ルクシス以外の対抗策がない限り、正面切ってあの魔法とやり合うことは不可能だろう。
「しかし我々が動かないからと言って、スプリング軍もそうだとは限りません。今はミュスカデルの戦後処理に追われていても、ルクシスとベアトリス皇女殿下がこちらに在る限り、必ず我々を追ってきます。そうなった時、ここグルナードに駐留している現状では、彼らを有利に迎え撃つことができません」
理由は大別して三つある。
要塞の位置・構造からして、ミュスカデル側からの攻撃を想定していないこと。
皇国軍の残存兵力全てを受け入れるだけのキャパシティがないこと。
加えて炎魔法への対策ができていないこと、である。
固唾を呑んで聞き入る兵士達を前に、フレデリックは続けた。
「ですから我々は、アマンドを目指します」
静まりかけていた室内が、再びざわついた。覚えのある者もそうでない者も、皆が口々にその場所の名を呼んだ。リュヌはといえば、後者だ。
「アマンドって?」
「え? えーっと確か……」
不意打ちの質問に、フォルテュナがどもった。さらりと助け船を出したのは、ベルナールだ。
「イヴェールの西岸にある要塞だよ。って言っても、今はもうほとんど使われていないはずだけど……」
イヴェール皇国の国土は、概ね三つの地域に分けられる。森と平原が大半を占める東部のヴェルト地方、ミュスカデルを中心として街や村が点在する中央のロズ地方、そして南北に走る山岳地帯を挟んで西部に広がるブリュンヌ地方である。
しかし同じ国土とはいっても、険しい山々によって政治経済の中枢から切り離されたブリュンヌ地方には、集落らしい集落がほとんど存在しない。かつては鉱業によって栄えた時期もあったが、その鉱脈も今は尽き、いよいよ人々はブリュンヌ地方に寄りつかなくなった。
数百年の昔、まだイヴェールがイヴェールと言う名を持たなかった頃には、西方・北方諸国の侵略に備えて使われていた砦も、それらの脅威が薄れると共に役割を失っていった。今では百人にも満たない名ばかりの西方警備隊が、つつがなく揺蕩うばかりの水平線を眺めるだけの場所のはずだ。
そのアマンドまで、後退する?
告げられた言葉はなんとも腑に落ちなくて、リュヌは首を傾げた。
「でも、それって……」
「ふざけるな!」
続く筈だった呟きを、怒声が遮った。居並ぶ兵士達の視線が、広間の一点に集中する。見覚えのない顔だ――もしかしたら兵舎の廊下ですれ違ったことくらいはあるのかもしれない。
「敵国軍が目の前にいるっていうのに、反撃しないどころか拠点を捨てて逃げる!? ミュスカデルの市民を見殺しにして、俺達だけでか!?」
それは少なからぬ数の兵士達の代弁であっただろう。知ったような口はきけないが、リュヌ自身、共感する所がないわけではない。名も知らぬ兵士は、乱暴な口調でまくし立てた。
「大体、あの魔法に太刀打ちできないんなら、どこに行ったって同じだ。ミュスカデルを護れなかったのはあんたらのお粗末な作戦のせいだろ!? なのにまたそれに従えって言うのか!」
興奮に任せて噛み付いた男の言葉に、フレデリックが眉を寄せた。
「それは……」
深紅の瞳が悔恨に揺れる。詰られても致し方ない――勝てる策を導けないのなら、彼らの存在する意味がない。それは重々承知している。
言葉に詰まったその肩を、誰かの手が掴んだ。
「! エルネストど、のっ!!?」
ぐい、と力いっぱい押しのけられて、バランスを崩した副軍師が演壇の後ろへつんのめる。転んだ部下にはお構いなしに前へ出て、エルネストが言った。
「もっともな意見だ。不満があるのは俺達とて理解している。嫌ならば出て行ってもらって構わない……と言いたい所だが、敵に情報が洩れる可能性を考慮するとそういう訳にも行かんのでな――従属か、死か、どちらかを選べ」
ぞくりとしたものが背中を駆け上がり、リュヌは息を詰めた。エルネストは本気だ――だからこそその声音は、威圧的でもなければ脅す風でもなく淡々としている。従うことを強制はしないが、離脱するならこの場で処断する、と、本気でそう言っているのだ。
「一つ誤解があるようだが、俺達は逃げるのではない。勝てる拠点へ移動するだけだ。くれぐれもそこを履き違えるな。それにミュスカデルのことを言うなら、労働力になりうる人間を闇雲に殺して回るほど敵も馬鹿じゃない。エーレルの時と違って、力を誇示する必要もないからな」
ミュスカデルを攻め返す手立てがなく、ここで籠城していても不利な地形で攻め込まれるだけ。ここグルナードは、最低限、ミュスカデル奪還のめどが立たないことには拠点たりえない。
次から次に流れ込んでくる情報を懸命に噛み砕きながらそれでも追いつかず、リュヌは誰にともなく尋ねる。
「要するに、ここにいるよりその、アマンドって所の方が、スプリングと戦うのに都合がいいってこと?」
「多分そういうこと……?」
「しっ」
静かにと隣の兵に窘められ、コレットと共に演壇に目を戻した。
打ち寄せる波のように、どよめきが広がった。大多数の兵士達の例に漏れず、リュヌもまた息を飲んだ。
棄てる。
つまりはこの要塞を放棄すると、セレスタンは確かにそう言った。しかし彼らの動揺は織り込み済みなのだろう、若き司令官は落ち着き払っていた。
フレデリック、と名を呼ばれ、金髪の軍師が進み出る。
「私達の現在地は、ここです」
大河の滸の一角を指示棒で示して、副軍師は言った。
「我々の最終的な目的は、皇都ミュスカデルの奪還です。しかし現状、すぐにミュスカデルを攻め返すのは容易なことではありません。ほとんど無傷の敵軍に対して我々の戦力は目減りしている上、敵の火魔法に対して決定的な対策を持たないからです」
ルクシスを使えば、一度はあの魔法を打ち消すことが出来るかもしれない。しかしもし敵が余力を残していたら、二度目を防ぐ術がないことは先の戦いから明らかである。ルクシス以外の対抗策がない限り、正面切ってあの魔法とやり合うことは不可能だろう。
「しかし我々が動かないからと言って、スプリング軍もそうだとは限りません。今はミュスカデルの戦後処理に追われていても、ルクシスとベアトリス皇女殿下がこちらに在る限り、必ず我々を追ってきます。そうなった時、ここグルナードに駐留している現状では、彼らを有利に迎え撃つことができません」
理由は大別して三つある。
要塞の位置・構造からして、ミュスカデル側からの攻撃を想定していないこと。
皇国軍の残存兵力全てを受け入れるだけのキャパシティがないこと。
加えて炎魔法への対策ができていないこと、である。
固唾を呑んで聞き入る兵士達を前に、フレデリックは続けた。
「ですから我々は、アマンドを目指します」
静まりかけていた室内が、再びざわついた。覚えのある者もそうでない者も、皆が口々にその場所の名を呼んだ。リュヌはといえば、後者だ。
「アマンドって?」
「え? えーっと確か……」
不意打ちの質問に、フォルテュナがどもった。さらりと助け船を出したのは、ベルナールだ。
「イヴェールの西岸にある要塞だよ。って言っても、今はもうほとんど使われていないはずだけど……」
イヴェール皇国の国土は、概ね三つの地域に分けられる。森と平原が大半を占める東部のヴェルト地方、ミュスカデルを中心として街や村が点在する中央のロズ地方、そして南北に走る山岳地帯を挟んで西部に広がるブリュンヌ地方である。
しかし同じ国土とはいっても、険しい山々によって政治経済の中枢から切り離されたブリュンヌ地方には、集落らしい集落がほとんど存在しない。かつては鉱業によって栄えた時期もあったが、その鉱脈も今は尽き、いよいよ人々はブリュンヌ地方に寄りつかなくなった。
数百年の昔、まだイヴェールがイヴェールと言う名を持たなかった頃には、西方・北方諸国の侵略に備えて使われていた砦も、それらの脅威が薄れると共に役割を失っていった。今では百人にも満たない名ばかりの西方警備隊が、つつがなく揺蕩うばかりの水平線を眺めるだけの場所のはずだ。
そのアマンドまで、後退する?
