【百合】いつかバニラの香りを~美月センパイの秘密~

hamapito

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ジャスミンのハンドクリーム

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 ふにっ。
 またこの感触。
 柔らかく潰されてしまうのは、いつも私の方。
 瞼をあげると、少しだけ寂しさを混ぜて笑った顔がある。
 私の唇を押さえていた人差し指を離し、美月みつきセンパイは小さく鼻を動かした。
「バニラ?」
 またしても作戦失敗。
 私はバニラの香りのリップクリームを塗った口の先を尖らせて答える。
「……正解です」
 一度離れた美月センパイの細い指が再び近づいてくる。
 思わず首をすくめた私の眉間に触れ、「シワ寄ってるよ」と今度は声を弾ませて笑った。耳の奥で柔らかく響く美月センパイの声に、私は表情を緩めるしかなかった。
「ジャスミンですか?」
「うん。みのりも使う?」
 ふわりと薄く流れる花の香り。
 美月センパイは私の横から立ち上がると、ダークブラウンの机が置かれた窓際へと向かう。白いレースのカーテンが揺れ、冷たい風が流れ込む。片手にハンドクリームを持ったまま、美月センパイは少しだけ開けていた窓をぴっちりと閉めた。わずかに漏れ聞こえていた外の音が消える。この部屋には今、私と美月センパイしかいない。いや、さっきからずっとそうだったのだけど。改めて実感してしまった。
「寒い?」
 赤いブランケットがかけられたベッドに寄りかかったまま、私はジャスミンの花が描かれたパッケージを見上げる。手渡されたのは片手に収まるくらいの丸い缶。蓋を回すと香りが強まる。
「寒いってほどではないですけど」
 曖昧な私の返答に美月センパイはクスッと小さな息を吐き出しながら笑い、ベッドの上にあった赤いブランケットを広げた。私は白いクリームを手に載せたまま両手を上げる。この状態で触ったらブランケットがベタベタになってしまうから。
「これでちょうどいいね」
 再び私の隣に座った美月センパイの膝が柔らかな布の中でぶつかる。
 私の心臓はパクンと揺れた。
「そうですね」
 美月センパイの視線から逃げるように私はローテーブルへと腕を伸ばす。カタン、と缶の底が音を立てる。こんな小さな音でさえよく響くくらい、部屋の中は静かだった。
「手伝ってあげる」
「え」
 耳元で声がしたかと思うと、すぐに私の手は冷たい温度に包まれた。美月センパイの細い指が塗り途中だったハンドクリームを広げていく。ペタペタとした感触にひやりと染み込む体温。薄かった香りが一気に濃くなる。美月センパイだけのものだった匂いが私を包み込んでいく。
 目の前で揺れる長いまつげ。柔らかく膨らむ白い頬。小さな耳にかけられた髪が天井のライトを受けて緩やかに光を返す。
 ――もっと触れたい。
 そんな衝動的な気持ちが私の体を揺らす。
 静かに首を伸ばすと、肩にかかる髪の奥に鼻先が届いた。白く細い美月センパイの首。セーラーの襟で隠されていない無防備な肌。その体温。こっちはわずかに私の方が低い。
 ビクッと揺れたのがはっきりとわかる。私は顔をそっと戻す。
「ちょっと、くすぐったいよー」
 私の手を握ったまま美月センパイが振り返る。
 距離はわずかしかない。
 今度こそ。
「だーめ」
 またしても私は美月センパイの人差し指に止められる。
 今度は先ほどよりもはっきりとジャスミンの香りがした。
「なんでですか」
 頬を膨らませた私に、美月センパイはやっぱり少し寂しそうに笑った。
「理由言ったでしょう?」
「……魔法が解けるから?」
「そう」
 そっと落とされた視線の先、繋いでいた手を私は握り返す。
「まだダメですか?」
「うん」
「どうしても?」
「うん」
「……そうですか」
 この会話を一体何度しただろう。
 何度しても美月センパイの答えは変わらない。
 ぶわぶわとシャボンが膨らむみたいに胸が苦しくなってくる。
 私はハンドクリームのせいで吸い付くようにくっついてしまった手を離そうと指を開く。逃げようとした私の手よりも一瞬早く、美月センパイが力を込めた。
「みのり」
 私の名前を呼ぶ声はいつもよりも強く。凛と響く。
 私は次に来る言葉を聞きたくなくて、首を振る。
 言わないで。
 私が聞きたいのはそんな言葉じゃないから。
 イヤイヤと頭を揺らす私にそれでも美月センパイは言うのだ。
「ごめんね」
 私は謝って欲しいわけじゃない。
 ただ、――。
「みのり」
 今度は優しく。鼻の奥の痛みに、両目に集まる熱に、ぼやけていく視界に、それは柔らかく触れる。膝にかけていたブランケットが半分めくれ、美月センパイの腕が私の体を包み込んだ。
「好きだよ」
 二つの体に挟まれた制服にシワがよる。バラバラだった心臓の音も、高低差のあった体温も、ゆっくりとピッタリ重なっていく。それはさっき塗ったハンドクリームが手に馴染むのと同じで、肌を吸い寄せるのと同じで、ひとつの香りに私たちは包まれる。
「私だって、美月センパイが好きです」
 ぐしゃぐしゃの涙声はちっとも可愛くない。美月センパイみたいに美しくも柔らかくもない。それでもセンパイは「うん」と答えるのに合わせてさっきよりも強く抱きしめてくれた。

 美月センパイは魔女だ。
 正確には魔女の血をごく薄く引いている。
 空を飛ぶ、なんていうすごい魔法が使えるわけではない。
 落し物を見つけるとか、壊れた傘を直すとか、そんな程度だけど。
 でもそのおかげで私たちは出会った。

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