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1☆side陽一
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スマートフォンの画面から上げられた顔が一瞬ホッとしたように緩み、すぐに不機嫌な表情へと切り替わる。日差しに当てられた肌は赤く、額には汗が浮かんでいた。
「お前、初デートで遅刻とかサイテーだからな」
大きな街路樹の下、見慣れた駅前の景色がゆっくりとぼやけていく。
「遅れるなら連絡くらいしろよ」
そう言われて俺は曖昧に笑った。
——わかっている。
この時間が永遠には続かないことを。
吸い込んだ空気の熱が喉に触れ、俺の声は少し震えた。
「ごめん……寝坊した」
俺が両手を合わせて頭を下げると、鳴き出した蝉の声と吐き出されたため息が重なった。
「昼メシ、奢れよな」
そう言って笑った顔はあの日と同じ。
——少しも変わってはいなかった。
*
ずっと一緒だった。
一緒だったからこそ自覚してしまった自分の気持ちに耐えきれなくなって、俺は大学進学を理由に生まれ育った町を離れることにした。俺には自分の気持ちに向き合う強さもそれを伝える勇気もなかった。この関係が壊れてしまうくらいなら今の幸せな思い出のままで終わりたい。離れていればこの想いもきっと薄れていくはずだ。
だから——その出発の日に自分が言えなかった言葉を聞くことになるなんて、本当に思ってもいなかったんだ。
「え、今なんて……」
聞こえた言葉が信じられず、そう聞き返した俺に樹は、泣き出すのを堪えるように顔を赤くして俺を睨み上げた。
ゆっくりと沈んでいく太陽の光が樹の顔を流れていき、重なり合う足元の影が溶けていく。
「だから、陽一のことが好きだって……言ったんだよ」
低くなっていく気温に吐き出された樹の息が白く浮かんだ。
それが冗談で言えるようなことじゃないと俺は知っていて。
樹がそんな冗談を言う奴じゃないとわかっていて。
それでも、どうしても簡単には信じられなくて。
「マジで、言ってんの……?」
「っ、こんなこと、冗談で言えるわけないだろっ!!」
そう言って見上げてきた樹の強い視線に、俺は思わず息を止めた。
「……」
唐突に、耳に馴染みすぎて意識していなかった波の音がやけにはっきりと聞こえるようになった。少しだけ丸みを帯びた冷たい風には潮の香りがして、木蓮の白い花びらは小さな改札口の向こう、点いたばかりの外灯の光の中で揺れている。
聞こえていなかった音が、見えていなかった景色が、急激に鮮やかさを注ぎ込まれて俺の前に現れた。
ゆっくりと大きくなっていく自分の心臓の音さえ愛おしくなる。
「……ごめん」
俺の言葉は聞き返してしまったことに対してだったのだけれど、樹はそうは受け取らなかった。
「っ、……いいよ。わかってたから。お前が俺のこと幼馴染以上に想ってないってわかってたから……」
背けられた横顔を小さな雫が流れていき、それを拭おうとした樹の手を俺はとっさに掴んだ。
「!」
驚き振り返った樹に、俺は言わないと決めていた気持ちを吐き出した。
「そうじゃなくて!そうじゃなくて……俺も、お前のことがずっと好きだったから」
「え」
「だから、本当は嬉しくて、でもこんなことあり得ないってずっと思ってたから、だから、」
——言わない。
そう決めていたのに。
今度は樹が信じられないといった表情で、俺を見てきた。さっきまでの涙は引っ込んでいる。代わりに今度は俺の方が泣きそうだった。鼻の奥が痛くなり、両目に熱が集まっていく。
「……マジ?」
樹が首の後ろに手を当てながら聞き返した声は、俺が鼻をすする音と重なった。
ふっと力が抜けたように笑った樹に、俺は先ほどの樹の言葉を真似てやる。
「こんなこと冗談で言えるわけない、だろ」
繋がった視線にお互いの気持ちが痛いほど流れてくる。
抱えてきた不安も苦しさも、今この瞬間に驚きと安堵へと変わってしまった。胸の奥から溢れてくるのはもう切なさではなくて、どうしようもないほどの幸福感だった。想像もしていなかった感情は心地いいのにひどくくすぐったい。
「ふ、ふは、確かに。なんだよ、もっと早く言えよなぁ」
「ふ……お前こそ。こんな引越当日に言うとか、なんなんだよなぁ」
重なり合うお互いの笑い声が耳の中で弾む。
