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セイルーンの闇

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「空いている部屋を、即席で掃除しただけですが」

 と案内された部屋は、それでも月花にとっては充分に手入れの行き届いた広い部屋だった。
 さっきのシオンの部屋ほどではないが、明け方までいた小屋より少し小さめといった感じだ。家具こそ揃ってはいないが、テーブルに椅子、そしてベッドがあれば充分だろう。何よりもベッドはふかふかしていそうだ。
 風呂からこの部屋へ来る途中でセイラが仲間の侍女に頼んでいた通り、間もなくして食事が運ばれてきた。アイが異世界というからにはどんな食事だろうと思っていたが、パンにスープ、魚料理にサラダ。食材こそ違うとは思うが、普通の洋食と変わらなく見える。

「はあ、おいしかった」

 あっという間に食べてしまうと、セイラは「よかったですね」と微笑む。アイに会えたせいか、かなり気持ちが楽になっている。あとはリョウの無事さえわかればいいのだが……リョウにもアイが無事だったことを伝えたい。もう一度シオンに会って、リョウを探してもらえるかどうか頼んでみようか。そんなことを思っていたとき、急に部屋の外が騒がしくなった。女性の悲鳴らしきものが、遠くから聞こえてくる。

「なにかあったのかな」

 心配そうな月花に、セイラは顔色を曇らせて言った。

「──いつものことでございます」
「いつものこと?」

 思わず聞き返す。このお城では、女性の悲鳴が上がるのがいつものことなのだろうか。

「陛下は、女癖が悪くて……お酒を飲まれると、大抵侍女の誰かに目をつけてその場で無理矢理にでも抱こうとなさいます」
「え!?」

 陛下って、シオンに連れられて入った部屋で玉座に座っていた人のことだろうか。あの時は、普通に見えたのに──だが、目を伏せるセイラが嘘を言っているとは思えない。

「そうなると、誰にも手をつけられません。いつもシオン王子が止めようとなさいますが、それもうまくいったりいかなったり……」

 もはや言葉も出ない。このお城は、まともではないのだろうか。止めようとされたらいくら酔っていても普通、その場で誰かを無理矢理抱くとかいう恥ずかしい行為をやめようとはしないのだろうか。

「ですから、ツキカ様。ツキカ様は鍵者でもありますし、めったにこの部屋を出てはいけませんよ。出るにしても、ひとりでは絶対に駄目です」
「わ、わかった……」

 月花は、呆然としながら答える。
 遠くからの騒ぎは、まだやみそうになかった。



 兵士に連れられ、現場に駆けつけたときには、既に今回犠牲となった侍女の服は半分以上脱がされていた。それを遠巻きに、他の侍女や兵士達がなにもできずに見つめている。
 このセイルーン国の王でありシオンの父であるライオウは、いつものように完全に自分を見失っている。いまにも侍女に覆いかぶさろうとしているところを、シオンは寸でのところで止めた。

「父上! おやめ下さい!」

 力強く肩に手をかけられ、ライオウは不機嫌にシオンを振り返る。その目は完全に酒に飲まれて濁っていた。

「なんだ、シオンか。三日我慢したんだ、今日はいいだろう」
「酒はやめて下さると、この前約束したではありませんか!」
「おまえの母親が悪いんだ」

 シオンの顔色が、さっと青ざめる。父が母のことを口にするときは、一番手に負えない時だ。

「おまえの母親が部屋に閉じこもったきりで、手が出せぬからこうしている」
「──母上を部屋に閉じ込めているのは、あなたじゃないですか!」
「知らんな」

 ライオウは、クククと笑う。

「まあ、あんな色気のない中年女、手を出す気にもなれぬがな」

 シオンの中で、何かがぶちっと切れた。

「この……ふぬけ親父!」
「俺を殴ってもいいのか?」

 振り上げられたシオンの拳を見て、ライオウは更に嫌な笑みを浮かべる。

「殴りたいなら存分に殴れ。あの中年女がどうなってもいいならな」
「…………っ」

 シオンの拳がぶるぶると震える。この男に魔法をかけてこんなことを言うのもするのもやめさせることが、できたら。いや、事実上はできるのだ。けれど、仮に魔法で力ずくでこの男をどうにかしたそのあとが恐ろしい。あの母がどうなるかと考えたら、シオンは何もできないのだ。

「……シオン様……」

 か細い声に、シオンはハッとする。ライオウに組み敷かれている侍女が泣きながら、すがるような瞳でシオンを見ていた。

「──父上。この侍女を見逃してはいただけませんか」

 もう一度、願いを込めてシオンはライオウに言う。しかしライオウはフンと鼻を鳴らした。

「いまだに母を恋しがる男に、なにを言う権利がある?」

 それは、おまえの母親がどうなってもいいのならな、と言っているのも同じだった。
 拳をゆっくりと下ろし、侍女から逃げるように背を向ける。

「シオン様……!」

 侍女の悲痛な叫びに、落胆してせめてその場を去ろうとする他の者達に、シオンは心の中で詫びた。
 急いでその場から歩み去る。せめて強引に抱かれる様を見ないでおいてやることしか、いまの自分にしてやれることはない。

 俺は弱い。あのクソ親父に頭が上がらない。
 こんな日常が始まったのはいつからだったか。気が遠くなるほど昔のことのように思える。セイルーン国では、王が王妃を人質に王子を脅している。セイルーンの王子はマザコンの腰抜け。セイルーンでも、そしてもうひとつの国のヤンでも、それは有名だった。

「だから……だから俺は……」

 歩きながら、そうしてぐっとなにかを堪えるように紫色の瞳を潤ませるシオン。部屋へ戻ろうとする彼を、ひとりの兵士が慌てたように呼び止めた。

「あの、シオン王子!」

 シオンが立ち止まったところを捕まえ、兵士は青ざめながら告げる。

「たったいま、ヤン国からイファン王子がお見えに……」
「──イファンが!?」

 今度はまた別の問題が発生だ。シオンは頭を抱え込みたくなる。

「来るのは明日だって言ってたじゃねーか……!」

 ヤン国に頭の上がらないセイルーン国。ヤン国の王子を出迎えるには、もてなす準備やら何やらあるというのに。イファンがそれをわかっていないはずはない。

「あのバカ親父にも知らせて来い。出迎えの準備を!」
「はっ!」

 兵士は走り去り、城は俄かに慌ただしくなった。
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