君と泳ぐ空

hamapito

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 吸い込んだ空気の熱さに胸が苦しくなる。
 ゆっくり。
 もっと、ゆっくり。
 体中の空気を吐き出す様にゆっくりと俺は息を吐き出す。
 俺の作り出す小さな風がまっすぐに空に向かって溶けていく。
 風が途切れ、一瞬の静寂。
 そして、俺は先ほどよりも大きく息を吸い込む。
 吸い込んだ空気の熱を溶かしながら、体の先まで風が行き渡るのを確かめる。
 俺はマスクを顔の前に下ろした。
 目の前のホームベースに一度視線を落とし、その白さをその存在感をもう一度頭に叩き込む。
 顔を上げた先には木村先輩のまっすぐな視線。
 やるしかない。
 頭の中で状況を確認する。
 七回表。ツーアウト、ランナー無し。
 三対四。点差は一点。
 相手の四番にホームランを打たれて逆転を許したばかり。
 このまま相手に流れを持っていかれるわけにはいかない。
 ここで踏みとどまれるかどうかがこの試合を決めるだろう。
 場内のアナウンスに合わせて、打順を迎えた相手チームのバッターが俺の右に立った。
 スタンドの声援が大きくなる。
 このバッターはこの試合、ヒットを二本打っている。二回に甘く入った初球のストレートを打ち、五回にはアウトコースのストレートを外野に運んでいる。
 この回から登板した木村先輩とは初めての対戦。五回からマスクを被っている俺とは二度目の対戦になる。
 もう打たれるわけにはいかない。
 初球。
 ここに。 
 俺のサインに木村先輩が頷く。
 俺はミットを構えた。
 右側から大きく聞こえていた息づかいが消える。
 木村先輩が振りかぶる。
 ボールはまっすぐバッターの胸元をめがけ飛び込んでくる。
 仰け反った上体が視界の右端で揺れる。
 俺のミットが飛び込んできたボールをしっかりと捕まえた。
「ストライク!」
 俺は捕まえたボールを木村先輩に投げ返す。
 そして再びインコースに構える。
 木村先輩の動きにバッターが呼吸を合わせる。
 ボールが放たれた瞬間に大きく右足が踏み込まれる。
 俺の構えたミットの前でバットが振られる。
 キィン。
 バットに当たる直前で軌道を変えていたボールは、空に向かって高く打ち上がったが、やがて吸い込まれるようにショートの香川が構えたグラブの中に落ちていった。
 俺が安堵のため息を吐くのと同時にスタンドとベンチから歓声が聞こえた。
「お前、強気過ぎねぇ?」
 ベンチに戻りながら駆け寄ってきた木村先輩が困った様に笑った。
「すみませんっ!まだまだ勉強不足なので、おかしかったら首振って下さい!」
 自分のリードがまずかったのかと慌てた俺に木村先輩は軽く肩をぶつけて笑った。
「いや、お前が強気過ぎるから、俺、変なボール投げられないわ」
「え?」
「ホームラン打たれたばっかりなのに、お前の俺への信頼感ハンパないからさ」
 そう言って笑った木村先輩は俺を追い越す様にベンチに戻っていった。
 ベンチに戻ると、兵頭主将が俺の目の前に紙コップを差し出してくれた。
 兵頭主将の大きな手の中で、紙コップに入ったポカリが揺れている。
「あ、ありがとうございます!いただきます!」
 兵頭主将は何も言わず、紙コップを俺に渡すとベンチの端へと戻っていく。
 俺は渇いた喉に一気にポカリを流し込む。
 少しだけ、ほんの少しだけ、ポカリがいつもより甘く感じた。
 その後、八回裏に逆転した俺たちは、そのまま九回を守りきり、どうにか初戦を突破した。

「おかえりなさい」
 玄関で靴を脱いでいると、ひかりがリビングから出てきた。
「あ、ただいま」
 ひかりの顔を見つめたまま、俺はしばし固まる。
 ホントはひかりにどう言おうか、ずっと考えていたのに、俺はなかなか次の言葉が言えないでいた。
 テンション高めで「勝ったぜ!」って言おうか、ここは敢えてあまり感情を出さずにクールに「勝ったよ」って言おうか、それともひかりが聞いてくるまで答えずに焦らしてみるとか、色々なパターンを想像していたが、どれも実行できずに俺は玄関で固まってしまった。
「大ちゃん?」
 ひかりが小さく笑って、俺の顔を覗き込むように首を傾げる。
 ひかりの大きな瞳がまっすぐ俺の瞳を見つめてくる。
「……疲れたから、部屋行くわ」
 俺はそんなひかりの視線から逃れるように階段へと足を向けた。
「うん。お疲れさま。洗濯物早めに出してって智子さんが」
「了解」
 俺は振り返らずに階段を上る。
 ひかりの声が背中から追いかけてくる。
「あと、今日のご飯、焼肉にするからって」
「おぉ。じゃあ、早く下りるわ」
「うん」
 ひかりの視線を背中で感じながらも俺は自分の部屋へとまっすぐに入った。
「はぁ……」
 部屋の扉を閉めた俺は盛大なため息をついた。
「あっぶね」
 思わず言葉がこぼれる。
 いつもと変わらない光景だったはずなのに。
 特別な何かがあったわけでもないのに。どうして、こんなにも……
「大ちゃん?」
「!」
 ひかりの声が背中の扉越しに突然聞こえた。
 俺はひかりが階段を上ってきたことにすら気づいていなかった。
「大ちゃん?」
 ひかりが控えめに声を掛けながら、小さく伺うようにノックしてきた。
 焦った俺は思わずドアを背中で押さえていた。
「大ちゃん?寝てるの?」
 そんな俺の抵抗を知らないひかりがドアを開けようと、ドアノブを回す。
 一瞬だけ抵抗を試みたものの、ひかりの力を背中に感じた瞬間、俺はドアから体を離した。
「大ちゃん?」
 そして、堪えきれなくなった俺は、ドアから顔を覗かせたひかりの腕を掴み、自分の胸へと引っ張っていた。
 静かな室内にドアの閉まる音が響く。
「大ちゃん??」
 俺の腕の中で、ひかりの小さく驚いたような声が漏れた。
 俺はそんなひかりには構わずに抱きしめる両腕に力を込める。
「……ひかり」
「……」
 ひかりがそっと視線だけを上げ、俺の顔を確かめると何も言わずにゆっくりと俺の背中に手を回してきた。
「……っ、」
 ひかりの優しい力を感じた俺は堪えきれず、嗚咽を漏らす。
「お疲れさま。大ちゃん」
「……」
 言葉は何も出てこなかった。
 ひかりの小さな手が俺の背中をポンポンと優しく叩く。
 その温かさに、優しさに、愛おしさに、俺の心はどうしても緩んでしまう。
 悲しいわけじゃない。
 悔しいわけでもない。
 かといって、嬉し泣きでもなかった。
 だけど、俺はひかりを抱きしめながら、静かに泣いていた。
 玄関でひかりの顔を見た瞬間から、俺はどうしようもなく泣きそうになっていた。
「試合、勝ったんでしょ?我慢できなくて、さっき調べちゃったの」
 ひかりの声が小さく笑う。
 俺の呼吸は、ひかりが柔らかく背中を叩いてくれるリズムに合わせて落ち着いていく。
「大ちゃん、試合出たでしょ?緊張した?」
 俺が何も答えなくても構わずにひかりは喋り続けた。
「しないわけないか。初の公式戦だし」
 やがて、ひかりの手がゆっくりと背中を撫でていく。
「ホントは緊張しいのくせに」
「……くせにって、なんだよ」
 俺の掠れた声にひかりがまた小さく笑う。
「別に?そのままだよ」
「……」
 ひかりの小さな笑い声が俺の胸のあたりをくすぐってくる。
 言い返せなくなった俺は、ひかりにこれ以上泣き顔を覗かれないようにと更に両腕に力を込める。
「ちょっ、大ちゃん!」
 ひかりが顔を上げた、その瞬間を逃さず、俺はひかりの唇に軽くキスをした。
「!」
 一瞬の出来事だったけど、ひかりの大きな瞳がさらに大きく見開かれ、やがて、恥ずかしそうに柔らかく微笑んだ。
 あ、もう一回いけるかな?