「こんなことでもなきゃ言えなかったんだよ。今日ならフラれても、しばらく会うこともないからいいかと思って……」
恥ずかしそうに顔を赤らめて視線を外す樹に、そんな表情を俺に見せてくれる樹に、俺は加速度的に大きくなっていく自分の気持ちを止められなくなり、繋いだままの手にそっと力を加えた。すると、すぐに俺の手は同じ強さで握り返された。
「フってないけどな」
「それな……まさか過ぎるわ」
笑って言っていたけれど、その声はわずかに震えていた。
「俺だってお前が告ってくるなんて思わなかったわ。俺もう行かなきゃなのに」
遠くで踏切が閉まるのを知らせる警報音が鳴っていた。
薄暗くなっていく景色の中に小さな光が揺れている。
一時間に一本しかない電車がもうすぐここにやってくる。
「じゃあ……元気でな」
「お前もな」
言いたいことはもっとあるはずなのに、俺はそうやって返すことしかできない。
どんな言葉でも今この瞬間に口にしたら、胸が苦しくなりそうだった。
「陽一、今度会うときは——」
——その時の言葉を、その時の樹の表情を、俺は一生忘れないだろう。
*
生ぬるい風が俺たちの頭上で緑の葉を揺らし、いつのまにか増えていた蝉の声と重なる。
「あー、もうあっついから早く行くぞ」
そう言って首の後ろを触る、そのクセがとても懐かしくて。
先に歩き出そうと向けられた背中に惹きつけられるように俺の足は動いた。
「ちょ、お前何して」
驚き振り返ったくせに、樹は俺から繋いだ手を振り解きはしなかった。
「デートなんだろ?」
「……まぁ、いいけど。お前の手、冷たくて気持ちいいし」
そう言われて、俺は自分から触れたはずの樹の手の温度をうまく感じ取れないことに気づく。俺の方が冷たいなら温かく感じてもいいはずなのに。
「で?どこに連れてってくれるわけ?」
「ここまで来たら、ここしかないでしょ」
俺は用意していたテーマパークの案内図をカバンから取り出した。二人分のチケットはあの日からずっと財布に入ったままだ。
「マジ?」
「おう、早く行こうぜ」
「遅刻して来たのはお前だろうが」
「……そうだった」
俺は小さく笑って樹の手を引き、バスロータリーへと足を向ける。
「あれ?電車じゃないんだ」
「うん、バスで行けるから」
樹は一瞬不思議そうな顔をしたけれど、すぐに「そうなんだ」と呟いた。
「お前、初デートで遅刻とかサイテーだからな」
大きな街路樹の下、見慣れた駅前の景色がゆっくりとぼやけていく。
「遅れるなら連絡くらいしろよ」
そう言われて俺は曖昧に笑った。
——わかっている。
この時間が永遠には続かないことを。
吸い込んだ空気の熱が喉に触れ、俺の声は少し震えた。
「ごめん……寝坊した」
俺が両手を合わせて頭を下げると、鳴き出した蝉の声と吐き出されたため息が重なった。
「昼メシ、奢れよな」
そう言って笑った顔はあの日と同じ。
——少しも変わってはいなかった。
*
ずっと一緒だった。
一緒だったからこそ自覚してしまった自分の気持ちに耐えきれなくなって、俺は大学進学を理由に生まれ育った町を離れることにした。俺には自分の気持ちに向き合う強さもそれを伝える勇気もなかった。この関係が壊れてしまうくらいなら今の幸せな思い出のままで終わりたい。離れていればこの想いもきっと薄れていくはずだ。
だから——その出発の日に自分が言えなかった言葉を聞くことになるなんて、本当に思ってもいなかったんだ。
「え、今なんて……」
聞こえた言葉が信じられず、そう聞き返した俺に樹は、泣き出すのを堪えるように顔を赤くして俺を睨み上げた。
ゆっくりと沈んでいく太陽の光が樹の顔を流れていき、重なり合う足元の影が溶けていく。
「だから、陽一のことが好きだって……言ったんだよ」
低くなっていく気温に吐き出された樹の息が白く浮かんだ。
それが冗談で言えるようなことじゃないと俺は知っていて。
樹がそんな冗談を言う奴じゃないとわかっていて。
それでも、どうしても簡単には信じられなくて。
「マジで、言ってんの……?」
「っ、こんなこと、冗談で言えるわけないだろっ!!」
そう言って見上げてきた樹の強い視線に、俺は思わず息を止めた。
「……」
唐突に、耳に馴染みすぎて意識していなかった波の音がやけにはっきりと聞こえるようになった。少しだけ丸みを帯びた冷たい風には潮の香りがして、木蓮の白い花びらは小さな改札口の向こう、点いたばかりの外灯の光の中で揺れている。
聞こえていなかった音が、見えていなかった景色が、急激に鮮やかさを注ぎ込まれて俺の前に現れた。
ゆっくりと大きくなっていく自分の心臓の音さえ愛おしくなる。
「……ごめん」
俺の言葉は聞き返してしまったことに対してだったのだけれど、樹はそうは受け取らなかった。
「っ、……いいよ。わかってたから。お前が俺のこと幼馴染以上に想ってないってわかってたから……」
背けられた横顔を小さな雫が流れていき、それを拭おうとした樹の手を俺はとっさに掴んだ。
「!」
驚き振り返った樹に、俺は言わないと決めていた気持ちを吐き出した。
「そうじゃなくて!そうじゃなくて……俺も、お前のことがずっと好きだったから」
「え」
「だから、本当は嬉しくて、でもこんなことあり得ないってずっと思ってたから、だから、」
——言わない。
そう決めていたのに。
今度は樹が信じられないといった表情で、俺を見てきた。さっきまでの涙は引っ込んでいる。代わりに今度は俺の方が泣きそうだった。鼻の奥が痛くなり、両目に熱が集まっていく。
「……マジ?」
樹が首の後ろに手を当てながら聞き返した声は、俺が鼻をすする音と重なった。
ふっと力が抜けたように笑った樹に、俺は先ほどの樹の言葉を真似てやる。
「こんなこと冗談で言えるわけない、だろ」
繋がった視線にお互いの気持ちが痛いほど流れてくる。
抱えてきた不安も苦しさも、今この瞬間に驚きと安堵へと変わってしまった。胸の奥から溢れてくるのはもう切なさではなくて、どうしようもないほどの幸福感だった。想像もしていなかった感情は心地いいのにひどくくすぐったい。
「ふ、ふは、確かに。なんだよ、もっと早く言えよなぁ」
「ふ……お前こそ。こんな引越当日に言うとか、なんなんだよなぁ」
重なり合うお互いの笑い声が耳の中で弾む。
「こんなことでもなきゃ言えなかったんだよ。今日ならフラれても、しばらく会うこともないからいいかと思って……」
恥ずかしそうに顔を赤らめて視線を外す樹に、そんな表情を俺に見せてくれる樹に、俺は加速度的に大きくなっていく自分の気持ちを止められなくなり、繋いだままの手にそっと力を加えた。すると、すぐに俺の手は同じ強さで握り返された。
「フってないけどな」
「それな……まさか過ぎるわ」
笑って言っていたけれど、その声はわずかに震えていた。
「俺だってお前が告ってくるなんて思わなかったわ。俺もう行かなきゃなのに」
遠くで踏切が閉まるのを知らせる警報音が鳴っていた。
薄暗くなっていく景色の中に小さな光が揺れている。
一時間に一本しかない電車がもうすぐここにやってくる。
「じゃあ……元気でな」
「お前もな」
言いたいことはもっとあるはずなのに、俺はそうやって返すことしかできない。
どんな言葉でも今この瞬間に口にしたら、胸が苦しくなりそうだった。
「陽一、今度会うときは——」
——その時の言葉を、その時の樹の表情を、俺は一生忘れないだろう。
*
生ぬるい風が俺たちの頭上で緑の葉を揺らし、いつのまにか増えていた蝉の声と重なる。
「あー、もうあっついから早く行くぞ」
そう言って首の後ろを触る、そのクセがとても懐かしくて。
先に歩き出そうと向けられた背中に惹きつけられるように俺の足は動いた。
「ちょ、お前何して」
驚き振り返ったくせに、樹は俺から繋いだ手を振り解きはしなかった。
「デートなんだろ?」
「……まぁ、いいけど。お前の手、冷たくて気持ちいいし」
そう言われて、俺は自分から触れたはずの樹の手の温度をうまく感じ取れないことに気づく。俺の方が冷たいなら温かく感じてもいいはずなのに。
「で?どこに連れてってくれるわけ?」
「ここまで来たら、ここしかないでしょ」
俺は用意していたテーマパークの案内図をカバンから取り出した。二人分のチケットはあの日からずっと財布に入ったままだ。
「マジ?」
「おう、早く行こうぜ」
「遅刻して来たのはお前だろうが」
「……そうだった」
俺は小さく笑って樹の手を引き、バスロータリーへと足を向ける。
「あれ?電車じゃないんだ」
「うん、バスで行けるから」
樹は一瞬不思議そうな顔をしたけれど、すぐに「そうなんだ」と呟いた。
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