ホームレスでしたが、このたび結婚いたしました。

希彗まゆ

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千春先生

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久し振りに千春先生の夢を見たのは、苦しい恋をしているから現実逃避のためかもしれない。
神山(こうやま)千春先生。
わたしが通っていた大学の、国語の講師だった。

わたしが大学一年生のとき当時29歳だった先生は、どこか飄々(ひょうひょう)としていて。
きれいな顔をしていて、女の子たちからもモテたのにいつもひとりでいる、変わり者だった。

女の子たちが探しても、自分の特等席に逃げてしまう。
千春先生の特等席は、大学構内にある、さびれた裏庭だった。
誰も手入れをしていなくて、雑草もぼうぼうで昼でもおばけが出る、と言われていたから誰も寄りつかないところ。

わたしがそこに行ったのは、千春先生を尾行したからだ。
そんなことをしたのも、先生が絵を描く趣味を持っていることを知ったから。
文学部の部室で、部で出している本の中でとてもきれいな表紙のイラストを見て、静夜の絵に似ている、と思った。

もしかしてほんとに静夜の絵なんじゃないか。
もしそうだったら、こんなところまで静夜との縁がついてくるなんてイヤだ。
確かめるために、表紙をめくった。
そこには、表紙イラストを描いた人間の名前が記されているはずだ。

神山千春。
そこには、そう書かれてあった。

──静夜じゃ、なかった。
ほっとして、すぐに好奇心を覚えた。

別人なのに、こんなに絵が似ているなんて。
神山先生って、でもぜんぜん顔も性格も静夜に似ていないのに。

優しくて穏やかで、絶対怒らない。
そう評判だった。
静夜とは、大違いだ。

7月、夏休み直前のある日。
わたしは、先生を尾行して、そのさびれた裏庭で先生が体育座りをしてスケッチを始めたのを見計らって、声をかけた。

「神山先生」

びっくりするかな、とちょっとわくわくしていたのに、先生は特別驚いたふうでもなくスケッチをしたまま、言った。

「知ってます? ここ、おばけが出るんですよ」

「……先生のことつけてたの、ばれてました?」

「ばればれです」

そして先生は初めて、わたしのほうを振り返った。
焦げ茶色のふわふわのくせっ毛が、風になびいて優しく揺れる。

「ここまでつけてきたのは、七瀬さんが初めてですよ。みんな途中で恐がって、逃げてしまいますからね」

わたし以外にも、先生をつける人なんて、いたのか。
先生はモテるから、当然かもしれない。
それよりも、名前を覚えてもらっていることに感動した。
わたしはそんなに、目立つ生徒でもないのに。

「生徒の名前、全部覚えてるんですか?」

「一応、ぼくが担当している生徒はね」

──すごい。
そんな先生、ほんとにいるんだ。
千春先生に興味を覚えたわたしは、素直に謝った。

「つけたりなんかして、ごめんなさい。文学部で、先生のイラストの表紙を見て……わたしのことイジメてた奴の絵に、すごく似てたから……先生のこと、知りたかったんです」

じっとわたしを見つめていた先生は、ふっと優しく微笑んだ。

「それは……なにかの縁、かもしれませんね」

つけてきたのを怒るでもなく、そんなふうに言ってくれた。
それからわたしは、先生を見かけるたび暇さえあれば、つきまとうようになった。
もちろん、先生目当ての女生徒が来れば誤解のないよう、すぐにその場を去ったけれど。

そんなとき先生は、決まって特等席へ逃げて。
わたしはあとからそこへ行って、先生がスケッチするところを見せてもらったり、人間関係や難しい授業の愚痴を言ったりもした。

いつも先生は優しく微笑んで、愚痴にも優しく相槌を打って、丁寧にアドバイスをくれた。
それが、まともに男の人と接してこなかったわたしには、新鮮で。
先生とすごす時間が、楽しくて、うれしくて──。

男の人って、みんな静夜みたいなものかと思っていた。
千春先生は、ぜんぜん違う。静夜なんかとは、比べ物にならない。
優しくて穏やかで包容力がある、おとなの男の人──。

夏休み中もほぼ毎日、アルバイト以外の時間を使って特等席に行った。
先生はいないときもあったけれど、待っていればたいていスケッチブックを持って現れた。
そして、わたしの話し相手をしてくれた。

だんだんと、他の女子生徒が千春先生と話しているところを見ると、胸が苦しくなって、つらくなって。
自分が恋をしているんだ、と気づいたのは大学に入って、二年目の夏。
千春先生と過ごすようになって、ちょうど一年が経ったころだった。
人生初めての、恋。
わたしの、初恋だった。

