君と泳ぐ空

hamapito

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 ——四回裏。
 4対0。
 ワンアウト二塁。
 梶先輩が俺のサインに頷く。
 バッターが身構える。
 ボールが俺のミット目がけて向かってくる。
 バッターはわずかに反応したが、バットを振ることなく見送った。
 ボールはしっかりと俺のミットの中に収まった。
「ストライク!」
 俺の返球に梶先輩が少しだけ呆れたように笑った。
 俺は大きく息を吸い込み、自分の心臓の音で耳が塞がれそうになるのを必死で堪えた。
 ランナーのリードが先ほどより大きくなった。
 梶先輩がランナーに視線を送る。
 俺もランナーの動きを気にかけながら、バックの仲間たちの位置を確認する。
 大丈夫。
 守りきれる。
 自分に言い聞かせるように心の中で唱えながら、俺は梶先輩に向き合う。
 梶先輩は俺のサインに頷くと、先ほどよりも力強くボールを放った。
 先ほどよりもやや外に構えた俺のミット目がけてボールが飛び込んでくる。
 目の前でバットが空を切った。
 2ストライク。
 俺はもう一度大きく息を吸い込み、梶先輩にボールを戻す。
 梶先輩は俺のサインに一度も首を振らなかった。
 キィン。
 甲高い音が耳に突き刺さる。
 ファーストの佐々木先輩が反応したが、打球はわずかに逸れて、ファールになった。
 俺の心臓の音がさらに大きくなる。
 大丈夫。
 信じろ。
 俺は再びミットを構えた。
 梶先輩がボールを放つと同時に二塁ランナーが駆け出した。
 コースは外してある。
 俺はボールを迎えにいくように重心を移動させる。
 バットが目の前に伸びてきたが、ボールはバットに当たることなく、俺に掴み取られた。
 すかさず、俺は掴み取ったボールを三塁に投げた。
 渡辺先輩が向かってきたランナーにタッチする。
「アウト!」
 塁審の声が響き、ようやく俺は止めてしまっていた息を吐き出した。
「お前のその自信はどっからくるわけ?」
 打席に備えて準備する俺に安田が呆れたように笑った。
 そういえば、梶先輩にもそんな表情されたな。
「何が?」
「何がって、代わったばかりで変化球からいっただろう」
「いったけど?」
 渡辺先輩が打席に立った。
 突き刺さる日差しを遮り、大きな雲の影がグラウンドを泳いでいる。
「いや、いいんだけどさ。でも、すげぇなって。ランナーもいたし、取れなかったらって俺だったらビビりそうだなって思っただけ」
 キィン。
 響き渡る打球音とともにスタンドのどよめきが広がる。
 俺と安田も空を仰ぐ。
 白く小さなボールがグラウンドの空気を突き抜け、まっすぐにスタンドへ向かっていく。
 センターがグラブを突き上げ、跳び上がる。
 その頭上をボールは勢いを失うことなく突き進んだ。
 そして、一段と大きな歓声が球場中を包み込んだ。
「よっしゃー!!」
 俺と安田は拳を付き合わせた。
 ゆっくりとグラウンドを回る渡辺先輩に声援が、拍手が、そして大きな雲の影が覆いかぶさっていた。
 俺はバットを強く掴む。
「俺、自分に自信なんかないけど」
「え?」
「俺もビビりなんだって。ほら」
 掴んでいるバットがわずかに揺れているのを安田に見せてやる。
「……」
 安田が俺の顔に視線を戻した。
「今の俺には足りないものが多すぎて信じられるものなんかないに等しいけど……でも、それ以外なら、さ」
 俺はベンチに戻ってきた渡辺先輩に視線を移す。
 仲間たちに手荒く迎え入れられた渡辺先輩が少し、照れたように笑っていた。
 俺は渡辺先輩と入れ替わるようにベンチを後にする。
 そう、俺は自分を信じるなんてまだ出来ない。
 正直、ちゃんと取れなかったら……と思わなかったわけじゃなかった。
 だけど、梶先輩がまっすぐ俺に頷いてくれた。
 バックを守る仲間たちの姿もしっかりと見えた。
 俺は俺自身ではなく、俺の仲間を信じている。
 それだけだった。
 しかし、渡辺先輩のホームランの後、相手ピッチャーは崩れるどころか覚醒したかのようだった。岡野先輩をセンターフライに打ち取ると、俺は内野ゴロ。香川にヒットを許したが、続く梶先輩を三振させた。
 ——五回裏。
 5対0。
 ワンアウト、ランナー二塁、三塁。
 ピッチャーが覚醒したかと思えば、今度は打線が勢いづいてきた。
 キィン。
 鋭い打球が一、二塁間を貫いた。
 スタンドの歓声が空に弾ける。
 ライトの鳥谷先輩がボールを掴み上げた時、三塁ランナーに続いて二塁ランナーもホームベースを踏もうとしていた。
 鳥谷先輩の返球は、打ったランナーが二塁に向かおうとしていたのを止めたにすぎなかった。
 俺はスコアボードに並んだ数字を見上げた。
 5対2。
 元々、お互いの手の内を知り尽くしたチーム同士だ。
 これまで点を取られなかったのが、不思議なくらいだったとも言える。
「選手の交代をお知らせします」
 俺の思考を遮るように場内アナウンスが響いた。
 木村先輩がベンチからマウンドに向かって走ってきた。
 木村先輩にボールを渡しながら梶先輩が集まった俺たちを見渡し、笑って見せた。
「よし、ここは一度、目閉じとくか。」
 梶先輩の声に息を大きく吐き出しながら目を閉じる。
 スコアボードも相手チームの顔も見えない。
 スタンドからは相手チームの応援が響いている。
 だけど、それだけじゃない。
 自分の呼吸。
 グラウンドを吹き抜ける風。
 ベンチからの声。
 スタンドからも自分たちの応援が消えたわけではない。
 そして、何より……
「よし、終わり!」
 梶先輩の声に目を開けた俺たちは自分たちの顔を見渡して笑った。
 そう、俺たちはこんなにも近くにいる。
「あとは任せたからな!」
 梶先輩がベンチに走っていく。
 スタンドからの拍手が梶先輩の背中に降り注ぐ。
 ワンアウト、ランナー一塁。
 点差は三点。
 バッターの作る影がホームベースにかかる。
 俺のサインに木村先輩が小さく頷く。
 俺はミットを構えた。
 バッターがバットの握りを強くする。
 木村先輩の指先からボールが放たれる。
 バッターが踏み込む。 
 キィン。
 俺のミットに届く前にボールはバットに弾き返された。
 鋭い当たりが木村先輩の左手の先を突き抜ける。
 小野先輩がボールに向かって飛び込む。
 抜けるかと思われた当たりは、小野先輩のグラブに抑え込まれた。
 小野先輩は体勢を崩しながらも、二塁へ送球。
 香川がベースを踏み、一塁に送球。
 しかし、佐々木先輩がボールを掴むよりもほんの僅かに早くランナーがベースを踏んだ。
「セーフ!」
 ダブルプレーとはいかなかったが、これでツーアウト。
 木村先輩がマウンド上で大きく深呼吸をして見せた。
「ツーアウト!」
「ツーアウト!」
 グラウンドの仲間たちが。
 ベンチの仲間たちが。
 そして、スタンドからも。
 声が重なる。
 ここで踏みとどまってみせる。
 木村先輩のボールがミットに飛び込んでくる。
 外いっぱい。
 ストライク。
 二球目は少し低すぎてボール。
 1ボール1ストライク。
 もう一球、外に。
 俺が構えたミットの前でバットが振られる。
 打球は一塁線を超えファール。
 1ボール2ストライク。
 俺のサインに木村先輩は頷きながら、小さく口を動かした。
「?」
 木村先輩の投げたボールは風を切るように鋭く、バッターへ向かっていく。
 バッターが体を僅かに仰け反らせた。
 勢いを失うことなく、ボールは俺のミットに飛び込んできた。
 俺はボールの勢いを全身で受け止める。
 ボールはしっかりと俺のミットに収まっていた。
「ストライク!バッターアウト!」
 俺は止めていた息を大きく吐き出した。
 今の、木村先輩のボール……。
 自分の心臓の音が速くなっていくのを感じる。
「藤倉!」
 ベンチへと走っていると、木村先輩に後ろから肩を叩かれた。
「相変わらずだな!お前!」
「え??」
「相変わらずの強気で何よりだわ」
「いや、先輩こそ、さっきのボール……」
「な?びっくりした?な?」
「え?え??」
 戸惑う俺には構うことなく、木村先輩が笑って言った。
「俺もまさかあんなに気持ちよく決まると思わなかったんだよな。まぁ、お前の強気に応えた結果?投げれちゃったみたい」
「!」
「まだまだ俺も成長しそうだな、こりゃ」
 なんて答えたらいいのか分からず、俺も笑って返した。
 あの全身に響くようなボールの勢い。
 今まで俺が受けた中でも一番強かった。
 あの速さでインコースにしっかりと決まっていた。
 少しだけ。
 少しだけ、俺も誰かに信じてもらえているのだろうか。
 緩んだ風がスタンドから下りてきた。
 汗ばむ肌からほんの少しだけ熱を奪っていく。
 突き刺すような太陽の日差しが僅かに柔らかくなった気がした。


 グラウンド整備の間に兵頭主将に付き添って病院に行っている豊田から連絡が入った。
 兵頭主将は今のところ病院のベッドに横になってはいるが、今日中には帰れるとのことだった。豊田の話では痛み止めを打とうとした医者に抵抗し、まずは体を休ませないと治せないと説得されて渋々承諾したものの、驚くべき精神力で今も眠ってはいないという。
「試合が続いているのに眠れるわけがないって、ベッドの上でスマホ握りしめて試合確認してますよ。先生が普通はすぐに眠くなるはずなのに、って驚いてました」
 豊田の言葉が伝えられると、ベンチに安堵のため息と小さな笑いが起こった。
「主将らしいなぁ」
「意地でも見届けるって、スマホガン見する姿が浮かびますね」
「主将でも医者に反抗することあるんですね」
「こりゃ、兵頭を休ませるためにも試合早く終わらせないとやばいな」
「負けて終わったら、それこそ眠れないだろうな、アイツ」
 俺たちは口々に勝手なことを言い合ったが、兵頭主将のためにも試合に勝つことを全員が心に誓っていた。
 ——六回表。
「今のって……」
「なんか、タイミングが合ってなかった?」
「でも、今日の田中が空振り?」
 打席に立つ田中先輩の姿にベンチがざわついた。
 田中先輩は日によって大きく調子の異なるバッターで、打つ日はピッチャーが代わろうがお構いなしに打ててしまうが、打てない日はとことん打てない。
 それゆえ打順は9番だったが、田中先輩がレギュラーにいるのは、当たればハマるという博打のようなバッティングではなく、その守備範囲の広さにあった。だから、バッティングについては、当たる日に試合があったらラッキーくらいにみんな構えている。
 そんな田中先輩の今日の成績は二打数二安打で、まさに「当たる日」のはずだった。
 その田中先輩のバットがボールを捕らえることなく、空を切った。
 田中先輩自身が信じられないという表情を隠しきれずに目を見開いた。
 悔しそうに一瞬視線を足元に落としたが、すぐに顔を上げ、続く小野先輩とすれ違いざまに何か囁いていた。
「チェンジアップか?」
 ベンチに戻ってきた田中先輩に猫田監督が視線を打席に立つ小野先輩から外さずに聞いた。
「はい、そうです。あそこまでタイミングを外されるとは思いませんでした」
「前の試合では投げてなかったな」
「そうですね。先発のピッチャーを含め、ここまで速球で追い込む形でしたし、タイミングを取るのは難しいですね」
 小野先輩が初球を見送った。
 1ストライク。
「刷り込まれたな」
 二球目、小野先輩のバットが振られる。
 鋭い音が響いた気がしたが、サードがしっかりとボールを掴んでいた。
 サードライナーでツーアウト。
「頭にちらついたか?」
「……すみません」
 ベンチに戻ってきた小野先輩が唇を噛み締め、それでもまっすぐに打席に立つ鳥谷先輩を見つめる。
 鳥谷先輩が初球から打ちにいく。
 打球はバックネット裏に吸い込まれファール。
「安田!」
 猫田監督は鳥谷先輩から視線を外さずに安田を呼ぶ。
「小野と交代だ。準備しろ」
「は、はい!」
 小野先輩は安田に振り返ると、何も言わずただ小さく頷いてみせた。
 その悔しさも含め、全てを引き継ぐように安田が小野先輩に頭を下げた。
 キィン。
 白いボールがふわりと浮かび、ショートのグラブの中に吸い込まれた。
 兵頭主将のためにも、と気合を入れ直したばかりの俺たちだったが、試合の流れが相手チームへと傾き出すのを感じずにはいられなかった。
 ——六回裏。
 スコアボードの数字は変わらず5対2のままだったが、状況はノーアウト一塁、二塁。
 マウンドに集まった俺たちの元へ小野先輩が伝令として走ってきた。
 俺の頭の中では先ほどの場面がまだ頭にちらついていた。
 確かに際どいコースだったけど、俺はストライクだと思っていた。
 しかし、球審の判定はボールだった。
 最初のバッターをフォアボールで歩かせてしまい、続くバッターにストレートを狙われた。
 鋭い打球に安田が飛びついたが、体勢が悪く、アウトは取れなかった。
 目には見えなくても、全身で感じてしまう試合の流れに俺たちの表情は自然と硬くなっていた。
「監督からの言葉を伝えるぞ!」
 俺たちの硬くなった表情を見回した小野先輩が真剣な顔で言った。
「まず全員、深呼吸。全員、息止まっているぞ。……グラウンドで自殺でもする気かって」
 グラウンドの生ぬるい空気を吸い込みかけていた俺たちは思わず動きを止めた。
「なんだ、それ??」
「それ、伝令?」
「伝令はまだあるぞ!」
 ざわつく俺たちに小野先輩は真剣な顔を崩さずに続けた。
「さっきは兵頭の名誉のために言わないでおいたが、豊田の報告によると、兵頭が医者に抵抗したのは痛み止めで試合が見られなくなるからだけじゃない。むしろそれは建前であって本音は……」
 そこで声をひそめた小野先輩の口元に俺たちは自然と顔を寄せた。
「!」
「なんだ、それ!」
「ただのガキじゃんか!」
「さっきまでの気持ちを返して欲しいな」
「ほんとですよ、そんなに俺たちのことを思ってくれているんだって、ちょっと感動してたのに」
 小野先輩の言葉にひとしきり笑った俺たちを見渡して、今度は渡辺先輩が口を開いた。
「兵頭のためとか、誰かのためとか、そういうことじゃなくて俺たちは俺たちのために、自分のためにやってこいってことだろ?」
「ま、そういうことだろうな」
 小野先輩がちらっとベンチにいる猫田監督に視線を送ってから、笑った。
「自分のためにやる。それがこの試合の流れを取り戻す方法だってさ」
 小野先輩の言葉に俺たちはしっかりと顔を上げてから頷いた。
 自分のため。
 自分たちのため。
 それがチームのためになる。
 誰かのためじゃない。
 俺たちは他人のために動けるほど大人じゃない。
 でも、それでいい。
 今の俺たちにできることをすればいい。
 自分を認めることがチームを認めることの一歩になる。
 俺たちは今度こそ、生ぬるいグラウンドの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 ——七回表。
 5対3。
 六回裏に一点を許したものの、俺たちはそこで踏みとどまった。大量得点もあり得た場面だったので、一点でよく抑えたと言える。
 試合の流れを完全に取り戻したわけではなかったが、完全に渡したわけでもなかった。
 打順は3番の佐々木先輩からだった。
 先ほどは相手チームの好守備に阻まれたが、どんな球が来ても気負うことなく素直に打ち返していく佐々木先輩の打撃センスは、チームの中でも一目置かれている。渡辺先輩の後を受け継いで4番に座るのは間違いなくこの佐々木先輩だろう。
 初球。
 佐々木先輩は動かない。
 低めに外れ、ボール。
 相手バッテリーも佐々木先輩の怖さはわかっている。
 そして佐々木先輩の後に控える渡辺先輩の怖さも。
 試合も終盤で点差は2点。
 ここを抑えれば相手チームは勢いに乗るだろう。
 逆に言えば、俺たちはここで点差を広げておくことが必要だった。
 二球目。
 佐々木先輩がわずかに体を仰け反らせる。
 デッドボールも辞さないようなギリギリのインコース攻め。
 佐々木先輩が大きく息を吐き出し、再びバットを構える。
 三球目。
 ピッチャーの指先から放たれたボールに佐々木先輩が反応する。
 キィン。
 高く上がったボールがバックネット裏に吸い込まれる。
 ファールボールに注意を促すアナウンスが流れる。
 2ボール1ストライク。
 四球目。
 再びバットがボールを捕らえようと振り抜かれる。
 しかし、そのバットの勢いに飲まれることなく、ボールはキャッチャーの構えるミットに吸い込まれた。
 2ボール2ストライク。
「チェンジアップ来ないな」
「田中に投げてからまだ投げてないよな?」
 ベンチから佐々木先輩に声援を送りながらも、みんなの視線は相手ピッチャーに注がれている。
「藤倉」
 猫田監督が佐々木先輩から視線を外さずに俺を呼んだ。
「お前、どう思う?」
 五球目。
 バットが振り抜かれる。
 キィン。
 ボールが再びバックネット裏に吸い込まれる。
 カウントは変わらず2ボール2ストライク。
 ピッチャーが額の汗を手の甲で拭った。
「自分なら、多分、今のところで使ったと思います。カウントの余裕はありますけど、佐々木先輩の後には渡辺先輩がいますし、追い込んだ後にすかさずタイミングを外すようにチェンジアップを投げたら、そうまともに打ち返されるとは思えないですし」
「……よし」
 猫田監督は俺の言葉に小さく頷くと、組んでいた腕を外し佐々木先輩にサインを送った。
 六球目。
 放たれたボールに佐々木先輩が素早く反応した。
 キィン。
 先ほどよりも鋭いスイングにボールが弾き返される。
 打球は三遊間を抜け、佐々木先輩が一塁を駆け抜けた。
 スタンドから歓声が弾けた。
「渡辺!」
 バッターボックスへ向かおうとしていた渡辺先輩を猫田監督が呼び止めた。
「来るぞ。チェンジアップ。初球から狙え」
 猫田監督の言葉に一瞬目を見開いた渡辺先輩だったが、まっすぐに視線を返し、力強い返事で答えた。
「はいっ!!」
 渡辺先輩が息を整え、一礼してからバッターボックスに足を置く。
「来るんですか?チェンジアップ?」
「どうだろうな」
「えっ??」
 猫田監督の不気味なほど柔らかい声が楽しげに揺れている。
 相手ベンチの監督に視線を送りながら、猫田監督が考え込むように口元を押さえた。
 これ、演技だよな?