告げられた言葉はなんとも腑に落ちなくて、リュヌは首を傾げた。
「でも、それって……」
「ふざけるな!」
続く筈だった呟きを、怒声が遮った。居並ぶ兵士達の視線が、広間の一点に集中する。見覚えのない顔だ――もしかしたら兵舎の廊下ですれ違ったことくらいはあるのかもしれない。
「敵国軍が目の前にいるっていうのに、反撃しないどころか拠点を捨てて逃げる!? ミュスカデルの市民を見殺しにして、俺達だけでか!?」
それは少なからぬ数の兵士達の代弁であっただろう。知ったような口はきけないが、リュヌ自身、共感する所がないわけではない。名も知らぬ兵士は、乱暴な口調でまくし立てた。
「大体、あの魔法に太刀打ちできないんなら、どこに行ったって同じだ。ミュスカデルを護れなかったのはあんたらのお粗末な作戦のせいだろ!? なのにまたそれに従えって言うのか!」
興奮に任せて噛み付いた男の言葉に、フレデリックが眉を寄せた。
「それは……」
深紅の瞳が悔恨に揺れる。詰られても致し方ない――勝てる策を導けないのなら、彼らの存在する意味がない。それは重々承知している。
言葉に詰まったその肩を、誰かの手が掴んだ。
「! エルネストど、のっ!!?」
ぐい、と力いっぱい押しのけられて、バランスを崩した副軍師が演壇の後ろへつんのめる。転んだ部下にはお構いなしに前へ出て、エルネストが言った。
「もっともな意見だ。不満があるのは俺達とて理解している。嫌ならば出て行ってもらって構わない……と言いたい所だが、敵に情報が洩れる可能性を考慮するとそういう訳にも行かんのでな――従属か、死か、どちらかを選べ」
ぞくりとしたものが背中を駆け上がり、リュヌは息を詰めた。エルネストは本気だ――だからこそその声音は、威圧的でもなければ脅す風でもなく淡々としている。従うことを強制はしないが、離脱するならこの場で処断する、と、本気でそう言っているのだ。
「一つ誤解があるようだが、俺達は逃げるのではない。勝てる拠点へ移動するだけだ。くれぐれもそこを履き違えるな。それにミュスカデルのことを言うなら、労働力になりうる人間を闇雲に殺して回るほど敵も馬鹿じゃない。エーレルの時と違って、力を誇示する必要もないからな」
ミュスカデルを攻め返す手立てがなく、ここで籠城していても不利な地形で攻め込まれるだけ。ここグルナードは、最低限、ミュスカデル奪還のめどが立たないことには拠点たりえない。
次から次に流れ込んでくる情報を懸命に噛み砕きながらそれでも追いつかず、リュヌは誰にともなく尋ねる。
「要するに、ここにいるよりその、アマンドって所の方が、スプリングと戦うのに都合がいいってこと?」
「多分そういうこと……?」
「しっ」
静かにと隣の兵に窘められ、コレットと共に演壇に目を戻した。
0
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
公爵令嬢は結婚式当日に死んだ
白雲八鈴
恋愛
今日はとある公爵令嬢の結婚式だ。幸せいっぱいの公爵令嬢の前に婚約者のレイモンドが現れる。
「今日の結婚式は俺と番であるナタリーの結婚式に変更だ!そのドレスをナタリーに渡せ!」
突然のことに公爵令嬢は何を言われたのか理解できなかった。いや、したくなかった。
婚約者のレイモンドは番という運命に出逢ってしまったという。
そして、真っ白な花嫁衣装を脱がされ、そのドレスは番だという女性に着させられる。周りの者達はめでたいと大喜びだ。
その場所に居ることが出来ず公爵令嬢は外に飛び出し……
生まれ変わった令嬢は復讐を誓ったのだった。
婚約者とその番という女性に
『一発ぐらい思いっきり殴ってもいいですわね?』
そして、つがいという者に囚われた者の存在が現れる。
*タグ注意
*不快であれば閉じてください。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる