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しおりを挟む「あら、宿泊研修なのに、練習着持っていくの?」
「!」
部屋で宿泊研修の準備をしていた俺は、真後ろから聞こえてきた母さんの声にビックリして、体を跳ねさせた。
「ちょ、ノックくらいしろよな」
「はいはい。これ、洗濯したから」
「ありがと」
母さんから洗濯物を受け取りながら、俺は小さくため息をついた。母さんの「はいはい」は何も聞こえていないに等しい。
「宿泊研修中も朝練あるから」
「あら、そうなの?熱心な部活ねぇ」
「ホントに」
俺が受け取った洗濯物をタンスに入れていると、母さんが俺の机に置いてあったしおりを勝手に手に取った。
「夜はやっぱり肝試しとかするの?」
「あー、するけど。でも、俺は回らないから」
母さんからしおりを奪い返し、俺は準備に戻る。床の上にはカバンに詰める荷物が散乱している。
「あら、どうして?」
「脅かす方やるから」
「そう、それは残念ねぇ。青春なのに」
「青春って、別にただの宿泊研修じゃん」
母さんは大きくため息をついてから、床に座り込む俺の肩をその温かな手でポンと叩いた。
「学生時代なんて、それだけで青春なのよ。後悔しないように生きなさいね」
「そんな大げさな」
「過ぎた時間は戻らないってことよ。あー、うらやましい」
母さんはもう一度わざとらしくため息をついてから部屋を出ていった。
過ぎた時間は戻らない、か……。
視界の端で、ふわりと舞い上がるようにカーテンが持ち上がる。部屋の中へと入ってきた風に雨の香りを感じた俺は、窓を閉めようと立ち上がった。
窓枠に手をかけ、ふと、視線を下に向けると、家の前に赤い傘とビニール傘が並んで咲いていることに気付いた。俺が閉めようと手をかけた窓の下、ひかりと新一がいた。
俺はどうしていいのか分からなくなって、身を隠すようにその場に座り込んだ。窓の隙間から冷たい雨が風と共に入ってきたけど、俺は窓を閉めることが出来なかった。
「私、今、新くんと付き合ってるの」静かなひかりの声が蘇る。
そうだ。そうだった。もうひかりは俺の彼女じゃない。だから、こんな気持ちになる資格なんて、俺にはない。わかっている。分かっていたのに。
どうして、こんなにも、苦しいのだろう。どうして、こんなにも、泣きそうになるのだろう。
終わらせたのは、俺なのに——。
◇
吐き出す息が白く消えていく。日が落ちたこともわからないくらいに灰色の分厚い雲で空は覆われている。いつもと同じ帰り道。見慣れた風景が同じ速度で流れていく。けれど、隣を歩くひかりはいつもより静かだった。そして、俺もうまく言葉を探せずにいた。
「じゃあ」
「……うん」
いつもと同じように家の前で足を止める。それでも、ひかりは俯いたまま俺の方を見ようとはしない。二足のローファーが向かい合ったまま、動きを止める。
「……」
「……」
何も言えずにいる俺たちの間をゆっくりと小さな塊が落ちてきて、繋いだままだった手に触れて静かに消えた。見上げると真っ白な雪が視界を埋め尽くすように降ってきていた。
「雪、降ってきたな」
「うん」
「じゃあ、な」
俺はひかりの指先から失われていく体温を感じながらも、その手を離した。そして、そのまま背中を向けて歩き出す。門扉を開ける音は聞こえない。ひかりがずっと俺の背中を見つめているのを感じる。それでも俺は振り返らない。これ以上、ひかりと一緒にいるのが怖かった。言葉にできない苦しさが胸の中で渦巻き出す。吐き出してしまいそうになる感情を必死で抑え込むように唇の先を強く噛みしめる。何を間違えたのだろう。何がいけなかったのだろう。何度もそう自分に問いかけ、その答えを探しては苦しさに体を支配される。
「っ、」
握りしめた拳が震え、嗚咽が噛み締めた唇の端から漏れた、その時。
「大ちゃん!」
ひかりの声が聞こえたかと思うと同時に背中に軽い衝撃が走った。
「!」
後ろからぶつかるようにして、ひかりが俺を抱きしめていた。
「……ひかり?」
かすれた俺の声に、ひかりはぎゅっと腕に力を込めた。
「ごめんね」
降り続く雪は音もなく消えていくのに、ひかりの小さな声は俺の耳にしっかりと響く。
「ごめんね、大ちゃん」
「……」
何も言わない俺にひかりは言った。
ひかりが何に対して謝っているのか、俺が思い当たることは一つしかなかった。でもその一つですら、本当はひかりが謝るようなことではなかった。ひかりが謝る必要なんて本当は全くないのだ。それでも繰り返される謝罪の言葉に、ひかりは何も悪くないよ、そう言うことが俺にはできなかった。頭では分かっているのに、俺は結局何も言えずに唇を噛み締める。
「ごめんね」
ひかりの声は小さく、震えていた。
「……」
何か言わなきゃと思うのに、口を開いたら、思ってもいない様なことを口走りそうで、怖かった。
「あの時、一緒にいれなくて、ごめんね」
あの時——関東大会の準決勝の日、ひかりは会場にいなかった。だけど、それが何だというのだろう。ひかりのせいでこうなったわけではない。ひかりは何も悪くない。そう頭では分かっているのに。だけど、もし、あの時ひかりがいてくれたなら……そう考えずにはいられなかった。
「ひかりが謝ることじゃないだろ」
俺はかろうじてそう言った。絞り出された俺の声も少し震えていた。それが怒りなのか憎しみなのか、寂しさなのか愛しさなのか、自分の心で渦巻く感情が何なのか、俺自身も分からず、ただただそれを抑え込むのに必死だった。誰かのせいにしたかった。誰かにこの気持ちをぶつけたかった。誰かに今の自分を丸ごと受け止めて欲しかった。あの時、俺の中にあった気持ちはどれも自分勝手で身勝手なものばかりだった。
いつもと違う静けさが家の中に満ちていた。いつもと変わらないひかりの部屋がそこにはあった。窓の外では、すべてを白く染めるかのように雪が降り続いている。
ひかりが俺を抱きしめたまま、呟くように言った言葉が蘇る。「大ちゃん、……今日はこのまま一緒にいよう」俺はその言葉に返事をすることも頷くこともできず、身勝手な自分を自覚しながらも、ただひかりが引いてくれる手だけを頼りに小さく息を吸い込んだ。
階段を上る足音が聞こえたかと思うと、開け放していた扉の前にマグカップを両手に持ったひかりが立っていた。
「ココア持ってきたよ」
「うん」
両手に持っていたうちの一つを俺に渡すと、空いた手でひかりはドアを閉め、部屋の暖房の温度を確かめた。
「開けたままにしたら、温まらないじゃん」
柔らかく揺れる湯気の先で、ひかりが困ったように笑う。
「……ごめん」
俺はひかりの視線を避けるように、足元に置かれた折りたたみの小さなテーブルに、カタリと音を立てて、手の中の熱を手放した。
「大ちゃん」
ひかりが扉を背に立ったまま、俺の名前を優しく呼んだ。俺は甘く揺れる目の前の湯気から視線を離すことができず、小さく「うん」と答えることしかできない。
「お風呂、大ちゃんも入ったら?まだ寒いでしょ?」
「あ、いや、大丈夫」
「ホントに?」
「うん」
俺はひかりを振り返ることなく、手放したばかりのマグカップを手に取った。茶色く揺れる表面に部屋のライトが映り込み、小さな月が浮かび上がる。不安定に揺れる、その光ごと飲み込もうと、口を近づけた瞬間だった。俺の体をココアではない甘い香りが包み込んだ。柔らかな熱と髪の先に残る冷たさが同時に俺の肌に触れた。
「ひかり?」
「大ちゃん、冷たいね」
ひかりの声が温かな息とともに耳に届き、俺を抱きしめる両腕に力が加えられる。
「私が温めてあげるよ」
ひかりの優しい声が、熱を持った言葉が、俺の耳の奥を震わせる。
「っ、……」
体よりもその芯が冷えていた。頭が回らない。うまく言葉が出てこない。閉じ込めた思いを溢れさせないようにすることに精一杯で、それ以上には何もできない。吐き出すことも、助けを求めることもできない。弱くて、ちっぽけで、不安定に揺れる自分を隠すことに必死だった。寒くて、痛くて、どこにも行けない。それでも、そうすることでしか立っていられなかった。
だから、そんなふうに当たり前に差し出される温かな熱に、俺は縋りつかずにはいられなかった。言わなくてもいいなら。こんな自分を晒さなくてもいいなら。それでも受け入れてくれるなら——
自分を包み込む優しい熱に突き動かされ、俺はひかりが紡ぐ言葉を飲み込もうとするかの様に、ひかりの口を塞ぐ。手にしたままだったマグカップをテーブルに戻し、先ほどよりも強く唇を押し当てる。優しい石鹸の香りと甘いココアの香りが混ざり合う。
「大ちゃん……」
ひかりは何も言わなかった。いや、聞かなかった。
ひかりの口から漏れるのは、熱い吐息と俺の名前だけだった。
俺は、ひかりの両肩を掴むと、そのまま力をそっと加えて、ひかりをベッドに座らせた。
俺がベッドに乗せた片膝に体重をかけると、二人の重みにベッドが軋む。
その音に、俺は思わず、ひかりから唇を離した。
ひかりが閉じていた瞼を開き、まっすぐ俺の瞳を見つめてきた。
俺の中で、何かが蘇った、気がした。
けれど、それが何なのか……早く気付かなくてはいけないのに、俺の体は、ひかりを求め始めていて、それを拒否していた。
本当にこれでいいのかと、頭の中で声がする。
思い出さなくてはならないと、心が叫んでいる。
ひかりを離したくないと、体が反応する。
俺は、ひかりの肩を離すことも、もう一度キスをすることもできずに、動けなくなった。
俺は、ただ静かに、ひかりの瞳を見つめた。
ひかりは何も言わずに、じっと俺の瞳を見つめ返していた。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
ふいに、ひかりの両手が、俺の両手に触れた。
そして、俺が、触れたと意識するよりも前に、ひかりの体は力が抜けた様に、静かに、後ろに倒れた。
バランスを失った俺は、倒れたひかりの体に覆い被さる様に、ベッドに倒れ込んだ。
慌てて体を起こそうとした俺をひかりの両腕が捕まえていた。
振りほどこうと思えば,簡単にできるはずなのに、俺は振りほどけなかった。
「……ひかり、」
俺の声にひかりが静かに瞼を閉じた。
俺はひかりの唇に、そっと柔らかくキスをした。
そして、一瞬だけ唇を離すと、今度は、強く唇を押当てた。
もう戻れない。
激しくなるキスとは反対に、俺の手は少しだけ震えながら、ひかりのシャツのボタンに触れた。
ひかりの体がビクッと震える。
俺は構わず、ボタンを一つ外すと、さらにその下のボタンへと、順番に外していった。
全部のボタンを外すよりも前に、シャツの隙間から露になったひかりの白い肌に俺の意識は持っていかれた。
ドクンッ……ドクンッ……
俺は全身で自分の心臓の音を響かせながら、その隙間へと手を滑り込ませた。
俺の指が、ひかりの柔らかな膨らみに触れた。
「っ、……」
ひかりの小さな声が響いた。
その瞬間、俺は弾かれた様に体を起こすと、ひかりから逃げる様にベッドを下り、ひかりに背を向けて床に座り込んだ。
「大ちゃん……?」
ひかりの震える様に小さな声が背中から聞こえた。
違う。
「……どうしたの?」
違う。
ひかりがそっと俺の背中に手を触れた。
「好きだよ、大ちゃん」
ひかりの体が俺を背中から包み込んだ。
違うよ、ひかり。
「やめよう」