そのころには、わたしと先生はお互い「友達同士」と周囲にも、されていたから

「連絡先、交換してもいいですか?」

思い切って、そう聞いてみると

「うん。いいですよ」

先生は、快く承諾してくれた。
それからは毎日のように、ケータイでメールのやり取り。
いつも先生からのメールは、すぐに返ってくるのに夏休みのその日だけは、なぜかいつまで待っても返ってこなくて。

なにかあったんじゃないかな。
心配になったわたしは、電話をかけてみた。

ずいぶん待ってから、

『……はい』

電話に出た先生の声は、ひどくしゃがれていた。

「千春先生、もしかして風邪引きました?」

『……うん。ぼく、よく風邪引くんです。メールの返事が返せなくて、すみません』

弱々しい先生の声に、いてもたってもいられなくなった。

「そんなこと、どうでもいいです。先生、ひとり暮らしですよね? 病院には行きましたか? 看病してくれる人はいますか?」

『病院は……いつものことだから、行っていません。看病してくれる人なんか、いないよ。大丈夫、すぐに治りますから』

「先生、先生の住んでる場所、教えてください」

『……え?』

「わたしが、看病しに行きます」

『え、いや……でも。それは申し訳……』

「友達同士なんだから、遠慮なんかしないでください。看病っていっても、たいしたことできませんけど」

早く、とわたしに急きたてられて、先生はメールで住所を教えてくれた。
灯台下暗し、とはこのことを言うんだろうか。
わたしの実家から先生の下宿先は、目と鼻の先ほどの近さだった。
家からわけあり林檎を持ってそのアパートに行くと、扉の前でスウェット姿の先生が、ぐったりと座り込んでいた。
わたしは、驚いて駆け寄った。

「先生!? どうしたんですか!?」

もしかして病院に行きたいのかな。
だけど先生は、わたしを見上げて力なく微笑んだ。

「……ほんとうに、来てくれたんですね」

「そんなの、当たり前じゃないですか」

わたしのほうから、行くって言ったんだから。

「入って、ください」

扉を開ける先生の後ろから部屋の中に入りながら、ふと気がついた。

「もしかして、先生……わたしのこと、待っててくれたんですか?」

「はい。せっかく、看病にきてくれるんですから……それくらいは、しないと。バチが当たります」

ああ、……やっぱりわたし
千春先生のことが、好き──。

あふれそうになる、その想いを

「……先生は、ばかですね」

悪態をつくことで、抑え込んだ。
恋愛をするなんて初めてのわたしには、自分の心の中の「好き」という感情を相手に知られることが、恐くて──。

「よく、言われます」

先生は、ふわりと笑っただけ。
きゅん、と疼く胸。

わたしはアルバイトはしていたけれど、ほとんど借金の足しにと思って家に入れていたから、必要最低限と思われるお金しか持っていなくて……そのお金で買ってきた食材で、お粥を作った。

わけあり林檎をすりおろしたものも、添えて。
それを見た先生の顔が、ぱっと輝いた。

「林檎だ。うれしいなあ」

「林檎、好きなんですか?」

「うん。風邪のときには、最高ですね」

そして先生は、すりりんごから先に食べてくれた。
とってもとっても、おいしそうに。
とってもとっても、幸せそうな笑顔で。

それからわたしは先生が風邪を引くたびに、先生の下宿先に行って看病をするようになった。
お粥は、使う食材こそ貧相なものだったけれど。
それでも、少しずつバリエーションを変えて。
必ず出すのが、すりりんごだった。

わたしと先生の”友達関係”は、わたしが大学を卒業するまで、ずっと続いた。
少し前から友達のひとりに、わたしの、先生への恋心を気づかれていたのだけど。
みんな、あたたかく見守ってくれて……。

「りん子の大切な、初恋だもんね。大事にしなくちゃ」

そう言って、他の女の子たちにも内緒にしてくれて。
でも卒業が近づいたある日、友達のひとりが言ったのだ。

「せっかくなんだし、卒業を機会に告白だけでもしたらどうかな? 千春先生、りん子には特別優しいし。ひょっとしたら、ひょっとするかもよ」

ひょっとしたらひょっとする、なんて言葉に踊らされたわけじゃ、ない。
だけど、このまま先生への恋心を抱えたまま、卒業することにも抵抗があった。
せっかくの初恋に対して、自分に対して失礼だ、と。

卒業式が終わって、千春先生を、あの特等席に呼び出して。
勇気を出して、告白した。

「わたし、……ずっと先生のことが、好きでした。いまでも、好きです。すごくすごく、好きで……こんな気持ち、初めてなんです」

初めて、ずっと抑えてきた感情に任せて一息にそう言うと、千春先生は変わらない、優しい微笑みのまま、優しく言った。

「ありがとう、七瀬さん」

でも、と先生の焦げ茶色の瞳が翳(かげ)り、淋しげな笑みにとってかわる。

「でも……ぼくは、恋愛には向かない男です」

「先生、」

すがるようなわたしの頭を、先生はそっと撫でてくれた。
壊れ物にでも、触るかのように……そっと、そっと。

「七瀬さんには、もっと素敵な恋愛が、きっと未来に待っていますよ」

ああ……わたし、ふられたんだ。
そう気がついたときには、涙が止まらなくて──。

だめ。泣いたりしたら、だめだ。
そんなの、優しい先生を困らせてしまうだけなのに。
そう思って必死に顔を背けるわたしに、先生は変わらず優しい声で、続けた。

「ぼく、七瀬さんが持っているもので、欲しいものがあるんです」

わたしが持っているもので、先生が欲しいもの……?
涙を手の甲で拭って、もう一度先生のほうを見る。
先生の顔に、もう淋しい影はない。

「いつも七瀬さんが持ってる、りんごのキーホルダー。ぼくに、くれませんか?」

わたしの子供のころのお小遣いは、2ヶ月に100円と決まっていて。
そのお小遣いで、100円ショップで気に入った、りんご型の爪切りのキーホルダーを買った。
そのキーホルダーだったら、確かにわたしは子供のころから、常に持ち歩いている。
わたしは、それをバッグから取り出した。

「でも、これ……かなり古いですよ。こんなもので、いいんですか?」

「はい。七瀬さんがぼくの心にいた証として、七瀬さんの存在をぼくの胸に刻むために。物に頼るなんて、ぼくはほんとうにしょうもない男ですけど」

聞きようによってはかなり意味深な、でもそうだとしてもかなり遠回しな言い方に、まったくの恋愛初心者のわたしは、戸惑ってしまう。
そんなわたしからキーホルダーを受け取ると、先生は「ありがとう」とうれしそうに微笑んだ。
その笑顔に、背中を押された。

「わたしも、欲しいものがあります」

「なんですか?」

「先生からの、キス……です」

千春先生の瞳が、わずかに見開かれる。
とてつもなく恥ずかしくなりながらも、勇気を絞り出して続きを言った。

「先生。最後に、……キス。して、ください」

しばらくのあいだ、先生は黙ってわたしを見つめていたけれど。
やがてわたしの顎に、そっと指をあてがった。
キスのときどんな顔をしたらいいのかなんてわからなくて、ただ、ぎゅっときつく目を閉じる。
息が先生に当たったら失礼だ、とも思って息まで止めて。

そんなわたしの額に、千春先生は優しいキスをくれた。
蝶の羽が触れるような、優しい……キス。

唇に、ではなかったけれど、それでも、死ぬほど胸がドキドキして。
これが、好きな人にキスしてもらう幸せなんだ、と実感して……すごくうれしくて、でも苦しくて──また、涙がこぼれた。

「七瀬さん。幸せに、なってください」

頬に触れた先生の手が離れて、ゆっくりと遠ざかる、先生の姿。

卒業式のあと気まずくて、しばらくは先生にメールや電話は送れなかったけれど。
すぐに、静夜との結婚話が持ち上がって鎌倉を出て、ケータイを変えて、メアド変更のおしらせを先生に送った。

だから正確には、いまのわたしのケータイのメアドを知っているのはお母さんだけじゃなく、千春先生もなのだ。

それからぽつぽつと、先生とまたメールの交換をするようになった。
相変わらず世間話やわたしの愚痴ばかりだったけれど、たまに電話をしたりもした。
電話代がかかるからほんとに短い通話だったけれど、わたしはそのあいだはすごく幸せだった。

なのに、ある日突然、先生と連絡が取れなくなってしまった。
メールの返事が、いくら待っても来ない。
もしかして、また風邪を引いているのかな。

数日経ってそう思って電話をしてみると、この電話番号は使用されておりません、という機械的なアナウンスが聞こえてきて、おかしいなと思った。
それからずっと先生のことが気になっていて、わたしの恋心にも終止符を打つことができないまま、宙ぶらりんで。

でも、わたしは椛さんと出逢った。
椛さんへの想いは、既にあの甘酸っぱい初恋とは比べ物にならないくらいに強く大きく、ふくらんでいる。

椛さんは、わたしのことを好きだなんて言ってもくれない。
だからきっと、ほんとに好きなんかじゃないんだろう。
結婚した相手だから、優しくしてくれるだけ。
身体の関係を迫るのだって、子作りのためだけ。

苦しい。
胸が苦しくて、……息もできないくらいに。

先生。
千春先生。
わたし、どうしたらいいのかな──。
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