33 / 38
第六章 敗走、そして
第六節 西へ
しおりを挟む「王を喪い都を奪われたイヴェール軍が、戦意を喪失して西方へ逃げたと思わせるなら今しかない」
壁の地図を背に、軍師エルネストは淡々と言った。
「敵の狙いが食料とイヴェール中枢の掌握であるのなら、ミュスカデルとヴェルト地方を占領した時点でスプリングは当面の目的を達成している。あちらとしてもミュスカデルの戦後処理に集中したい時期……こちらに継戦の意思がないと見れば、たとえ一時的でも追撃の動きは鈍くなる。ならばその間に、然るべき場所へ移り反撃の準備を整えればいい。あの火魔法への対策も含めてだ」
「対策というのは?」
「いくつか案はある。だがこの場で明かせると思うか?」
誰かが問うのに、エルネストは先程反発した兵士を――すっかり大人しくなって俯いていたが――一瞥して言った。
知らないものは、洩らしようがない。敵の切り札に対抗しうる手段となれば、秘匿するのは当然だ。勿論それが、士気を維持するためのハッタリでないとは、誰にも言い切れないのだが。
地図上に円で示されたアマンドは、海辺の要塞のようだ。ならば少なくとも、敵に背後を取られる心配はない。それはイヴェール側に取っても退路がないということに他ならないが、もっと言えば、後ろに守るものの心配をせずに徹底抗戦ができるということでもある。
上手くいけば反転攻勢に出られるが、失敗すれば袋小路の岬で叩き潰される――転戦は諸刃の剣と見えたが、ここに留まり続けるのはそれ以上に不毛ということか。
思考は堂々巡りに陥っていた。それが最善と頭で理解しても、敵に背を向けるのには抵抗がある。それは何もリュヌ一人に限った話ではないようで、フォルテュナ、コレットは勿論、ジルやバティスタも複雑そうな表情を浮かべていた。ベルナールだけが顔色を変えず、壇上の軍師を見詰めていた。
「……家族を残してきた者も、仲間を殺された者もあるだろう。敵を目前にして背を向けることに、抵抗があるのは理解している」
進行を軍師に任せていたセレスタンが、口を開いた。
「それは君達が、何よりもミュスカデルとイヴェールを想ってくれていることの証だ。けれど、これはもう、がむしゃらに立ち向かうだけで勝てる戦いじゃない。だから――」
「セレス、もう結構ですわ」
凛とした声が、セレスタンの演説を遮った。護衛の手を払ってつかつかと進み出たのは、皇女ベアトリスだ。思わぬ展開に、リュヌは目を見開いた。
「わたくしから、お願いいたします」
皇女はセレスタンの隣に並ぶと、演壇に身を乗り出した。誰もが少なからぬ驚きを持って、その行動を受け止めていた。何故なら在りし日のミュスカデルに見た彼女は、進んでこの場に首を突っ込むような人間ではなかったからだ。
リュヌ一人が、妙に納得した気分で壇上の少女を見詰めていた。曇りのない青の瞳には、皇女としての確固たる意思が燃えている。
「父は……皇王ファブリスは、あの夜、わたくしの眼の前で首を刎ねられました」
思い出して気分が悪くなったのだろう、ベアトリスは掻き毟るように、花色の衣の胸を掴んだ。それでも、演説を止めようとはしなかった。
「わたくしは愚かでした。あなた方の痛みも知らず、のうのうとしていた。そんなわたくしが――今更何をと思われることでしょうが――」
そこまで言って、ベアトリスは首を垂れた。悔恨と自責の中に、続く言葉を探しているかのようだった。しかしやはり、止めようとはしなかった。
「喪ったものは大きく、わたくしとてこれ以上は喪いたくありません。けれどいつか取り戻すためには、決断を下さねばならないこともあります。再びミュスカデルに戻る日のために必要ならば、寄り道も回り道も敢えていたしましょう」
不安と動揺にざわついていた室内は、いつの間にか静まり返っていた。彼女の一言一言に、誰もが一心に身を傾けていた。その空気を肌に感じるのか、ベアトリスは一つ大きく深呼吸し、そして続けた。
「西の果てに希望があるというのなら、わたくしは信じます。あなた方と同じ場所に立って、抗います。ですからどうか、一緒に信じては下さいませんか?」
たとえそれが、ゼロを一にするだけの微かな光でも。
半ば叫ぶように訴えて、皇女は演壇に爪を立てる。白い肩は緊張に震えていたが、その双眸は真っ直ぐに臣下達を見据えていた。
どこからともなく、手を叩く音がする。
それは息をする間に広がって、割れるような拍手の中である者は跪き、ある者は祈りを捧げた。安堵の余り瞳を潤ませて、皇女は高らかに告げた。
「ありがとう――この先何があったとしても、わたくしは、あなた方と共に戦い抜くことを誓いますわ!」
演壇の後方で、フレデリックはずれた眼鏡を直すのも忘れ、皇女の演説に聞き入っていた。半ば驚き、半ば素直に感心して、ほとんど無意識に呟く。
「姫様に演説の才能がおありだったとは、意外ですね」
「いや、普段が普段な分よく聞こえるだけだ」
辛辣な言葉を吐いて、エルネストは底の深い深緑の瞳を聴衆に向けた。だが経緯はどうあれ、流れとしては悪くない――離反者に対し厳しい態度で臨むことは必要だが、人間というものは何事も強いられれば反発する生き物だ。ベアトリスという御旗の下、兵達が自発的に団結できるのならそれに越したことはない。
「フレデリック」
「はい?」
「この戦い、勝ちに行くぞ」
短く告げて、軍師はコートの裾を翻した。後は任せるとだけ言い残して、悠々と広間を後にする。
本当に人使いの荒いと一人託ちつつも、フレデリックは自然と頬が緩むのを感じていた。あの人がそう言うのなら、勝利への道は開かれているに違いないのだ――後はその道をいかに進むか、それだけに過ぎない。
「では、この後の動きについて説明します」
続く説明を聞きながら、リュヌは奇妙な高揚感を覚えていた。
決して楽な道のりでないことは、分かっている――しかし今度は、敵に追われて逃げるのではない。イヴェールは自らの意思で、新しい一歩を踏み出すのだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
合成師
あに
ファンタジー
里見瑠夏32歳は仕事をクビになって、やけ酒を飲んでいた。ビールが切れるとコンビニに買いに行く、帰り道でゴブリンを倒して覚醒に気付くとギルドで登録し、夢の探索者になる。自分の合成師というレアジョブは生産職だろうと初心者ダンジョンに向かう。
そのうち合成師の本領発揮し、うまいこと立ち回ったり、パーティーメンバーなどとともに成長していく物語だ。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
老聖女の政略結婚
那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。
六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。
しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。
相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。
子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。
穏やかな余生か、嵐の老後か――
四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。
クラス転移したら種族が変化してたけどとりあえず生きる
あっとさん
ファンタジー
16歳になったばかりの高校2年の主人公。
でも、主人公は昔から体が弱くなかなか学校に通えなかった。
でも学校には、行っても俺に声をかけてくれる親友はいた。
その日も体の調子が良くなり、親友と久しぶりの学校に行きHRが終わり先生が出ていったとき、クラスが眩しい光に包まれた。
そして僕は一人、違う場所に飛ばされいた。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる