3 / 4
第1話(継続)「凶星の街にて――あるいは、死にたがりの誤読について」
しおりを挟む幸福を売る屋台を畳み、石畳の冷たさに腰を下ろすと、胸の奥で、例の黒い渦がまた回りはじめた。うまく言えないが、あれは潮の満ち引きのようなものだ。来るな、と命じても来る。来たまえ、と誘っても、やっぱり来る。私はそれを希死念慮と呼んでいる。呼び名を与えると少しは軽くなる――そういう俗な療法を、私はすぐ真似する。
死にたい。
異世界であれ、地球であれ、私は同じ声で同じ台詞を心の中の壁に書きつける。墨は乾くことを知らない。手の甲で拭っても、また濃くなる。濃くなるたび、私は観念する。ああ、今日も生きてしまった、と。
女神は言った。「幸福を映して」と。私は頷いた。ええ、映しましょう、いくらでも。けれど鏡に写るのは他人ばかりで、肝心の自分がどれだか分からない。私はときどき客の顔を見て、自分の生前写真ではないかと勘違いする。似ても似つかないのに、悲しみが似合う顔は、みな似て見える。
黒曜の星盤を二度、指で叩く。
針がためらいがちに揺れて、やがて“空乾”へ落ち着く。私は肩を竦め、いつものように諦める。凶。だが、凶という言葉はあまりにも勤勉で、毎日欠勤しないから困る。たまには休め、と声をかけたい。凶まで働き者では、吉が泣く。
灯が一つ、二つ、通りの向こうで消える。市場のざわめきは下戸の鼻歌みたいにかすれて、夜の喉仏に引っかかったまま途切れない。私は小さな紙片を取り出して、六度、宙へ投げた。易符は淡く光り、石畳に柔らかな線を描いて並ぶ。乾でも坤でもない。今日は“坎”。水が重なる。危し、と書いて、なお進め、と読む。私はうなずいた。そうか、進めるのか。では、どこへ? 私はいつも進む前に迷子になる。迷子になるために進むのだとしたら、それは滑稽で、そして救いがたい。
「先生、まだやってますか」
視線を上げると、昼間の女剣士が立っていた。灯りに縁取られ、影は長く貧しい。私は慌てて屋台の札をひっくり返す。休業の札を営業に。休むのは得意でも、休業は不得手だ。
「ただいまより臨時の開店です。どうぞ、どうぞ」
女剣士は苦笑して座る。銅貨の用意がいい。生き延びたい人ほど、支払いは迅い。私は紙片を整え、星盤の布を外す。光が指先で震えて、私の弱気を明るみに出す。
「さっきの……“選べ”というやつ、もう一度聞きたくて」
「選び疲れはしていませんか」
「疲れています。だから、選びたいのかもしれません」
なんという、正直。私は嫉妬する。私はいつも正直を言い出す前に、皮肉を一枚、羽織ってしまう。寒いからだ。寒いから、嘘を着る。
「では簡易占。九星羅盤、開示」
黒曜が低く鳴って、空気の縫い目がほどける。目に見えない方位の川が、彼女の背から前へ、前から遠くへ流れていく。私は指でひとすじ掬って、舌の上で味を見るふりをする。苦い、と言えばたいてい当たる。だが今日は塩辛い。保存された涙の味がする。
「あなたの迷いは、ほとんど“礼儀”ですね。みんなの顔を立てようとして、誰の顔も立っていない。踏まれるのは、あなたの胸ばかり」
女剣士は目を伏せる。私は続ける。
「選ぶとは、誰かを裏切ることです。ときどき、自分を裏切ることでもあります。裏切りを恐れて眠れない夜に、私はいつも、不眠という誠実を選びます。誰も愛さずに済むからです」
「先生は、選ぶんですか」
「選びません。選ばないという選択肢に、私はこっそり丸を付ける。それでも明日は来る。選ばない者にだけ、明日はずけずけと上がり込む。非常識な客人です」
彼女は笑った。夜の笑いは、静けさのほうが先に頬を緩める。私は銅貨を受け取り、彼女の背に小さな符を貼る。凶兆反転。私の凶を、薄く一枚だけ彼女へ渡す――いや、違う、返すのだ。私の凶は増えるばかりで、持て余している。分け合うのは善い、と子供向けの絵本に書いてあった。凶まで分けるのは悪徳かもしれないが、私にはほかの慈善がない。
