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キスの応酬

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椛さんはなんと、朝礼のときに
わたしを自分の奥さんだと、公表した。

「それで専属秘書だなんて、職権乱用じゃない?」

「まあ、社長のことだからそのくらいやってもおかしくはないだろうけどねぇ」

ざわざわと社員たちの、そんな声が聞こえてくる。
これはしっかり職務を果たさないと、肩身が狭い。
わたしだけじゃなくて、椛さんの顔に泥を塗るようなことになるのだけは、絶対にさけたい。

だから社長が

「りんごちゃんは、ぼくとおなじ社長室で仕事ね」

だなんて言い出したとき、わたしは思い切りつっぱねたんだ。

「社長、それはさすがにだめです! 社長の信用がなくなります!」

いままで鉄面皮だった静夜もおなじことを思ったのか、わたしの援護をする。

「社長。社長のマイペースぶりは社員たちもじゅうぶんわかっているとは思いますが、ここはラブホテルではありません。たとえ専属秘書でも秘書は秘書室、社長は社長室で。あくまで奥さまを専属秘書にと仰るのでしたら、この節度だけは守っていただきたい」

「しょうがないなあ」

チッと舌打ちをする、椛さん。
いや、ですからその優しくて柔和そうな顔で舌打ちはぜんぜん似合いませんから、社長!
それでもしぶしぶ了解してくれた椛さんは、

「くれぐれもぼくの奥さんをイジメないでね」

ともう一度静夜に念を押し、社長室に入っていった。

わたしはといえば、いままで静夜がひとりで使用していた
広い秘書室に、案内される。

「社長がここにデスクをもうひとつ用意してくれって言ってきたのは、このためか」

深いため息とともに、静夜が中指で眼鏡を押し上げる。
秘書室にはデスクがふたつ。
いままでは恐らく、静夜のデスクだけがあったんだろう。
もうひとつの真新しいデスクには、こちらも新品のノートパソコンが置かれている。
デスクの脇には、書類の束が無造作に突っ込まれた段ボール箱がいくつも置かれていた。

「社長がご結婚なさったことは知っていたが、まさか相手がおまえだとはな」

朝礼のときの社員たちの反応を見て、それで椛さんに聞いてみてわかったのだけど
椛さんがわたしという一般女性と結婚した、ということは
ルミエール・ファクトリーの本社である、この会社内でしか
いまのところは、報告されていないらしい。

椛さんが言わない限りは、絶対他言無用とのこと。
でないと、マスコミがいろいろとうるさいらしいから。

「社長には、おまえなんかよりも他にたくさんいいご縁談があったはずだ」

静夜が、眼鏡の奥からぎらりと睨みつけてくる。

「いったいどんな手で社長に取りいったんだ?」

「取りいっただなんて……そんな」

「おまえは俺と結婚するはずだったんじゃないのか?」

「それがイヤで実家から逃げてきたんですけど!」

わたしはここぞとばかりに、静夜を睨み返す。

「だいたいあんただって、なんでこんなところで就職なんてしてるの? わたし、てっきり親の会社に入社したものだと思ってた」

すると、静夜の顔が苦しげに歪む。

「……親父の会社を継ぐんじゃないと、やっぱりまずかったか?」

その言葉に、わたしは自分が禁句を口にしてしまったことに気がつく。
中学時代、静夜と過ごしたただ一度きりの朝のことを思い出してしまったのだ。

「……そ、んなの……わたしが決めることじゃないから」

逃げるように静夜から目をそらしても、彼の声が追ってくる。

「社長は、おまえがバージンだと思って楽しみにしてるんじゃないのか?」

──なっ……!?

「──なに、言って、」

「おまえの処女喪失の相手が俺だとわかったら、社長は悔しがるだろうな」

なんで、こいつはそんなイジワルを言うんだろう。
だいたいわたしはそんなこと、思い出したくもないっていうのに。

もう一度わたしが、さっきよりも強く睨みつけても
静夜は、イジワルげに口角を上げるだけ。

「あんたって、いつもそう……! どうして昔からわたしのこといじめるの? 追いつめるの?」

「おまえほどいじめがいのある奴はいないからな」

「そんなの、全然答えになってない……!」

ふっと冷たく笑う、静夜。

「けど、その様子じゃまだ社長と身体の関係にはなってないってことか。エンコーしてたこともばらしたら、さすがに離婚かもな」

「──!」

あまりの言葉に、悔しくなって涙が出てくる。
こいつは、いつもそうだった。

わたしの弱味につけこんで、追いつめて──
そのくせ、わたし以外の女の子には紳士的。

だからわたしが、「静夜にいじめられた」って言っても
誰も信用してくれなかった。

それは、小学生のときからずっと変わらない。

「それとも、俺に脅されてるって社長に告げ口するか? それで、俺をクビにでもしてもらうか? 社長の権力を利用するのも、手かもな」

こんなことになるんなら、ゆうべ社長に「寝屋川静夜をクビにしよう」って言われたとき
まえもって、クビにしてもらうんだった。

まさかこいつがいまもここまで脅してくるなんて、思わなかった。
わたし、考えが甘かった──。

だけど
悔しいけど、こいつの言うとおり……
社長の権力を利用して、こいつから逃れるだなんて
それはそれで、いやだ。

自分の力で、なんとかしたい。
いざとなれば、専属秘書をやめればいいんだから。

「まあ、いざとなれば秘書をやめたっていいんだもんな。おまえは」

わたしの考えていることをすっかり見透かして、静夜は笑う。
わたしにしか見せたことのない、冷たい微笑み。

「やめない!」

だから、ついカッとなってそんなふうに、噛みついてしまった。

「あんたにいじめられたことが原因で、働くのをやめるだなんて……そんなの、無責任すぎる」

「だよなあ」

いざとなればやめればいい、そう思ったことがいまになって恥ずかしく思えてくる。

お飾りとはいえ、わたしはもう社長の、専属秘書。
OL経験のない、たとえ無能なわたしでも世間ではもう立派な、社会人なんだ。
なのに、そんな無責任なことを一瞬でも考えたなんて……ほんとうに、自分が恥ずかしい。
気づかせてくれたのが静夜だっていうのも、しゃくだけど。
だいたいにして、いざとなればやめたいだなんて考えた原因だって静夜なんだから、感謝の気持ちはもちろん、ない。

「過去のいろんなことを社長に言ってほしくないのなら、条件がある」

──きた。
静夜独特の、冷たくイジワルな瞳。

「俺の、セフレになれ」

……はっ!?

わたしは思わず、目を見開く。
いままで静夜は、そのテの「イジメ」はしてこなかったはずなのに。
なんで、どうして突然セフレ!?

「そんなにびっくりすることか? 一度寝た仲だろ?」

「だ……だって」

わたしは、戸惑いつつも反論する。

「あのときだって、流された感じだったし……第一あんた、昔からモテてたじゃない。その気になれば他にセフレのひとりやふたり、確保できるんじゃないの?」

「いいから、うんって言えよ」

コツン、静夜の靴が音を立てる。
静夜が……ゆっくりと、わたしに歩み寄ってくる。

「俺がおまえをセフレにしてやるって言ってるんだ。うなずけよ。それで離婚が免れるんだから、安いものだろ?」

そして静夜はわたしのすぐ目の前までくるとその長い指でわたしの顎をクッと持ち上げ、もう片方の手で自分の眼鏡を外した。

切れ長の、つりあがり気味の目。
悔しいけど、こいつ……顔だけはほんとにいいな。
だからって椛さんのときみたいに見惚れたりだなんてこと、絶対にしないけど。

「あることないこと、社長に吹きこまれたいか?」

「……いっ……」

「い?」

「い……一回だけで、いい?」

こんなことを聞くなんて、自分でもばかだと思う。
だけど昔からこいつの前では、強く出られたことがないんだ。

昔から、こいつはイジメっ子で
わたしは、いじめられっ子だった。

おとなになったいま、少しでもなにかが変わっていると思ったけれど
そう頭のどこかで、望んだけれど
実際には、なんにも変わっていない。

わたしも、静夜も。

こんなわたしを、初恋のあの人が見たらなんて言うだろう──。
それどころか、静夜なんてあのころよりイジメの内容が、エスカレートしている。

泣きたく、なる。

静夜は、イジワルそうにさらに目を細める。

「俺の唇にキスしたら、考えてやる」

「い、いま?」

「いま。ここで」

くっ……!
いまさらだけど、人の弱みにつけこんで……!

だけど他にいま、考えつく選択肢はない。
わたしは静夜の肩に、おそるおそる両手を置いて背伸びをした。
それでも、静夜の唇に届かない。
無駄に背が高いんだから……っ!

「とどかな、」

最後まで言う暇もなかった。

あっというまに、かがみこんだ静夜に
唇を、奪われていた。

わたしが静夜にバージンを奪われた夜は、わけあってキスの記憶はない。

だから、わたしにとってはこれが
静夜との、初めてのキス。

「ん……ンン……っ!」

クールな静夜には似つかわしくない、情熱的なキスだった。
激しいキスに思わず声を上げると、狙ったように舌が割り入ってくる。
痺れるようななにかが背筋を駆け上がってきて、わたしは甘い声を漏らした。

こんな、……静夜なんかを相手にそんなこと思いたくないのに。
気持ちいいだなんて、思いたくないのに。

きっと静夜はこういうこと、すごく手慣れてるんだ。
だから静夜のことが大嫌いなわたしでさえ、こんな……気持ちいいだなんて、思っちゃうんだ。

頭の芯が朦朧としてきた、そのときだ。
静夜が、突き飛ばすようにわたしの身体を離した。
それとほぼ同時に、扉をノックする音。
ついで、返事を待たずに扉が開き、椛さんが顔を覗かせた。
静夜としていたことがしていたことだけに、心臓がドキンと跳ね上がる。

椛さんの足音なんて、わたしには全然聞こえなかったのに
静夜はちゃんと、周囲に注意を払ってたんだ。

「しゃ、社長……なにか、ご用ですか?」

「うん、ちょっとりんごちゃんにお茶でも持ってきてもらおうかなと思って」

「それならいつもどおり、内線で言って下さればお持ちしましたよ」

なんでもないふうを装う、静夜。
見ればいつのまにやら、元通りに眼鏡をかけてすまし顔。
わたしはといえば、罪悪感でいっぱいで、椛さんとなかなか視線を合わせられない。

「え、ええと……緑茶がいいですか? コーヒー? それとも紅茶?」

悪いことをしていたからだろうか、自然と早口になってしまう。
椛さんはといえば、にこっとなにを考えているのかわからない笑顔を見せた。

「コーヒー。ミルクと砂糖、たっぷり入れてね」

ブラックじゃないのか。
なんだか、少し意外。
そんなわたしの考えを見透かしたように、椛さんはふふっと笑った。

「ぼく、死ぬほど甘党だから。5分以内に頼むよ」

「は、はい」

静夜といい椛さんといい、人の心が見えるんだろうか。
それとも、わたしがわかりやすいだけ?
部屋のすみに置いてあるコーヒーメーカーでコーヒーを淹れていると、静夜が自分のスマホを取り出した。

「連絡先を教えろ。今後必要だからな」

あくまでも上から目線の静夜を睨みつつ、わたしは仕方なく赤外線通信で静夜と連絡先を交換する。
強く出られないのは、確かだけど。
だけど、それだけで終わりたくないのも確かだ。

こんなやつなんかに、絶対負けないんだからっ!

自分を奮起させつつ、トレイにコーヒーを乗せて秘書室を出る。
社長室の扉をノックすると、「どうぞ」とのんびりとした椛さんの声がした。
呑気ともとれる穏やかなその声に、いままで入っていた肩の力が一気に抜ける。
椛さんの声って、安心感があるなあ。

