遅刻の理由

hamapito

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3☆side陽一

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 暑さはそれほど気にならなかったものの、並んでいたたった十分ほどの時間で俺の体力は半分以上削り取られてしまっていた。ようやく入場ゲートをくぐったというのに俺の足は地面の影に沈み込みそうなほど重かった。
「よっしゃ、やっと入れたー!!」
 樹はあんなに「暑い」と連呼していたくせに、入った途端にテンションとエネルギーがチャージされたらしい。声だけでなく体も弾ませて俺を振り返った。
「どっから行く?今日は陽一の誕生日だから、リクエスト聞いてやるよ」
「!」
 ——誕生日。
 樹のその言葉に、俺の心臓はドクン、と大きく音を立てた。
「陽一?」
 不思議そうな表情を見せる樹から視線を逸らし、俺は手にしていた案内図の端っこにあるホラーハウスを指差した。
「えっと、俺コレがいいな」
「え、マジ?」
 俺の指先を確かめた樹の声がわずかに強張る。
「あ、樹こういうのダメだっけ?じゃあ、他の……」
「いや、大丈夫。今日はお前の誕生日だからな。そう誕生日だから……特別だからな」
 樹は自分に言い聞かせるように言葉を繰り返し、ゆっくり息を吐き出した。繋がれている手がふわりと優しく引っ張られる。
「ありがと」
 そう言って俺が笑うと、樹はフイっと顔を背けた。半歩先を歩く樹の首の後ろがじんわりと赤くなっている。
「……おう」
 樹はホラー系が苦手で絶叫系が大好きだ。そのことを俺はもちろん知っていたが、今の俺にとっては体力の回復こそが最優先事項だった。少しでも一緒に楽しむためには仕方がない。

 ——少しでも一緒に、少しでも長く、俺は樹とこの時間を楽しみたいんだ。

   *

「一体、いつになったら会えるんだよ」
 その声だけで俺の頭の中には樹の不機嫌な表情かおが浮かぶ。
 一人暮らしの狭い部屋の中、わずかに開けている窓からは静かな雨の音が流れてくる。梅雨入り宣言から二週間。日中は日が差すこともあるが、夜は雨が降っていることの方が多かった。
 下がりきらない生ぬるい温度と湿った空気を吸い込むと、少しだけ懐かしさが蘇る。樹は梅雨の時期でも登校時に雨が降っていないと傘を持ってこないようなヤツだった。途中で降り出した雨を見上げて「あ、傘忘れた」と俺を振り返る。最初から俺の傘をアテにしているのがバレバレだった。
「だからこの間は急にバイトが……」
「バイトバイトって……そりゃ、俺だって一人暮らしが大変なことくらいわかるけどさ。でも、もう三ヶ月も会ってないんだぞ。お前、ちっともこっちに帰ってこないし」
 樹の言うとおり、俺は上京してからまだ一度も帰省していなかった。五月の連休には帰ろうかと思っていたのだが、新しく始めたアルバイトとゼミの合宿で休みはあっという間に終わってしまった。
 土日で帰れない距離ではないので帰ろうと思ったこともあるのだが、そういう時に限ってゼミの課題が出されたり、アルバイト先に急遽呼ばれたり……誰かに操作されているのではないかと思うほど邪魔が入った。
 あの日——駅のホームで樹と分かれた日——から今日まで俺たちは会うこともできず、季節はもう変わってしまっていた。
「そんなこと言うなら、樹がこっちに来ればいいだろ」
「!」
 目の前の試験さえ乗り切れば、長い夏休みが始まる。
 夏休みといっても、こっちにいる間はどうしたってアルバイトに行く時間が増えてしまうのだけど。
「さすがに俺だって夏休みは帰ろうと思ってるけど、でも前半はまだこっちにいるつもりだし」
「……にち、は?」
 突然樹の声が小さく聞こえづらくなった。
 俺は聞き返すと同時に受話音量を上げる。
「え、なに?」
「来月の二十五日は?」
「え」
「だから、二十五日は空いてるのかって!」
 耳の奥まで響く大きな声に、俺は持っていたスマートフォンを遠ざける。
「あ、いてるけど」
「じゃあ、決まりな」
 先ほどまでの不機嫌な空気は消え、わずかに弾んだ声に俺まで口元が緩む。俺の中に浮かぶ樹の表情かおはいつの間にか笑っていた。
 ——だって、その日は……。
「誕生日どこ行きたいか考えておけよ。つっても、連れて行くのは陽一だけどな」
「!……なんだよ、それ」
「俺が案内できるはずないから仕方ないだろ」
 悪びれるでもなく開き直って言う樹がおかしくて、俺は笑ってしまう。
「まぁ、そうだけど」
「その代わりとっておきのプレゼント準備しておくからさ」
「期待しておくわ」
「おう、任せとけ」
 それは再会の約束であり、俺たちにとっての初デートの約束でもあった。