「ありがとう、先生。また来ます」
「ええ、また迷ってください。迷って来ない人より、ずっとましです」
足音が去る。私は胸に手を当てる。胸は、まだ温かい。生きている。生きていることに、私はいつだって驚く。うっかりして、生き延びてしまった。そんな調子だ。
星盤がひとりでに回る。針が夜空を指す。見上げると、月があった。女神の名を盗んだ月。私は睨む。月は私を見ない。よい。見られないほうが楽で、見られないまま寂しい。寂しさは、私が世界と握手するときの手汗のようなものだ。拭っても拭っても、湿る。
私は知っている。死にたい、という言葉は、だいたいの場合、死にたくないの婉曲だ。助かりたい、と口にするのは恥ずかしい。だから、反対の言葉で口を濡らす。濡らしておけば、喉が詰まらない。私は卑怯者だ。卑怯者は、よく生きる。よく生きて、よく疲れる。疲れすぎて、また死にたくなる。ぐるぐる回って、私はついに目を回す。子どものように、その場で倒れて眠りたい。眠りは私に残された最後の贅沢で、最初の借金だ。借りた眠りを、いつ返すのか。私は簿記ができない。
「――先生」
また声。今度は小柄な少年だ。瞳の黒さが、夜より濃い。人の不幸は、濃淡で測れてしまう。私は悲しくなる。悲しいとき、私は余計に饒舌だ。
「鑑定ですか、相談ですか、それとも雑談ですか」
「幸福は、買えますか」
真顔で言う。私はうつむく。よくぞ正面から撃ってくれる。正面から撃たれると、私はかえって楽になる。斜めから撃たれると、古傷が疼く。
「銅貨三枚で、仮の幸福。七枚で、一週間ぶんの納得。十六枚で、夜にうなされない保証書を発行します。ただし、保証人はあなた」
少年は小さく笑って、三枚だけ置く。私は頷く。安物の希望を、わざと安く売る。高い希望は、たいてい私の手を焦がす。
九星羅盤。今回は巽、風が指を鳴らす。私は易符を一枚、少年の掌に伏せる。開くと“観”。よく見ること。見られること。私はそこで少し困る。あなたは、よく見なさい。あなたは、よく見られなさい。どちらも難しい。見ようとすると怯え、見られると怯える。怯えながら、私たちは生きる。怯えは卑怯のちいさな苗だが、風通しが良いと、案外きれいに育つ。
「君は、よく見えすぎる。だから、よく怯える。怯えたまま、助けを呼べばいい。声が出ない夜は、卓を叩け。叩けない夜は、灯りを消せ。消した灯りの暗さで、君の位置が分かる」
少年は頷く。「先生は、呼びましたか」
「呼んだふりをして、呼びませんでした。私は愚か者で、愚か者は自分で自分を治療したがる。治療の名を借りた孤独の堆積です。危ない土砂崩れです」
「じゃあ、今、呼んでください」
私は目を瞬く。たじろぐ。たじろぎながらも、星盤に手を置く。指が勝手に動いて、天と水を重ねる。訟。争い、そして言葉。私は夜に向けて、ひどく小さな声で言う。
「……助けて」
少年が笑う。無邪気は、奇跡の下位互換だ。下位互換でも、十分に救う。私は生きている。口に出して、また驚く。私は生きている、と告げることほど、みっともなく、まっとうな自慢はない。
少年が去ると、私は自分の言葉を拾い集める。拾ったそばから砂になる。砂を握る。握ったそばから零れる。零れたそばから、夜が乾かす。乾いた掌に、月の粉が残る。私はその粉を舐めて、顔をしかめる。甘さのふりをした苦さだ。私は賢くない。甘いものと苦いものの区別がつかない。幸福と不幸の区別も、もちろん。
屋台を畳み、宿へ歩く。宿の階段は相変わらず傾いて、私の背骨の曲がりを責める。部屋に入る。窓を少しだけ開ける。夜の音を入れて、臭い思考を出す。入れ替えは大事だ。私は換気の宗派に入信している。宗派は、きれいな空気が教義だ。賛美歌は風鈴。
寝台に倒れ、天井の節目を数える。数えても、眠れない。眠れないとき、私は手さぐりで星盤を探す。指先が触れる。心臓が、そこに移植されたみたいに鳴る。私は忍び笑いをして、六度、易符を投げる。出た卦は“復”。ふたたび。戻る、という意味だ。どこへ。どこへ戻る。私はいつも、戻り先を失くしてから散歩に出る。
女神が、夢の端に立つ。声はない。笑いだけがある。笑いは、言葉の遺児だ。私は手を伸ばす。届かない。届かないと分かっていて、伸ばす。伸ばすことが、かろうじて生の礼儀だから。
私はまた思う。死にたい。
同じだけ、助かりたい。
薄情な秤を、私は毎晩、水平だと嘘をついて眺める。傾いたほうが楽だ。楽で、怖い。怖いのに、私は楽を選びたがる。弱者とは、楽を選んで怯える者の別名だ。
「ヨウマ」
誰かが呼ぶ。内側から。声に似た私の残骸が、呼ぶ。返事をしないと、いつか誰も呼ばなくなる。私は恐ろしくなって、唇を割る。
「ここに」
返事をした。呼ばれて、返事をした。たったそれだけで、私は少しだけ、眠りと和解する。和解は泰の下位互換だ。下位互換でも、世界は眠る。
灯りを落とす前に、私は帳場の紙に一行、走り書きをした。
> 『本日の営業:銅貨十五。助けて、の練習。一回成功』
字がひどい。ひどい字ほど、誠実でみすぼらしい。私はそれを好む。みすぼらしいものは、たいてい嘘が下手だ。
灯りを消す。暗さが、やっと私と同じ重さになる。息が合う。私は不意に思い出す。昼間の女剣士の笑い。夜の少年の問い。女神の沈黙。どれも、私に似ていない。似ていないから、私は少しだけ好きになる。自分に似たものばかり抱いていると、人は自分に窒息する。私はよく窒息した。だから今夜は、他人の空気で呼吸する。
眠りが来る。来るな、と命じても来る。来たまえ、と誘っても来る。私はそれを幸福と呼ばない。呼ばないけれど、否定もしない。私は名前の付け方を少し、学んだ。幸福に安易な名を付けるのは、たぶん不幸の商売だ。私は幸福を売るが、名札は付けない。買った者が好きに呼べばいい。そういう商人を、私は少しだけ許せる。少しだけ――それが、今夜の全財産である。
明日、また売ろう。
凶を薄く削って、誰かの掌に小さく乗せる。
まるで砂糖菓子のように、毒のない嘘を添えて。
私は嘘つきの端くれで、嘘つきの商売は、案外、誠実だ。
死にたい、と私は今日も書いた。
助かりたい、と私は声にしなかった。
だから帳場に追伸を書く。灯りをもう一度だけ点けて。
> 『追伸:助かりたい。これを明朝の私に渡すこと』
火を消す。夜が、ようやく私を抱く。抱かれることに慣れていない新参の赤子みたいに、私はぎこちなく目を閉じる。
生きてしまうことの、なんと不器用で、なんと嘘の少ないことか。
私はその不器用を、少しだけ、信じようと努力する。努力は宗教の最下段に置かれた木の踏み台だ。高い聖堂のきらめきには届かないが、段差一つぶんなら、どうにか越えられる。
おやすみ、と誰にも聞こえない挨拶をした。
誰も返事はしない。返事のない世界で、私はそれでも、返事を待つ。
待つことに、名前は要らない。
ただ、待つ。
――凶星の夜は、静かで、やさしい。
0
あなたにおすすめの小説
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
友人の結婚式で友人兄嫁がスピーチしてくれたのだけど修羅場だった
海林檎
恋愛
え·····こんな時代錯誤の家まだあったんだ····?
友人の家はまさに嫁は義実家の家政婦と言った風潮の生きた化石でガチで引いた上での修羅場展開になった話を書きます·····(((((´°ω°`*))))))
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる