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しおりを挟む「藤倉、明日なんだけど」
日が落ちたばかりの薄い夜。
グラウンドのライトが点灯し、最後のストレッチをする俺たちの影が伸びる。
無理矢理練習についてきたひかりは、グラウンドを見渡すと、それで満足したのか「やっぱり暑そうだから先に帰るね」と野球部のみんなと顔を合わせることなくグラウンドを離れ、先に帰ってしまっていた。仲間たちにからかわれることを覚悟していた俺はホッとしたと同時に、少しだけ寂しくも思っていた。
安田が俺の背中を押しながら、珍しく声を縮めている。
俺は心地よい疲労感に体が伸びていくのを感じながら、ストレッチを続ける。
「あぁ、何時にする?明日はこの練習も休みにするって話だから、一日使えるけど」
「ゴメンッッッ!!!」
「え?」
振り返ると安田が両手を合わせている。
ライトの逆光で顔はよく見えない。
「明日、行けなくなった。俺から言ったのに、ホントごめん!!」
「そっか」
俺は自分のストレッチを終えて、安田の後ろに回り込む。
「何、デートでも入った?」
少しだけいつもより強く押してやる。
「……」
顔を歪めながらも、これでもかと不機嫌な顔を作って安田が振り返る。
「え、なに?」
「……姉貴」
そう単語だけを残して、向き直った安田の背中を先ほどよりは優しく押してやりながら、「姉ちゃんが、どうかした?」といたって普通のテンションで聞いてみる。
「帰ってくる」
いつになくテンションの低い声が返ってきて、俺の手の力はさらに抜けそうになる。
「え、あぁ、そうなんだ」
「……」
それ以上、なにも言わなくなってしまった安田を不思議に思いながらも、これ以上触れてはならないオーラを感じ取った俺は素直に口を閉じる。珍しい安田の様子よりも、明日の予定が消えたことの方が、いや明日よりもこれから家に帰ってからの方が、俺には大問題だということを思い出してしまったのだ。
「ただいまー」
玄関のドアを開けると、とても自然に、当たり前の光景のように、母さんのエプロンを借りたひかりがリビングから玄関へと出てきた。
「おかえりなさい」
「た、ただいま……」
「?大ちゃん、ただいま二回言ってるよ?」
リュックを肩にかけたまま、俺は玄関に立ち尽くす。
まっすぐに見上げてくるひかりの視線に耐えきれずに、俺は顔を背ける。
「あ、うん、いや、別に、」
「?変な大ちゃん。ご飯もうすぐできるから、着替えてきたら?」
「お、おう」
俺はひかりを見ないように、いや、ひかりに顔を見られないように階段へと向かう。
——なんか。
階段に足を置く度に俺の頭の中で言葉が回る。
——なんか。
言葉が回る度に鼓動が速まる。
——やばくね?
階段を駆け上がりながら、俺の頭の中では言葉がぐるぐると回り、体の真ん中では心臓の音が大きく速くなっていった。
部屋まで一直線に走りこんだ俺は、その勢いのままにドアを閉じると、大きく息を吐きだした。
呼吸が落ち着かない。
心臓も落ち着かない。
なんか、なんて言うか。
——階段を一気に駆け上がったから、この心臓はこんなにも速く動いているのだろうか?
——練習を頑張りすぎたから、この体はこんなにも熱くなっているのだろうか?
それとも……?
俺はドアを背にして、床に座り込む。
「やばいよなぁ……」
思わず漏れた声に俺は大きくため息をついた。
意識するなって方が無理だよなぁ。
だって俺、健全な高校生男子だもんなぁ。
「……はぁ」
俺の口からは先ほどよりも大きなため息が漏れていた。
部屋のドアを開いた瞬間、美味しそうなカレーの匂いが届く。
家中に温かい匂いが広がっている。
俺の空腹スイッチが刺激される。
「すげーいい匂い」
リビングのドアを開けると、カレーの匂いがさらに濃くなる。
そして俺の空腹スイッチもさらに刺激される。
「大ちゃん、これ運んで」
キッチンからひかりがサラダの器を二つ俺に差し出した。
「おう。あ、ひかり、俺カレー多めで」
「はいはい。わかってますとも」
俺にサラダの器を渡したひかりは少し呆れたように笑った。
いつものダイニングテーブルだったけど、いつもとは違い、俺はひかりと向かい合わせになるように器を並べた。
「これくらいでいい?一応お代わりできるくらいは作ってあるけど」
キッチンから出てきたひかりが俺の前にカレーライスの器を置く。
「さすが、ひかり。わかってらっしゃる」
「まぁね」
俺はひかりのコップに麦茶を注ぎ、ひかりはスプーンとフォークを俺の前に並べる。
特に打ち合わせたわけではないのだけれど、食事の準備をする俺たちの息はピッタリだった。
とても自然に、とても普通に、当たり前の日常がそこにあった。
席に着いた俺たちは、二人で手を合わせて「いただきます」と声を揃えた。
「うまっ!」
ひかりが作ってくれたカレーはとても美味しかった。いつもと同じ、我が家にストックされていたルーで作られていたのにも関わらず、なぜか、俺には特別美味しく感じられた。
俺は空腹スイッチがMAXなのも手伝って、いつもよりも早いペースで食べ進めていた。
「大ちゃん、大げさ。カレーなんて誰が作ってもそんなに変わらないよ」
「いや、絶対、何かがいつもと違う。いつもより美味しい何かが……」
言いながらも俺の意識は目の前のカレーに集中している。
「ま、美味しいなら何よりです」
そう言ってひかりは小さく笑った。
そして、俺はこのカレーを三杯も平らげてしまった。
「大ちゃん?お風呂空いたよ?」
いつのまにか庭先のガラス戸を開けて、ひかりが立っていた。
「お、おう。あとちょっと」
俺は再びバットを振る。
バットが風を切る音と夏の夜の空気が混ざり合う。
「涼しいね」
風がカーテンを持ち上げて、部屋の中へと流れていく。
風鈴の控えめな音が響く。
「蚊が入るから、閉めたほうがいいぞ」
俺はひかりを振り返らずに言った。
「うん」
ひかりは小さく頷くと、揃えてあったサンダルを履き、庭に下りてきた。
閉じたガラス戸に背中をくっつけて、ひかりは両腕を伸ばすと、深呼吸をした。
俺はそんなひかりを視界の隅に捉えながらも、変わらずバットを振った。
そうしないと、意識がひかりへと向かってしまいそうだった。
「今、何回?」
「え、186回だけど、」
「じゃあ、数えてあげるよ」
静かだったひかりの声が小さく弾んだ。
「いや、いい」
俺は変わらずひかりを見ないようにしたまま、バットを振る。
「187……188」
ひかりは構わず、俺の動きに合わせて数え始める。
ひかりの声が庭に隠れる虫たちの声に重なる。
「……」
俺は抵抗しても無駄なことを悟って、静かにバットを振り続ける。
「……192……193……175」
「おいっ!」
俺は思わず動きを止めて、ひかりを振り返る。
「193の次は194だろ?」
「そうだっけ?」
「次、195からだからな」
俺は再び空気を切り裂くように力強くバットを振る。
「195……176」
「ひかり?」
「大ちゃん、サボらないの。ほら、早く」
なんか、こういうこと前にもあったような……?
俺はひかりへの抵抗を諦め、大人しくバットを振った。
「177……178」
ひかりの高く細い声が俺の耳に響く。
静かな夏の夜風が俺の汗を拭っていく。
お風呂上がりの火照ったひかりの頬が少しずつ冷めていく。
そして、夜空に浮かぶ小さな星はどこまでもまっすぐに輝いていた。
「痒い」
「そりゃ、風呂上がりに外なんか出たら刺されるだろ」
お風呂でさっぱりと汗を流した俺は、キッチンで2リットルのミネラルウォーターのペットボトルを開け、そのまま口をつけた。
母さんがいたら、怒られるところだけど今はいないし、どうせ俺しか飲まないのだから、別にいいだろう。
「大ちゃんがなかなか終わらせないから」
ブツブツと文句を言いながら、ひかりがムヒを片手に腕や足を確かめている。
「いやいや、ひかりさん?長引かせたのは誰?」
ひかりが数を数えたおかげで、こちらはいつもより50回は多くバットを振る羽目になったのだ。
「大ちゃんのためにやってあげたんだから、大ちゃんのせいでしょう?」
「……」
「あ!大ちゃん、ちゃんとコップ使ってよ!」
ムヒをあらゆるところに塗りながらもしっかりとひかりは俺を見ていたらしい。
「別にいいじゃん。俺しか飲まないし」
「ダメだよ!私だって飲みたいもん」
「……」
俺はペットボトルをカウンターに置くと、コップを二つ棚から出した。
一つには俺の飲みかけのミネラルウォーターを、もう一つには氷と冷蔵庫から出した麦茶を入れる。
「ん、」
俺はひかりの前に麦茶の入ったコップを置いた。
「ありがと」
ひかりがソファに座ったまま俺を振り返る。
「あ、」
「ん?何?」
俺を見上げるひかりの白い頬の真ん中で、小さな赤い跡が膨らんでいる。
「刺されてる」
「うぅ、やっぱりか」
ひかりの指がそっと頬の赤みに触れた。
「そこはさすがに塗れないよな」
「だよね。塗ったら、目に滲みるよね。でも、痒い」
ひかりが悔しそうに小さく唸る。
俺はひかりの足元にあぐらをかいて、コップに口をつける。
「目、閉じておけば?」
「え?」
ひかりが足元に座る俺に視線を向ける。
俺は視線だけでひかりを見上げる。
「目、開けるから滲みるんだろ?だから、閉じておけば滲みないじゃん」
「そりゃ、そうだけど、そんなことできな……」
「貸して」
俺はひかりの言葉を遮るように、ひかりに体を向けると、手を差し出す。
「大ちゃん?」
「俺が塗ってやるから」
俺はなんでもないように、普段と変わらない声でそう言った。……つもりだったけど、俺の心臓は少しずつ速くなっていた。
ひかりが一瞬、ほんのわずかな時間、静かに俺の瞳を見つめた。
「……うん。じゃあ、お願い」
ひかりは先ほどの強い視線を隠すように小さく笑って、俺の手にムヒを載せた。
「目、閉じてろよ。滲みるから」
俺の言葉にひかりが素直に目を閉じる。
俺はムヒの先でひかりの赤くなった頬に触れる。
「滲みなくなるまでどれくらいかなぁ?」
「そんなにはかからないだろうけど」
ムヒの蓋を閉めて、俺はテーブルに置く。
「あ、大ちゃん、私が見えない間に一人にしないでよね」
ひかりが目を閉じたまま、俺に話しかける。
風がカーテンの裾をそっと持ち上げる。
夏の夜の空気が静かに流れてくる。
風鈴の控えめな音が部屋の中に響く。
麦茶に浮かぶ氷がバランスを崩し、小さく音を立てた。
「しないよ」
そう言って俺は静かに首を伸ばす。
「いや、大ちゃんなら、それくらい……」
ひかりの言葉が途切れる。
一人になんて、しない。
そんなこと、できない。
「……しないって」
だって、俺にはもう、ひかりしか見えないのだから。
ムヒのツンとした刺激に目を閉じた俺は、もう一度ひかりにキスをした。
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