君と泳ぐ空

hamapito

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「……大ちゃん?」
 唇が離れると同時にひかりが目を覚ました。
 まだうっすらと夢の中にいるかのような柔らかなひかりの声。
「こんなに幸せな目覚めがあるなんて、知らなかったな」
 そう言ってひかりが柔らかく微笑んだ。
 大きめのTシャツに包まれたひかりの細い体を抱き寄せる。
 ひかりは「大ちゃんの匂いがする」と言って、俺が脱ぎ捨てたTシャツを着ていた。
 ひかりが俺の胸に顔を埋めるのを確かめてから、優しくひかりの頭を撫でる。
「どうして、泣くの?」
「え?」
「おとといの夜も。昨日の夜も。……今も」
「夢、かな?怖い夢、見てたから……」
 小さなひかりの声が俺の胸を撫で、ひかりの涙が俺の肌に触れた。
「怖い夢……?本当に?それだけ?」
「うん、夢。怖い夢。だけど、今は大ちゃんがその夢を消してくれた。だから、もう大丈夫。今はもう怖くないよ」
 ひかりが俺を見上げるように顔を覗かせる。
「今は、幸せな夢に変わったから、大丈夫」
「そっか」
 俺は小さく笑うひかりの額にそっと唇を寄せた。
「そんなに怖かったの?」
 俺の声がひかりの小さな額をくすぐる。
「……うん、怖かった。誰もいない。大ちゃんもいない。私、ひとりぼっちになったんだ、って思った」
「……うん」
 今度はひかりの濡れた頬に俺は唇を寄せた。
 少しだけしょっぱい涙の味。
「でも、昨日、気づいたの。私の中に大ちゃんがいるように、大ちゃんの中にも私がずっといるんだって」
「俺の、中……?」
「そう。……だって、大ちゃんの初めては私のものでしょ?」
 そう言ってひかりは俺に顔を確かめられる前に目を閉じて、俺の頬にキスをした。
 いつもは冷たいひかりの唇が、その時だけはとても熱かった。
「もう起きるの?」
 ひかりが不安げに俺の顔を見つめる。
「起きるよ。今日から部活、始まるし」
 そう答えながらも、俺はひかりの体を抱きしめる自分の腕を離せないでいる。
「そう、だよね」
 ひかりもそう言いながら、俺の体にさらに体を寄せる。
 ひかりの細く柔らかな体が薄いTシャツ越しに俺の体に触れる。
「……」
 俺は持っていかれそうになる意識をありったけの理性で繋ぎ止め、自分を奮い立たせる。
「走ってくる」
「え?」
 俺は無理矢理ひかりから体を離すと、戸惑うひかりの顔をなるべく見ないようにして、ベッドから勢いよく体を起こした。
「わっ、ちょ、大ちゃん!」
 急いでベッドから出ようとする俺の腕をひかりが掴んだ。
「……」
 俺は振り返ることができない。
「……朝ごはん、何がいい?」
 そう言ったひかりの声が小さく笑った気がした。
 俺はゆっくり、ひかりを振り返る。
 ひかりはベッドの上で、俺を見上げて笑っていた。
 大きめのTシャツの袖からひかりの細い腕が伸びていた。
 俺が起き上がった勢いによって、掛けていたはずのタオルケットは飛ばされ、ひかりの白い太腿が露わになっていた。
 大きくて体に合ってはいないはずなのに、薄いTシャツがひかりの体の膨らみをはっきりと浮かび上がらせる。
「聞いてる?大ちゃん?」 
 そして俺を見上げるひかりの大きな瞳が小さく笑った。
「……」
 眼に映るすべてが俺の意識を奪っていく。
 俺の意識がひかりで満たされていく。
 美しくて、可愛くて、憎らしくて、それでいてちょっと……
「大ちゃん?ねぇ、聞い……」
 ひかりの言葉ごと飲み込むように俺はひかりの口を塞いだ。
 唇を重ねたまま、ひかりを思い切り抱きしめる。
「大ちゃん、苦しい……」
 ひかりの声が吐息の間から漏れる。
 それでも、俺はそこから三秒間、ひかりを離さなかった。
 自分の中の三秒のカウントダウンの間、俺は、頭の中も、心の中も、体の感覚も、自分の持ちうるすべてをひかりで満たした。
 そして、三秒後、俺は躊躇わずに唇を離し、両腕を解いた。
「!?」
 突如、解かれた体に、ひかりが驚いたようなホッとしたような戸惑った表情を見せる。
 俺は飛ばされたタオルケットを掴むと、戸惑ったままのひかりの肩に掛け、そのままひかりの体を包み込んだ。
「???」
 タオルケットに包み込まれたひかりが不思議そうに俺を見つめる。
 そんなひかりの耳元に俺は口を寄せ、そっと囁いた。
「……!」
 ひかりの頬が、耳が、真っ赤に染まる。
 そんなひかりに背を向け、俺は部屋のドアへと向かう。
 ドアを半分ほど開けたところで、ひかりを振り返る。
「とりあえず、味噌汁がいいかな。で、昨日届いたメロン、ちょっと食べようぜ」
「あ、……うん」
 まだベッドの上で固まったままのひかりが恥ずかしそうに瞳を揺らしながら、小さく返事をした。
「じゃあ、いってきます」
 ドアが閉まる瞬間、その僅かな隙間から「いってらっしゃい」と小さなひかりの声が滑り込むように俺の耳に届いた。

 時刻は午前四時半過ぎ。
 いつもより早いが、ちょうどいい。
 外はまだ夜を残していた。
 太陽の光が少しずつ夜を溶かしていく。
 熱くなった体に冷たい空気が心地よく、汗ばんだ肌が風に晒され、熱が逃げていく。
 吸い込んだ空気が身体中をひんやりと満たしていく。
 俺はいつもよりもペースを上げた。
 頭も、心も、体も、ひかりで満たされていた全部を塗り替えるように——俺は大きく息を吸い込み、地面を蹴る足に力を入れた。
 太陽の光が俺の影を作り始める。
 足元で揺れる草の匂いが風に乗って、鼻に届く。
 隣を流れる川の水音も、日差しを待ちわびる木々の呼吸も、そっと鼓膜に触れては通り過ぎていく。
 自分を包み込む世界は、どこまでも美しく、どこまでも優しい。
「……っ、」
 なぜだか、俺は泣いていた。
 悲しさも、悔しさも、ないのに。
 あるのは、この目の前の美しい景色でさえ塗りつぶすことのできない、決して消えることのない——「ひかり」だけだった。


「やーすーだー」
 俺は安田の肩を掴むと、例のモノをその胸に突きつける。
「おはよ……って、これ何?」
 安田が俺の顔と突きつけられたモノを交互に見て、不思議そうに聞いてくる。
「何?じゃねぇよ。こんなモノ送ってくるなよな」
「送る……?あぁ!アレか!」
 安田がやっとモノを受け取って、梱包の上からニヤニヤと眺めている。
「別に返さなくてよかったのに」
「お前なぁ、俺がコレのせいでどんな目にあったと、」
 ひかりがコレを手に持ったまま固まった姿が、怖いくらいに完璧なひかりの笑顔が、俺の頭に浮かぶ。
 そして、さらに別のひかりの姿が浮かびそうになり——
「とにかく!もう二度とこんなことするなよな!」
 俺は赤くなる顔を隠すように安田の視線から顔を逸らし、ロッカーの扉を勢いよく閉めた。
「お、おう、悪かったな」
 あっけにとられた安田の声が聞こえたが、俺はかまわずグラウンドへと向かった。
「集合!」
 兵頭主将の声がグラウンドに響き渡る。
 集まった俺たちの前に三年生が一列に並んでいた。
「今日は、三年生チームと新チームの試合を行う。佐々木!」
「はいっ!」
 兵頭主将に呼ばれ、佐々木先輩が前に出る。
「新チームは佐々木を中心に決めるように。なるべく多くの部員が参加できるようにすること。そして、審判は猫田監督にお願いしてある。新チームになって、いきなり試合で戸惑うだろうが、俺たち三年生は全力でやるからな。お前たちも全力でこいよ。」
 兵頭主将が緊張を隠せないでいる佐々木新主将の背中を力強く叩いた。
「試合開始は午後一時なので、それまでの時間は各チームで練習します!」
「はいっ!!」
 佐々木新主将の耳慣れない大きな声に戸惑いもざわめきも包み込まれ、部員全員の声がグラウンドに響いた。

「!」
 俺は開けかけた弁当の蓋を急いで戻す。
「藤倉?食わねぇの?」
 俺の様子に隣で大きなおにぎりを頬張る安田が不思議そうな顔をする。
「いや、食べるけど」
 俺は弁当を膝に乗せたまま、周りに視線を巡らす。
 俺の弁当の中身が見えるのは隣の安田くらいか。
 他の部員はそれぞれ適度な距離に広がっているし、自分の昼飯に夢中だし……。
「安田、何も言うなよ」
「?何?弁当に爆弾でも入ってた?」
 安田が笑いながら、俺の手元を覗き込む。
 俺は意を決して、ゆっくりと弁当の蓋を取る。
「!ぅおっ、これ……!」
 案の定、堪えきれずに声を上げた安田の口を俺は手に持ったままの蓋で押さえ込む。
 俺たちのやりとりに近くに座っていた何人かが不思議そうに視線を向けてきた。
「安田、どうかしたかー?」
 安田が一瞬、俺の顔に視線を向け、全てを悟ったように小さく頷いた。
「なんでもない、なんでもない。おにぎり落としそうになっただけ」
「なんだ、気をつけろよー」
「おぉ」
 そして、再び平和なお昼の空気が戻ると、安田の視線が俺の顔と俺の弁当の間を行き来する。
「藤倉、これってさ、彼女の手作り?」
「……そう」
 俺の弁当は今まで見たこともないくらいカラフルだった。アスパラのベーコン巻き。ブロッコリーのチーズ焼き。ミニトマト。コーン入りのポテトサラダ。
 いや、ここまでならまだよかったのだが……おそらく高校生男子の弁当は見た目よりもボリューム重視で、基本的にお肉がメインなことが多い。俺の弁当も、普段はご飯の上にお肉がのっている。そんなガッツリ、ボリューム弁当を想像して、開けたら……。
「ハートだな」
「……」
 弁当箱の大方を占めていたのはオムライスだった。
 いや、オムライスでもいいのだが。オムライスの周りに小さな星型の人参が飾られていて、そして真ん中にはケチャップでハートが描かれていた。
 俺は持っていた箸で真っ先にそのハートを掻き消した。
「えー!」
 覗き込んでいた安田の叫びを無視して、ハートの形を消した俺はすかさず可愛らしい星型の人参を口に運んだ。
「せっかく可愛かったのにな」
「な。勿体ないよな」
 突然背後から聞こえた声に振り返ると、俺と安田が座る背後に香川と小野田が立っていた。
「!」
「だよなー。せっかくなんだから写メくらい撮りゃいいのによ」
「お、そだな」
 固まる俺を無視して、安田がスマホに手を伸ばした。
「やめろ」
 俺のいつになく低い声に安田の動きが止まる。
 香川もポケットから取り出しかけたスマホを戻す。
 カシャッ。
 一瞬ピリついたはずの空気を無視して軽いシャッター音が響いた。
「!?」
「はい、笑って。弁当、美味しくないわけ?」
 スマホを構えたままの小野田が心配そうに俺の顔を覗き込む。
「……いや、うまいけど」
「じゃあ、ちゃんとうまい顔してあげなきゃ」
 小野田のまっすぐな笑顔に俺は何も言えず、「じゃあ、俺と安田も一緒に入ってやるから」と香川が戸惑う俺の肩を掴み、俺は安田と香川と三人で小野田に写メられる。
「これ、後で送るね」
 なんだろう。この小野田の裏表のないまっすぐな感じは。からかっているわけではなく、純粋に「いいね」って思ってくれているのが伝わる。伝わるからこそ、何も言えない。
「お、おぅ。ありがと」
 俺はニコニコと笑う小野田にかろうじて小さく笑って見せてから、弁当へと視線を向ける。
「小野田すげぇな」
「やっぱあれくらいの鈍感力無いとピッチャーはできないよな」
「確かに。ピッチャー向いてるわ」
 安田と香川のささやき声を聞きながら、俺は弁当を掻き込んだ。
 見た目がどうであれ、それによってからかわれたとしても、ひかりの作ってくれた弁当はとても美味しかった。
 本音を言えば、もっとゆっくり味わいたかったが、俺の心はそんなに強くなかった。