 そんな俺の欲が出た瞬間、ひかりはまるでそんな俺の気持ちを読むかのように、笑った顔を引っ込めて、眉根を寄せた。
「こら。調子に乗らないの。みんな下で大ちゃんのこと待ってるんだから」
「……はい」
 俺は渋々両腕からひかりを解放した。
 ひかりは俺の腕から逃がれると、ドアノブに手を掛け、ドアを開けながら振り返った。
「洗濯物、忘れないようにね」
 ひかりの言葉に俺はため息を混ぜながら「はいはい」と答え、視線を滑らせる。そして、小さな違和感にもう一度顔を上げた。
「ひかりさぁ、」
「何?」
 ひかりの声はまだちょっとツンツンしている。
「なんか、痩せた?」
「え?」
 ひかりの声が少しだけ揺らいだ気がした。
「いや、なんか、前はもっと、柔らかかったっていうか……」
 一瞬だけ、ひかりが視線を逸らしたような気がした。
 けれど、俺が何か言うよりも早く、ひかりが笑顔を作った。
「大ちゃん?」
 あ、この笑顔はマズイ。
 絶対、なんか怒っている。
「ひかり??」
 俺はひかりの怒りポイントがわからず、思わず視線を下に逸らした。
 それがいけなかった。
「大ちゃん?どこ見ているのかな?」
「どこって、別に、」
 そう。別にどこかを見ようとしたわけでは決してなかったのだが。
 俺の視線は結果的にひかりの胸あたりにいっていた。
「え、いや、別に、胸が小さくなったとか、そんなこと言ってねぇから!」
 焦った俺は見事に墓穴を掘って、ひかりに「最低!」と言われてドアを思いっきり閉められた。
「……はぁ」
 俺はこの日二度目となる盛大なため息をついた上で、持ち帰ったカバンの中から洗濯物を取り出した。
 一階へと下りると、食卓にはもう俺以外の全員が揃っていた。母さんが切った野菜をカウンターに置き、俺に振り返る。
「大地、洗濯物ちゃんと出した?」
「今、入れてきた」
 そう答えて席に着いた俺は、ちらりとひかりに視線を向けてみたが、ひかりは俺ではなく隣に座る翔太と楽しそうに話していた。
「初戦突破、おめでとう」
 父さんがビールを飲みながら、いつもの穏やかな声で言った。
「ありがと」
 俺は母さんによって皿いっぱいに盛られたお肉を口に運びながら答える。
「兄貴、このまま頑張って勝ち続けろよな」
 翔太が俺の皿よりもさらに多くの肉を確保しながら言った。
 テーブルの向かいから母さんが翔太に「野菜も食べなさい」と翔太の皿の上に野菜を積んでいく。
「おう」
「兄貴が勝ち続けてくれたら、また肉いっぱい食えるんだろ?」
「おい。応援より肉かよ」
 俺の呆れた声に翔太が満面の笑みで返してきた。
「おう!肉のために頑張ってくれよな」
「……」
 翔太のまっすぐな笑顔に俺は小さなため息で答える。
「ひかりちゃん、ちゃんと食べてる?なんだったら翔太の皿からお肉取っていいからね」
 母さんの言葉に翔太がお肉を取られまいと急いで箸を動かす。
「いただいてます!あ、翔太くん、取ったりしないから大丈夫だよ。そんなに急いで食べたら喉詰まるよ」
 ひかりが翔太の前に麦茶の入ったコップを差し出す。
「ホントに?遠慮しないでね。翔太はもっと遠慮しなさい!」
 翔太が自分の皿を空ける前にさらに新たなお肉を取ろうとしたので、母さんがすかさず箸でお肉を防衛する。
「……ふっ、」
 そんな母さんと翔太のやりとりに思わずひかりが吹き出した。
 ひかりが口元を押さえたまま小刻みに肩を揺らす。
「ひかり、笑ってないで俺に協力しろよ」
「そうはいかないわよ。ひかりちゃんは私の味方だもん」
 翔太と母さんのやりとりにさらにひかりが肩を震わせる。
「あはは……あ、なんか、ごめんなさい」
 ようやく顔を上げたひかりが指で小さく涙を拭った。
「泣くほど面白かったのか?」
「うん、だって……大ちゃんは見慣れているからわからないんだよ」
「そうか???」
 首を傾げる俺にひかりがまた微かに涙を滲ませながら笑った。
「そうだよ」
 窓から入る夏の風を押し返すように焼肉の匂い溢れる空気が外へと流れていく。
 控えめな風鈴の音が部屋に響く。
「笑ってないで、ちゃんと食べろよな」
「食べてるよ」
「じゃあ、もっと食べろよ。ただでさえ、お前痩せてるし」
 俺の言葉にひかりが何も答えずに満面の笑みを浮かべた。
「!」
 さっきの部屋でのやりとりが頭に浮かぶ。
 思わず固まった俺の皿からひかりがひょいっと箸でお肉をつまんだ。
「え?」
「翔太くん、大ちゃんのお皿の方が狙い目だよ」
「は?」
 俺の皿から奪ったお肉を口に運びながら、ひかりが俺に聞こえるように翔太に耳打ちする。
 翔太の目が俺の皿に焦点を合わせた。
「おいっ。誰のおかげで、」
「兄貴、食べないなら俺にくれよ」
「いや、食べるから。お前は自分の皿あけろよ」
「だって、これもう野菜しかないし」
「いや、だからってこれは俺の分だから」
 今度は俺と翔太の攻防戦になる。
 そんな一連のやりとりにいつも静かな父さんが耐えかねたように小さく笑った。
 俺は翔太からお肉を守りつつもこっそりとひかりの様子を伺っていた。
 ひかりはまた涙を浮かべながら笑っていた。
 けれど、その箸は何もつまもうとはしていなかった。
 そんなひかりの様子に、俺の中で、まだ形になる前の、ほんの小さなかけらのような何かが生まれた。
 ——それは、きっと……決して「いい予感」にはならない何かだった。


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