 ——自分の誕生日がこんなにも待ち遠しいなんて初めてかもしれない。

   *

 今日という日に樹に会うことができたその意味を考えて、考えたそばから掻き消していく。
 今はまだ気づきたくない。
 今はまだ知りたくない。
 今はまだ……
 握りしめたままだった二枚のチケットの日付を確かめた俺はそっと息を吐いてジーンズのポケットにしまった。
「陽一、本当にここでいいんだよな?」
 最後の確認とばかりに振り返った樹に、俺は「おう、ここであってるよ」と笑ってみせる。嫌そうな空気を隠しきれていない樹の手を今度は俺が引いていく。
「ま、乗り物に乗ってたら、きっとあっという間だよ。あ、怖かったらもっとくっついてもいいよ。どうせ中は暗いだろうし」
「!べっつに、怖くなんかないから」
 そう言って耳まで赤く染めた樹が——恐怖よりも恥ずかしさの方が強くなってしまった樹が——、どうしようもなく可愛く見えて、俺の胸は苦しくなった。
 俺は何度でも祈らずにはいられない。
 ——まだ終わりたくない、と。

「足元にお気をつけください」
 そう案内されて二人乗りの小さな箱に樹と並んで座ると、俺はすぐに体を寄せて隙間を埋めた。
「ちょ、なに?」
 仕掛けなんてまだなにもない段階で樹が声を上げ、俺は小さく笑うとそのまま樹の肩に頭を乗せた。
「あー、俺、やっぱ怖いかも」
「は?」
「だからこのままでよろしく」
「来たいって言ったの、陽一じゃん」
「俺もいけると思ったんだけどさ、やっぱダメみたい。樹は平気なんだろ?俺の代わりに見ておいてね」
「おっまえ、ふざけん……うわっ!!」
 仕掛けに驚いた樹の声が跳ね上がり、それと同時に俺の体も揺れた。
「ふ、ふは……樹、驚きすぎ」
 思わず笑った俺を樹が「陽一は全然怖がってるように見えないけど?」と横目で睨んできた。
 俺は繋いでいる手から伸びる樹の腕に顔をうずめると「うわー、めっちゃ怖いなぁ」と全く緊張感のない声で言った。
「……この、ウソつきめ」
 樹はそう小さくこぼしたけれど俺を引き剥がそうとはしなかったので、俺はそのままアトラクションが終わるまでずっと樹にくっついていた。
 ——たとえもう触れている体温さえわからなくても、それでもいい。
 俺の隣に樹はいるのだから。
 それだけでいい。


 園内を流れる曲が陽気なものからゆったり静かなものへと変わっていく。気づけばあんなに強い光を降り注いでいた太陽は姿を消していた。空が暗くなるに従って地上はライトアップされ、ガラス越しにカラフルな世界が広がっていた。
「最後に観覧車って、定番すぎじゃね?」
 そう言って笑った樹の顔が窓に反射する。冗談のように言いながらその頬は少し赤くなっていた。
 小さな空間が俺と樹だけを閉じ込めてゆっくりと地上から離れていく。近くに見えていたものが遠く小さくなっていき、夜の暗い空へと吸い込まれていくようだった。
 ——このままもう戻れなくなってしまえばいい。
 そんなことを俺は思ってしまう。
 窓の外を見つめたまま、樹は隣に座る俺に聞いた。
「次はいつ会える?」
「次……」
「夏休みに入ったんだろ?こっち帰って来るよな?」
 振り返った樹に俺は曖昧に頷くことしかできない。
「うん」
「まだ決めてないの?あー、バイトのシフト出てないとか?」
「うん」
「じゃあ、また決まったら連絡くれよな」
「うん」
「……お前、さっきから『うん』しか言ってねーけど」
「うん」
「昼間はあんなに喋ってたくせになんなんだよ」
「……うん、」
 次、という言葉がこんな悲しく響くなんて初めてで。
 あんなに鮮やかだったライトの光は滲んでしまってその色を判別することもできない。
 俺にはもう隣で笑う樹の顔さえよく見えなかった。
「……あのさ、」
「ん?なに?」
 顔を俯けたままの俺に樹は優しく答えてくれる。
 俺の声は震えていた。
「……ても、いい?」
「え」
「抱きしめても、いい?」
 一日中繋いでいた手を、俺は今日一番強く握る。
「そ、いうこと聞くなよ。余計恥ずかしくなるだろ……」
 樹がまた窓の方へと顔を戻してしまった、その瞬間。
 樹の赤くなった顔は暗闇の中に消えた。
 ライトアップされていた外も観覧車の中さえも見えなくなり、聞こえていたBGMも途切れた。頂上に向かっていたはずのゆっくりとした動きも停止している。
「え、なに?停電?」
 驚く樹の声ごと俺は腕を引き寄せ、その体を抱きしめる。
「!」
「……あったかい、な」
 本当は体温なんてわからなかったけれど。
 きっとあったかいはずなんだ。
 樹はここにいる。
 触れることも抱きしめることもできる。
 もう少しだけ夢を見ていたい。
 俺は樹を抱きしめる腕に力を加えた。
「ちょ、お前力入れすぎ」
 そう言いながらも樹は笑うだけで、俺から離れようとはしない。
「……」
「陽一?」
「……っ、」
「え、お前なんで泣いてるんだよ?」
「っ、……い、つき……」
 俺はもう限界だった。
 俺はもう遅刻の理由のようにうまくごまかすことができない。
 ——樹に会えなかったこの一年が俺にとってはあまりにも長くて苦しかったから。

   *

 ——一年前のあの日……俺の十九歳の誕生日当日。

 記憶は断片的にしか残っていない。
 あまりにもショックが大きすぎて全てを記録することを俺の体が拒んだのだろう。
 それでも忘れられない場面は残っている。

 あの日、遅刻してきたのは樹の方だった。
 時間にしてほんの十分ほど。
 乗る予定だった電車は行ってしまったけれど、ここは一時間に一本しか電車が来ないようなところではない。五分に一本はやってくる。タイミングよく到着した急行電車に俺たちは飛び乗った。

 ——その電車が事故に遭うなんて……誰が思うだろうか。

 だからこれは誰のせいでもなかった。
 激しい衝突音。
 傾く車内。
 割れる窓ガラス。
 樹の体を抱き寄せようと腕を伸ばした俺よりも一瞬早く、樹の方が俺の頭を胸に抱えた。自分の体がどちらを向いているのかさえわからず、俺たちは引き離されないようにお互いの体を必死に掴んでいた。
いつきっっ!!!」
 俺の声は樹に届いていただろうか。

 意識を取り戻した時、俺は病院のベッドの上だった。
 事故からすでに二週間が経っていた。

 ——樹はもうこの世にはいなかった。

 大怪我を負った俺はそこから退院まで三ヶ月を要し、大学は休学して実家で療養することになった。事故の影響で電車に乗ることができなくなった俺は体だけでなく日常生活のリハビリも必要だった。
 そうしてもう一度あの場所に行けるようになった頃には季節が一周ひとめぐりしていた。
 再び一人暮らしを始めた俺は時間を見つけては取り憑かれたように何度も駅前へと足を運んでいた。もう会えないのだとわかっていたけれど、それでも行かずにはいられなかった。
「……いつき……」
 何度その名前を呼んでも答えてくれる声は聞こえなくて。
 何度手を伸ばしてもその肌にも体温にも触れることはなくて。
 ——わかっている。
 本当はわかっている。
 それでも、どうしても振り返ってしまう。
 聞き慣れた明るい声で「陽一よういち」と呼んでくれる、その優しい顔を探してしまう。