俺はひかりを振り返らず、絞り出す様に言った。
「ど、して?」
「ひかりだって、気付いているだろう」
「……」
「違うって」
「大ちゃんは、大ちゃんだよ」
ひかりの声が先ほどよりも震えている。
ひかりが泣いていることに気付いたけれど、俺はそれでもひかりを振り返らなかった。
「ひかり、ごめん」
「大ちゃん……?」
俺の体を抱きしめていたひかりの腕から力が抜けた。
「こんな俺で、ごめん」
俺の声も震えていた。
「ひかり、別れよう」
「やだ」
ひかりが離しかけた両腕にもう一度、力を込めた。
ひかりが今持てるすべての力を込める様に、強く、強く、俺の体を抱きしめた。背中からひかりの体が、体温が、そして震えが、痛いほどに伝わってくる。
「やだ、やだよ……」
ひかりは俺を抱きしめたまま、声を震わせて泣いていた。
俺はひかりの両腕にそっと触れると、力づくで、その腕を引き剥がした。
ひかりの精一杯の力なんて、俺が本気になるまでもなかった。
俺はその腕から逃げる様に立ち上がると、ひかりを振り返らずに言った。
「ひかり……俺、ひかりのこと、好きなんだ」
「大ちゃん……?」
俺は一度、大きく息を吸ってから、振り返った。
ひかりは、ボタンの外れたシャツも、乱れたスカートもそのままにベッドに座り込んだまま、俺を見上げていた。
俺はひかりが脱いだセーターを拾い上げると、ひかりを包み込む様に、その肩にかけた。
今度こそ、まっすぐひかりの瞳を見つめる。
「俺、これ以上いたら、もう止められなくなる。ひかりが嫌だって言っても、止められないと思う」
「嫌じゃない。私は、大ちゃんが好きだから、だから、」
「俺もひかりのことが、大好きだよ」
「じゃあ、どうして……?」
ひかりの目から大粒の涙が零れ落ちる。ひかりはその大きな瞳で、俺をまっすぐ見つめていた。
「ひかりが好きだから、だから……こんな俺じゃダメなんだ。今の俺は、ひかりが好きだって、その気持ちだけで、出来ていないから」
「……」
「ただ、辛くて、寂しくて、そんな感情から逃げたくて、ひかりに甘えようとしているだけだから。ひかりのこと、好きなのに、好きだから、これじゃダメなんだよ」
「私が、それでもいいって、言っても、ダメなの……?」
ひかりの目も鼻も真っ赤だった。ひかりは顔をぐしゃぐしゃにして、泣いていた。こんなひかりを俺は今まで見たことがなかった。
本当は、今すぐにでも、もう一度、抱きしめたかった。
ひかりが泣き止むのなら、それで、それだけで、もう、いいのではないかと思った。
だけど、俺はもう気付いてしまったから。
「俺は、ひかりを大切にしたいって気持ちまで手放したくない。ひかりを好きだって気持ちだけで、ちゃんと、ひかりを抱きたい。そうじゃなきゃ、ひかりを傷つけるだけになってしまうから、だから、」
「……」
「だから、今の俺じゃ、ダメなんだ」
ひかりは唇を強く噛み締めて、それでも、俺から視線を外さずに、まっすぐ俺を見つめていた。
「だから……別れよう。勝手なこと言って、ごめん」
「ホントだよ……大ちゃん、勝手過ぎるよ」
ひかりが泣きながら、呆れた様に、少しだけ笑った。
そのひかりの表情に、俺は、どうしても堪えることができなくなった。
俺はひかりを一瞬だけ力強く抱きしめると、その額に優しく唇で触れた。
俺の体が離れる瞬間、ひかりが小さく呟いた。
「……ずるいよ、大ちゃん」
「風邪、ひくなよ。……ココア、飲めなくてごめん」
俺はひかりの声に気付かなかったフリをして、ひかりの部屋を後にした。
◇
見慣れた配置と温かな空気に混ざる夕飯の匂い。
「宿泊研修ってどこ行くの?」
ひかりが鯵フライにお醤油をかけながら、俺に視線を向けた。
「河口湖」
俺は豆腐のお味噌汁に口をつけながら、答える。
「部活の合宿みたい」