「失礼します」

社長室の扉を開けて中に入ると、椛さんは書類の束に目を通しているところだった。

「ありがとう、りんごちゃん。そこ、置いといて」

「あ、はい」

左手で示された、広いデスクのあいた部分に
書類にこぼさないよう、細心の注意を払ってコーヒーを置く。

「じゃ、わたしはこれで失礼しま……」

「待った」

そそくさときびすを返しかけたわたしの手首を、椛さんはがしっとつかんだ。

「しばらくここにいてくれる?」

「えっ……でも、仕事のお邪魔じゃ」

「邪魔にはならないから。ここに座って」

ぽんぽん、と自分の太ももをたたく椛さん。

「や、いや、それはさすがに……」

「いいから、ほら」

「わわっ……!」

半ば強引に、もう一度手首をつかまれたかと思うと次にはもう、わたしは椛さんの太ももの上に、座らされてしまっていた。
いきなり密着する形になって、これまで以上に心臓がドキドキしてしまう。

「こ、こんなんで社長、お仕事なんてできるんですか」

「大丈夫。なんかりんごちゃんがいたほうが、書類の内容が頭に入るなあ」

椛さんて、ほんとに変わってる。
背中が、椛さんの胸にぐっとくっついてしまっている。
椛さんの両腕は、わたしの身体を挟み込むようにしてデスクに置かれ、手には書類を持っている。

わたしの肩越しに、椛さんは顎を置くようにして書類を見ているようで……
わざとなのかそうでないのか
吐息がときどき首筋にかかって、くすぐったいようなヘンな気分になってきてしまう。

椛さんの身体ってこんなに熱かったんだ……。
必要以上に意識しちゃって、ますますドキドキしてくるっ……。

「問題点はなし、と」

書類に目を通し終えたのか、椛さんはそうつぶやくとデスクの上に置いてあった判子を手に取り、書類に判を押した。
そしてコーヒーを左手に持ち、優雅に飲む気配。

「うん、甘さもちょうどいい。たいてい他の人に頼むと、甘さが控えめで物足りないコーヒーなんだけどね」

「あ……それは」

言ってもいいものかどうか、わたしが戸惑っていると
椛さんが、言い当ててしまった。

「寝屋川くんが、教えてくれた?」

「……はい。教えてもらったというか……わたしが淹れたコーヒーに、彼が勝手に砂糖を入れたんです」

そうなのだ。
わたしがコーヒーを淹れ終え、砂糖の入れ物から大さじ一杯くらい入れて「これくらいでいいかな」と思っていたら
静夜が勝手に、

「社長には、これくらいがちょうどいい」

と、さらに砂糖を大さじ四杯くらい入れてしまったのだ。
こんなに甘くして大丈夫なのか心配だったけど、さすが腐っても椛さんの秘書、静夜は椛さんのこと知り尽くしてるんだなあ。

「りんごちゃん」

しみじみそんなことを考えていると、椛さんはコーヒーをすべて飲み終えてコーヒーカップをデスクの上に戻す。

「寝屋川くんと、キスでもした?」

どくん、と心臓が飛び上がるほど驚いた。
なによりもわたしの背中は椛さんの胸と密着しているから、わたしの心臓の鼓動でばれてしまったらしい。
椛さんの長い指が、わたしの唇をなぞる。
それだけで、ゾクリと快感が背筋を走り抜けた。