 自信アリってことか?
 キャッチャーのサインにピッチャーが間を置かずに頷いた。
 初めから予想していたかのように。
 ピッチャーが大きく振りかぶる。
 渡辺先輩がバットを軽く引きつけた。
 ピッチャーの指先からボールが放たれる。
 渡辺先輩が一瞬、ほんのわずかに踏み込む足を遅らせた。
 バットが振られる。
 ボールがまっすぐ走って来る。
 キィン。
 甲高い音が球場に響き渡る。
 白く小さなボールがセンターとレフトの手間、ちょうど中間に落下した。
 ボールが弾みをつけたまま、逃げるように地面を転がっていく。
 佐々木先輩が二塁を蹴って、三塁に向かう。
 スタンドから、ベンチから、応援が弾ける。
 ボールを掴んだセンターがすかさず三塁へ送球。
 佐々木先輩がベースに向かって、飛び込む。
 一瞬の静寂。
 弾けるスタンドの声も聞こえない。
 視線は一点へ。
「セーフ!」
 塁審の手が大きく開かれた。
「よっしゃー!!」
 ベンチで突き上げられる拳。
 スタンドから鳴り響く応援。
 グラウンドの空気を撫でるように吹く熱く湿った風。
「チェンジアップ……」
 思わず漏らした俺の声に猫田監督がチラッと視線を向けてきた。
「あまり使えないってのは、ここぞと言う時に使うってのと同じなんだよ」
「ここぞ……」
 小さく言葉を口の中で転がしながら、俺はベンチを後にした。
 ノーアウト一塁三塁。
 追加点のチャンス。
 俺はネクストバッターズサークルから相手ピッチャーを見つめる。
 ここは一点もやりたくない場面だろう。
 ここを、このクリーンナップを0点に抑えることができれば、チームは逆転へと勢いをつけられる。
 佐々木先輩、渡辺先輩と、ヒットは許したが点を入れられてはいない。
 相手は、ここで踏みとどまれれば、と思っているはずだ。
「ストライク!」
 岡野先輩のバットが大きく回った。
 ピッチャーが小さく息を吐く。
 そういえば、さっき渡辺先輩がホームラン打った後も、崩れるどころか覚醒していったんだよな。
 点を取られてから、ピンチになってから、その後をどうするかでピッチャーの資質が現れるなら。このピッチャーは——
 ほんの一瞬。
 ふわりと巻き上がった風に紛れるように。
 キャッチャーのサインに頷いたピッチャーの視線がこちらを向いた気がした。
 それは本当に短い時間だったが、俺はピッチャーから視線を外せなくなった。
 額を流れた汗が顎の先から自分の影へと染み込んだ。
 ドクン。
 俺は自分の心臓の音が大きくなるのを感じた。
 キィン。
 岡野先輩の打球が高く打ち上がる。
 センターが前に出て捕球する。
 タッチアップするには、厳しい位置だった。
 佐々木先輩は三塁にとどまった。
 ワンアウト一塁三塁。
 チャンスはまだ続いている。
 スタンドの応援曲が変わる。
 ドクン。
 俺の名前が球場中に響くようにアナウンスされる。
 自分の名前が叫ばれているはずなのに、いつの間にか、俺の耳は自分の鼓動しか聞こえなくなっていた。
 ドクン。
 俺は大きくなる自分の鼓動に耳を塞がれたまま、バッターボックスに立っていた。


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