「朝練もあるから、まさにそうねぇ」
母さんがポテトサラダを皿に取り分けながら、会話に加わる。
「朝練?あるの?」
ひかりが目を丸くして、俺を振り返る。
「ある。運動部に休みはないって」
「マジかぁ。すごいね」
「この子、肝試しも脅かす方なのよ。かわいそうでしょ?」
「別にかわいそうじゃないし」
俺がひかりの前に置いてあった醤油に手を伸ばしながら、反論する。
ひかりはお醤油を俺に手渡しながら、いつものからかい顔になる。
「うわー、そうなんだ。かわいそう、大ちゃん」
「だから、別に、かわいそうじゃないし」
「え、だって、脅かし役ってジャンケンで負けたからでしょ?」
俺は勢い余って、お醤油をかけすぎたけど、構わず鯵フライを口に運ぶ。
「兄貴、ジャンケン弱いのか?」
「脅かし役は一人で待っている間が怖いよなぁ」
「あら、父さんもやったことあるの?」
俺はようやく鯵フライを飲み込んでから、勝手に進んでいく会話に割り込む。
「ジャンケンじゃなくて、俺は自分から引き受けたの」
「なんで?」
俺以外の四人がキレイに声を揃えた。なんで、こんなに息ピッタリなんだよ。
「なんでって……別になんだっていいだろ」
俺は四人の視線を避ける様にご飯を掻き込んだ。
先週のホームルームのことだ。
前日の班長会議の報告を兼ねて、宿泊研修の準備の時間となっていて、各グループで集まっていた。
「宿泊研修の肝試しだけど、脅かし役をうちの班から一名出さなきゃいけなくて」
川上はすごく申し訳なさそうに、小さな声で言った。
「ごめんね、ジャンケン負けちゃって」
脅かし役は各クラス二名ずつ出すことになっていて、どの班から出すかは班長のジャンケンで決まったらしい。
「あ、じゃあ、俺やるよ」
「え?」
俺の声に川上が驚いた様に顔を上げた。
単純な結論だ。女子二人にやらせるわけにはいかないし、安田の恋を思えば、安田にやらせるわけにもいかない。どう考えても俺がやるのが一番だった。
「俺、背高いから、結構怖いと思うんだよね」
「あー、藤倉、ただ立っているだけで迫力あるかも」
「だろ?安田のこと、めっちゃ脅かしてやるよ」
「……ホントに、いいの?」
不安そうな川上の声に、俺は笑って答えた。
「もちろん。俺、実はちょっと脅かし役やってみたかったし」
「でも、」
それでも申し訳なさが消えず、川上が言葉を続けようとしたところへ、豊田が川上の小さな両肩に手を置いた。その視線がふわりと俺に向けられる。
「双葉がジャンケン負けたおかげでできるんだから、藤倉くんはむしろお礼言ったほうがいいんじゃない?」
「あ、そうだな。ありがと、川上」
「う、ううん。ありがとう、藤倉くん」
川上がようやく笑ってくれたことに、俺は少しホッとした。
「藤倉……お前、ホントにいい奴だな。」
先に練習着に着替えた安田が横から俺を見つめている。俺はシャツを脱ぎながら、安田を振り返らずに低い声で答える。
「見るな、変態」
「うわ、ひでぇ。俺、すげぇ感謝してるのに」
練習着に袖を通しながら、俺は視線だけで安田を振り返る。
「ラーメン」
「へ?」
「感謝は目に見えないからな」
「俺への友情をラーメンに換算するなよ」
「誰のおかげで、一緒の班になれたんだっけ?」
ロッカーを閉じて、グラウンドに続く部室のドアへと歩き出した俺を安田が追いかけてきた。
「ラーメン、奢らせて下さい」
「ぶはっ……お前、なんて顔だよ」
安田のなんとも言えない複雑な表情に俺は思いっきり笑った。
開けたドアの隙間から、梅雨時の湿った風が吹き付けた。
空は薄い灰色の雲で覆われていたけれど、雨は降りそうになかった。
俺と安田はグラウンドを目指して、駆け出した。
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