「ぼくがしてあげた口紅、少し取れてる」

「あ……」

わたしは、慌てた。

「あの、これは……さっきコーヒーを飲んでしまって、そのときに取れちゃったんだと思います」

とっさに出た嘘。
そっと振り向くと、椛さんはわたしの後頭部を優しくつかんで固定してしまう。
椛さんの瞳から、目がそらせない──。

「ほんとに? 嘘だったら寝屋川くんをクビにするけど」

ここで静夜がクビにされたら、それこそわたしは椛さんの権力に頼ってしまっていることになる。
これはわたしの問題なんだから、わたしが自分で解決しないと。

「社長にとって静夜は、大切な秘書ですよね? なのにそんなに簡単にクビにしたら、まわりになんて言われるかわかりませんよ」

「まわりにいろいろ言われるのには、もう慣れてる」

「社長自身も、困るんじゃないんですか?」

椛さんは、じっとわたしの瞳を見つめてくる。

「ほんとうに、キスはしてない?」

「……はい」

「最初に言っておくけど。ぼくは、嘘は嫌いだよ?」

「……はい」

二度目のわたしの返事は、とてもとてもちいさなもので。
直後、椛さんはそれが至極当然とでもいうかのように、唇を重ねてきた。

「ふ、あ……っ」

突然のことに驚いて声を上げるわたしの唇を、椛さんは深く深く貪ってくる。

コーヒーの香り、と
ほのかに、はちみつの甘い味。

思わずここがどこかを忘れてしまうくらいに濃密な、とろけてしまいそうなほど甘いキス──。

「……ン……っ!」

わたしがビクリと肩を震わせたのは、わたしの唇を味わいながら
椛さんの片手が、わたしの太ももの内側に触れたから。

とっさに足を閉じようとしても、椛さんの足が下側から器用に割り入ってきて、邪魔をする。
椛さんの長い指が、わたしの太ももの内側を幾度も往復する。
ゆっくりと、触れるか触れないか絶妙な力加減で。

足の付け根に近づくたびに、スカートがめくれてしまって
わずかに抵抗するけれど、力が抜けてしまってほとんど無駄に終わってしまう。

お尻のあたりに、なにか熱くカタいものが当たる。
それがなにかということに気がついた瞬間、子宮のあたりがじゅんっと疼いた。

「や、……しゃちょっ……」

身体が反応しているはずなのに、くすくすと余裕たっぷりに椛さんはわたしの耳元で笑う。
そして、ささやいた。

「りんごちゃんは、エッチだね。でもぼくは、そういう子も好きだよ」

え、エッチって……!
じ、自分だって……っ!

それに
わたしをこんなふうにしたのは、椛さんなのに……!

「そんなに睨まないで」

椛さんは、ちゅ、ちゅっとわたしの唇に幾度も触れるだけの軽いキスを落とす。

「エッチ、だけど……反応がすごく可愛い。開発のしがいがありそう、りんごちゃん」

それってぜんぜんフォローになってない気がしますけどっ……!
涙目で軽く睨みつけると、椛さんはもう一度わたしの唇に、触れた。

「口紅、すっかりとれちゃったね」

「社長が、キスなんてするから……」

あんなに、激しく。
だけど椛さんは悪びれもせずに、にっこり笑う。

「念のため、上書き」

この人は──!
わたしの嘘を、嘘だと見抜いている。

仮にも書類の上でだけでも、わたしは椛さんの奥さんなのに
わたしが他の男と……静夜とキスしていたってわかっても、椛さんはなんとも思わないの?

なんだか少しだけ、哀しくなった。

でも……
そうだよね。

椛さんだって、めんどくさかったから結婚した、みたいなこと言ってたし……
わたしに対して本物の愛情なんて、あるわけがない。

わたしと椛さんがしているのは、いわば結婚ごっこ、みたいな感じなんだろうな。
椛さんの両手が身体から離れた隙に、わたしは立ち上がる。

「ああ、りんごちゃん」

椛さんは何事もなかったかのようにまた新しい書類に目を通しながら、言った。

「午後からは他社のお偉いさんと会食があるから、口紅、直しておいてね」

確かに口紅を塗るくらいならわたしにもできるけど……。
リップとおなじ要領で、いいんだよね?
というか。

「会食って、わたしも同席するんですか?」

「いつも秘書も同席することになってるからね。今日からは、寝屋川くんとりんごちゃんのふたりとも同席してもらうよ」

わかりました、と言いかけて一抹の不安がよぎる。

「あの……社長」

「ん? なに?」

「わたし、会食とかのための高級なお店でのテーブルマナーって、わからないんですけど……」

「りんごちゃんはいつものようにしてくれてればいいよ。問題ない」

ほんとに問題ないんだろうか。
まだ心配しつつも、「失礼します」と社長室をあとにする。
秘書室に戻ると、既に静夜は自分のデスクで仕事にとりかかっていた。

静夜とのキス、椛さんとのキス。
どちらも思い出すだけで、身体が火照ってきてしまう。

いけないいけない。ここはわたしの仕事場。
スーパーで働いていたときのように、真面目に取り組まなくちゃ。
それに……静夜とも椛さんとも、どっちのあいだにも愛情なんてないんだから。

また、ズキンと胸が痛むのは気のせい、にしておこう。

わたしは自分の両頬をバシッと叩いて気合を入れると、自分のデスクに向かった。
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