「……ごちそうさまでした」
 そう一人で両手を合わせた瞬間だった。
 膝の上に置いたままだった俺のスマホが振動した。
 ブブブブブ……
 普段、部活中はもちろん、休憩中もあまりスマホを使わないので、いつも以上にその振動音が大きく聞こえた。
 視線を向けると母さんからの電話だった。
「?」
 ブブブブブ……
「電話、だろ?」
 スマホを見つめたまま動かない俺に安田が怪訝な顔をする。
「あ、うん」
 俺はゆっくりスマホを手に取る。
 ブブブブブ……
 手の平から強く伝わる振動。
「出ないの?」
 スマホを手にしたまま出ようとしない俺に安田が心配そうに顔を見つめてくる。
 なぜだか。
 どうしてだか。
 自分でもわからないけれど、俺はその電話に出ることを躊躇していた。
 母さんからの電話。
 そんなに珍しいことではない。
 電話自体は珍しくないけれど……部活に行っている日に、それもこんな昼間にかかってきたことがあっただろうか?
 真夏だというのに、不思議と冷たい汗が俺の背中を伝う。
 さっきまでうるさいほど鳴いていた蝉の声が遠く感じる。
 ブブブブブ……
 一向に切れる気配のない呼び出し音。
 俺は大きく息を吐き出してから、そっと通話ボタンを押した。


 ——もっと、もっと速く。
 一分でも、一秒でも速く。
 俺は荒くなる呼吸も、全身を流れる汗もそのままに、ただ前だけを見て、ひたすら走った。
 足が壊れても、声が出なくても、なんでもいい。
 だから、どうか。
 もっと、もっと速く。
 一分でも、一秒でも速く。
 先を急ぐ俺をあざ笑うかのように目の前の信号が赤に変わる。
 俺は飛び出しそうになる体をぐっと引き戻す。
 立ち止まると一気に汗が噴き出す。
 焼き付けるような日差しが真上から降り注ぐ。
「……ひかり、」
 無意識のうちに俺の口から転がり落ちていた名前。
 目の前を流れる車を視界に入れながらも俺の視線はその先の信号を捉えて離さない。
 早く、青に。
 早く、青に。
 それだけを思っていた。
 もうすぐ信号が変わる、そう思った時だった。
 突如、大きなブレーキ音が耳を貫いた。
 振り返ろうとした俺の体を、認識すらできないほどの速さで衝撃が襲った。
 そして——俺の意識は暗闇へと放り出された。


 好きだよ。
 ひかりが好きだ。
 ひかりは、ずっと、俺の中にいる。
 決して消えることのない記憶に、いつまでも残り続ける体の痕に、この先忘れることなど出来ない感覚に、そのすべてに——ひかりがいる。
 
 そして、何度でも、鮮やかに蘇る。
 初めてを彩るすべてが、溢れ出る想いが、俺の中の「ひかり」となって。
 俺が生きている限り、ひかりは俺の中にいる。
 これからも、ずっと、消えることなんてない。

 ——俺はひかりから逃げることをやめたのだから。



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