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2★side樹
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何度Tシャツの袖で拭ってもキリがなかった。高くなっていく気温に汗が止まることはない。日差しは強くなり、それに合わせて蝉の声も煩くなっていった。少しでも日陰にとどまりたいが、並んでいる列が進めば否応無しに太陽の下に引っ張り出されてしまう。
「あっちー」
無駄な抵抗とわかりつつも俺は片手で顔を扇いでみる。俺の力で起こせる風は微かなものでしかないので漂う蒸し暑い空気に一瞬で飲み込まれてしまった。
「そう?」
隣に立つ陽一が顔を傾けるようにして俺を振り返る。
透き通るような白い肌には汗が一粒も見つけられなくて、俺は暑さにやられた心のまま言葉をぶつけてしまう。
「お前さ、なんでそんな涼しそうな顔できるわけ?知ってる?今日の最高気温三十五度なんだけど?」
陽一が悪いわけでは決してないのだが、俺はこの居心地の悪ささえも一緒に感じて欲しくて表情を歪める。対して陽一はトゲトゲした俺の声を聞きながら、ふっと表情を緩めた。
「なんだろう。なんか夢みたいで、ふわふわして落ち着かないんだよね。久しぶりで緊張?してんのかな」
そんな言葉が返ってくるとは思わなかった俺は、自分の言動を大いに反省すると同時に大きくなっていく心臓の音を自覚した。一向に温まることなく心地よい温度を伝えてくれる陽一の手を少しだけ強く握る。
「……お前、なんかあった?」
「え?」
「暑さでやられた?」
「なんで?」
「そういうこと、前は言わなかったじゃねーか」
「そう、かな?」
「まぁ、俺も緊張してるけどさ」
そんなふうに言ってから『前』はまだ俺たちはただの幼馴染でしかなかったのだと気づいて、そんなの当たり前だったなと思い直す。
一緒にいられることが当たり前で二人でいることになんの不安も疑いもなかったあの頃、俺たちは『幼馴染』で『親友』だった。
——だから、言えなかった。
俺が本当の気持ちを伝えてしまったら、きっとこの関係は終わってしまうのだろう。
陽一と一緒にいられなくなってしまうのだけは嫌だった。
——だったら、俺の気持ちなんて言わなくてもいい。
*
少し考えればわかることだった。
それなのに俺は今の今までその可能性をちっとも考えていなかった。
教室を飛び出した俺は廊下を走り抜け階段を一段飛ばしで駆け下りる。角を曲がると同時に『進路指導室』から出てきた陽一の姿が視界に入った。
「陽一!」
頭を下げてドアを閉めていた陽一が驚いた顔で振り向いた。
衣替えをしたばかりの袖から伸びる白い腕がカラフルなパンフレットを抱えている。
「え、樹?」
走ってきた勢いで俺は陽一の肩を掴み、乱れた呼吸のまま問いかけた。
「陽一、大学、地元じゃないって、ホント?」
その事実を俺以外のクラスのみんなは当たり前のように受け入れていた。
誰も疑問にすら思っていなかった。
陽一の成績を考えたら当然だろう、と。
——だけど、俺はそうじゃなかった。
直接確かめずにはいられなかった。
陽一の口から聞くまでは信じたくなかった。
「……うん」
小さく頷いた陽一に、俺は声が震えないようにするので精一杯だった。
「そ、そっか。本当、なんだ……本当に出ていくんだ」
うまく笑えていないことは自分でもわかっていたけれど、どうしようもなかった。胸の奥で生まれた寂しさが膨れ上がり俺の体の中を埋め尽くす。
陽一は一瞬何かを飲み込んだくせに、俺の表情には一切触れなかった。
「樹は、残るんだろう?」
俺の家はじいちゃんの代から続く和菓子屋だった。俺は店を継ぐために地元の専門学校への進学を早くから決めていた。
「……うん、まぁ」
俺は何を期待したのだろう。
自分から告げる勇気はないくせに……この気持ちに気づいて欲しい、なんて。
離れたくない、なんて。
一緒に寂しさを感じて欲しい、なんて。
そんな都合のいいこと起こるわけがないのに。
——言わないつもりだった。
言ったところで困らせるだけだとわかっていたから。
だから最後まで幼馴染として笑って見送るつもりだった。
それなのに、大きな荷物を持って寂れたホームに立つ陽一の姿に俺の胸はどうしようもなく苦しくなった。今まで散々聞いてきて、言葉にしてきて、わかっていたはずなのに、その瞬間まで俺は陽一がいなくなるという実感がなかった。
陽一が本当に町を出ていってしまうのだと、そう唐突に理解して、寂しさでいっぱいになった。
もしかしたら、このまま会えなくなるのではないだろうか。
そんなことまで考えてしまって、気づいたらこぼれてしまっていた。
「……好きだ」
伝えるだけでいいと思っていた。
勝手に抱えきれなくなったのは俺の方だったから。
応えてもらえるなんて、同じ気持ちを返してもらえるなんて思ってもいなかった。
*
「樹?」
「!」
名前を呼ばれて顔を上げると、すぐ前にあったはずの高校生らしき女子二人の背中が遠くなっていた。いつの間にか列が進んでいたらしい。
そっと引かれた手から心地よい体温と優しい力が伝わってくる。
それだけで、俺は胸がいっぱいで泣きそうだった。
気持ちが通じた途端に会えなくなった。物理的な距離だけでなく、新しい生活に馴染むための時間も俺たちを離した。連絡はとっていたけれど、直接会うことも触れることもできなかった。
お互いが夏休みに入ってようやく会うことができた。
時間にして四ヶ月。
そんなに長い間会わなかったのは初めてだった。
「今度会う時は——」
そう言ったのは自分だったけれど、本当は少しだけこわかった。
本当に俺たちの関係は変わったのだろうか。
離れている間に元に戻ってしまってはいないだろうか。
十五年も続いた幼馴染という関係性はそんなに簡単に変えられるものではない気がして、俺は少しでも変わった実感が欲しかった。
だから、陽一から手を繋いできてくれたことがどうしようもなく嬉しかった。
——夢みたいだと思ったのは、俺の方だ。
カシャッ。
軽いシャッター音が聞こえ、顔を向けると前に並んでいる女子二人がスマホを掲げて写真を撮っていた。
「……」
不意に、鳴り続けるだけで繋がることのなかった呼び出し音が俺の耳の奥で蘇る。
「そういえば、お前スマホは?」
「え」
「この前新しい機種にしたって言ってたじゃん」
「あ、うん。えっと……」
陽一が珍しく視線を揺らし言葉を詰まらせた。
「??……え、なに?もしかして忘れた?」
今の時代、財布は忘れてもスマートフォンは忘れないと思うのだが。雨の予報が出ていなくても常に折りたたみ傘をカバンに入れていた陽一のことだ。そんな重要なものを忘れるなんてとても思えなかったが、こんなふうに動揺している姿は珍しいし、思い返せば今日はそんなことばかりだ。
「……そうみたい」
困ったように笑う陽一に俺は思いっきり大きなため息をついてやった。それは課題を忘れた俺に陽一がノートを貸す前にやっていた仕草そのままだ。
「おっ前さぁ……はー、どうりで何度かけても出ないはずだわ」
「何度もかけてくれたの?」
先ほどまでの困り顔が一瞬にして嬉しそうに緩み、その声は少し弾んでいた。
「っ、当たり前だろ。お前が時間に遅れることなんて珍しいし、事故にでも遭ったのかと思ったわ」
「……」
わずかに進んだ列に合わせて足を進めるとようやく日差しが弱まった。目の前の巨大な建物から伸びる薄い影が体感温度をわずかに下げてくれる。
「何もなくてよかったけどさ……陽一?どうかした?」
隣を歩く陽一の肌は相変わらず白いままで、日陰に入るとより一層透けてしまいそうな空気を纏っていた。
「あ、ううん。なんでも」
「本当は具合悪いとか?」
「そんなことないよ。ほら、さっきも言ったけどさ、なんかこんなに会わなかったことなかったから、だから嬉しくて」
「!……ホント、今日のお前なんなの……」
「え、なにが?」
わずかに俺よりも高い位置にある顔が、俺を覗き込むように傾けられる。白いだけだと思っていた頬はわずかに赤くなっていた。それは日差しに当てられたからだろうか、それとも……
「あー、もう、ホントなんなの。わかったよ。わかったからそれ以上顔近づけるな」
俺は気温以外の理由で自分の顔が熱くなるのを感じていた。
「あっちー」
無駄な抵抗とわかりつつも俺は片手で顔を扇いでみる。俺の力で起こせる風は微かなものでしかないので漂う蒸し暑い空気に一瞬で飲み込まれてしまった。
「そう?」
隣に立つ陽一が顔を傾けるようにして俺を振り返る。
透き通るような白い肌には汗が一粒も見つけられなくて、俺は暑さにやられた心のまま言葉をぶつけてしまう。
「お前さ、なんでそんな涼しそうな顔できるわけ?知ってる?今日の最高気温三十五度なんだけど?」
陽一が悪いわけでは決してないのだが、俺はこの居心地の悪ささえも一緒に感じて欲しくて表情を歪める。対して陽一はトゲトゲした俺の声を聞きながら、ふっと表情を緩めた。
「なんだろう。なんか夢みたいで、ふわふわして落ち着かないんだよね。久しぶりで緊張?してんのかな」
そんな言葉が返ってくるとは思わなかった俺は、自分の言動を大いに反省すると同時に大きくなっていく心臓の音を自覚した。一向に温まることなく心地よい温度を伝えてくれる陽一の手を少しだけ強く握る。
「……お前、なんかあった?」
「え?」
「暑さでやられた?」
「なんで?」
「そういうこと、前は言わなかったじゃねーか」
「そう、かな?」
「まぁ、俺も緊張してるけどさ」
そんなふうに言ってから『前』はまだ俺たちはただの幼馴染でしかなかったのだと気づいて、そんなの当たり前だったなと思い直す。
一緒にいられることが当たり前で二人でいることになんの不安も疑いもなかったあの頃、俺たちは『幼馴染』で『親友』だった。
——だから、言えなかった。
俺が本当の気持ちを伝えてしまったら、きっとこの関係は終わってしまうのだろう。
陽一と一緒にいられなくなってしまうのだけは嫌だった。
——だったら、俺の気持ちなんて言わなくてもいい。
*
少し考えればわかることだった。
それなのに俺は今の今までその可能性をちっとも考えていなかった。
教室を飛び出した俺は廊下を走り抜け階段を一段飛ばしで駆け下りる。角を曲がると同時に『進路指導室』から出てきた陽一の姿が視界に入った。
「陽一!」
頭を下げてドアを閉めていた陽一が驚いた顔で振り向いた。
衣替えをしたばかりの袖から伸びる白い腕がカラフルなパンフレットを抱えている。
「え、樹?」
走ってきた勢いで俺は陽一の肩を掴み、乱れた呼吸のまま問いかけた。
「陽一、大学、地元じゃないって、ホント?」
その事実を俺以外のクラスのみんなは当たり前のように受け入れていた。
誰も疑問にすら思っていなかった。
陽一の成績を考えたら当然だろう、と。
——だけど、俺はそうじゃなかった。
直接確かめずにはいられなかった。
陽一の口から聞くまでは信じたくなかった。
「……うん」
小さく頷いた陽一に、俺は声が震えないようにするので精一杯だった。
「そ、そっか。本当、なんだ……本当に出ていくんだ」
うまく笑えていないことは自分でもわかっていたけれど、どうしようもなかった。胸の奥で生まれた寂しさが膨れ上がり俺の体の中を埋め尽くす。
陽一は一瞬何かを飲み込んだくせに、俺の表情には一切触れなかった。
「樹は、残るんだろう?」
俺の家はじいちゃんの代から続く和菓子屋だった。俺は店を継ぐために地元の専門学校への進学を早くから決めていた。
「……うん、まぁ」
俺は何を期待したのだろう。
自分から告げる勇気はないくせに……この気持ちに気づいて欲しい、なんて。
離れたくない、なんて。
一緒に寂しさを感じて欲しい、なんて。
そんな都合のいいこと起こるわけがないのに。
——言わないつもりだった。
言ったところで困らせるだけだとわかっていたから。
だから最後まで幼馴染として笑って見送るつもりだった。
それなのに、大きな荷物を持って寂れたホームに立つ陽一の姿に俺の胸はどうしようもなく苦しくなった。今まで散々聞いてきて、言葉にしてきて、わかっていたはずなのに、その瞬間まで俺は陽一がいなくなるという実感がなかった。
陽一が本当に町を出ていってしまうのだと、そう唐突に理解して、寂しさでいっぱいになった。
もしかしたら、このまま会えなくなるのではないだろうか。
そんなことまで考えてしまって、気づいたらこぼれてしまっていた。
「……好きだ」
伝えるだけでいいと思っていた。
勝手に抱えきれなくなったのは俺の方だったから。
応えてもらえるなんて、同じ気持ちを返してもらえるなんて思ってもいなかった。
*
「樹?」
「!」
名前を呼ばれて顔を上げると、すぐ前にあったはずの高校生らしき女子二人の背中が遠くなっていた。いつの間にか列が進んでいたらしい。
そっと引かれた手から心地よい体温と優しい力が伝わってくる。
それだけで、俺は胸がいっぱいで泣きそうだった。
気持ちが通じた途端に会えなくなった。物理的な距離だけでなく、新しい生活に馴染むための時間も俺たちを離した。連絡はとっていたけれど、直接会うことも触れることもできなかった。
お互いが夏休みに入ってようやく会うことができた。
時間にして四ヶ月。
そんなに長い間会わなかったのは初めてだった。
「今度会う時は——」
そう言ったのは自分だったけれど、本当は少しだけこわかった。
本当に俺たちの関係は変わったのだろうか。
離れている間に元に戻ってしまってはいないだろうか。
十五年も続いた幼馴染という関係性はそんなに簡単に変えられるものではない気がして、俺は少しでも変わった実感が欲しかった。
だから、陽一から手を繋いできてくれたことがどうしようもなく嬉しかった。
——夢みたいだと思ったのは、俺の方だ。
カシャッ。
軽いシャッター音が聞こえ、顔を向けると前に並んでいる女子二人がスマホを掲げて写真を撮っていた。
「……」
不意に、鳴り続けるだけで繋がることのなかった呼び出し音が俺の耳の奥で蘇る。
「そういえば、お前スマホは?」
「え」
「この前新しい機種にしたって言ってたじゃん」
「あ、うん。えっと……」
陽一が珍しく視線を揺らし言葉を詰まらせた。
「??……え、なに?もしかして忘れた?」
今の時代、財布は忘れてもスマートフォンは忘れないと思うのだが。雨の予報が出ていなくても常に折りたたみ傘をカバンに入れていた陽一のことだ。そんな重要なものを忘れるなんてとても思えなかったが、こんなふうに動揺している姿は珍しいし、思い返せば今日はそんなことばかりだ。
「……そうみたい」
困ったように笑う陽一に俺は思いっきり大きなため息をついてやった。それは課題を忘れた俺に陽一がノートを貸す前にやっていた仕草そのままだ。
「おっ前さぁ……はー、どうりで何度かけても出ないはずだわ」
「何度もかけてくれたの?」
先ほどまでの困り顔が一瞬にして嬉しそうに緩み、その声は少し弾んでいた。
「っ、当たり前だろ。お前が時間に遅れることなんて珍しいし、事故にでも遭ったのかと思ったわ」
「……」
わずかに進んだ列に合わせて足を進めるとようやく日差しが弱まった。目の前の巨大な建物から伸びる薄い影が体感温度をわずかに下げてくれる。
「何もなくてよかったけどさ……陽一?どうかした?」
隣を歩く陽一の肌は相変わらず白いままで、日陰に入るとより一層透けてしまいそうな空気を纏っていた。
「あ、ううん。なんでも」
「本当は具合悪いとか?」
「そんなことないよ。ほら、さっきも言ったけどさ、なんかこんなに会わなかったことなかったから、だから嬉しくて」
「!……ホント、今日のお前なんなの……」
「え、なにが?」
わずかに俺よりも高い位置にある顔が、俺を覗き込むように傾けられる。白いだけだと思っていた頬はわずかに赤くなっていた。それは日差しに当てられたからだろうか、それとも……
「あー、もう、ホントなんなの。わかったよ。わかったからそれ以上顔近づけるな」
俺は気温以外の理由で自分の顔が熱くなるのを感じていた。
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