 ——こんなのが俺たちの初デートだなんて、俺は認めないから。
 そう言っている気がして。
 ——初デートで遅刻なんてサイテーだからな。
 そんなふうに今度は樹の方が怒ってくれる気がして。
 ——この大事な一日だけでもやり直したい。
 俺がそう願ったように樹もそう思ってくれている気がして。
 樹の性格なら、きっとこう思うだろう。
 ——今度は絶対遅刻なんてしないのに、と。

 俺にはまだ樹がこの世界にいるような気がしてならなかった。
 もう一度会うことができるならあの日照れて言えなかった言葉を全部伝えるのに。そうなんども思って、言えなかった言葉を思い浮かべて、電話でもなんでも伝えておけばよかったと後悔した。
 俺がどんなに樹に助けられていたのか。
 俺がどんなに樹を大切に思っていたのか。
 俺がどれだけ樹を好きだったのか……。

 樹の葬儀は俺が眠っている間に終わっていた。
 ——来月には一周忌だからお線香だけでも。
 電話越しに響いた母さんの優しい声に押され、俺は事故に遭ってから初めて樹の実家を訪ねることにした。
 お線香の匂い。
 仏壇に飾られた写真。
 目の前にあるもの全てが、樹が亡くなったことを示していた。
 それなのに……俺には樹がいないという事実を受け入れることがどうしてもできない。
 お店で出されている生菓子と温かい緑茶を前に俺は黙り込んでしまった。
「……これがね、カバンに入っていたの」
 柔らかな声とともに樹の母親が差し出したのは一通の白い封筒だった。
 ——陽一へ
 そこには見慣れた懐かしい文字が並んでいた。
「!」
 顔を上げた俺に小さい頃から変わらない優しい笑顔が向けられる。
「きれいでしょう?よっぽど大事なものだったみたいで。カバンの内ポケットの中に丁寧に入れてあったの。他の持ち物は壊れたり汚れたりしていたのに、それだけは折り目ひとつついていないでしょう?」
「……はい」
 俺は震える指先で受け取った封筒をそっと開いた。
 手の中で小さな乾いた音が響く。
 中身はバースデーカードと二枚のチケットだった。
『誕生日おめでとう。一年後もちゃんと予定空けておけよな』
「!……っ、いつき……」
 その時初めて俺は樹の死に涙を流した。
 この約束を果たすことはもうできないのだと、そう思って。

 ——それでも足を向けてしまったのは、どこかで期待していたのか。
 ——それとも本当にいないということを確かめたかったのか。
 どちらにしても、その結果を見るのが少しだけ怖かったのかもしれない。一年前のデートの待ち合わせ時間を少しだけ過ぎてから着くように、俺は家を出た。
 捨てることのできなかったチケットに刻まれた約束の日。
 見慣れた駅前の風景。
 大きな街路樹の下、降り注ぐ日差しの中で汗を浮かべた顔が上げられた。
 ——一年前のあの日、最後に見たままの姿で樹がいた。
 夢……でも見ているのだろうか?
 夢、でもいい。
 夢だろうが幻だろうが、幽霊でもタイムリープでも、もうなんでもよかった。
 俺の目の前に樹がいる。
 それだけでもう十分だった。
 きっとこの時間は永遠には続かない。
 それくらい俺にもわかる。
 わかるから……
「お前、初デートで遅刻とかサイテーだからな」
 一体いつから樹は待っていてくれたのだろう。
 ようやく会えたのに、俺の視界は込み上げてくる涙でぼやけてしまう。
「遅れるなら連絡くらいしろよ」

   *

 ——確かにこの手に触れているのに、この腕で抱きしめているのに、その熱だけが、樹の体温だけが俺にはわからない。


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