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どうして知ってるの?

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「……、」

唇に、熱くてやわらかいものが触れた感触に目を開けると、かなり近い場所に、椛さんのきれいな顔があって、驚いた。

「社長、いま……」

「おはようのキス。もう、朝だよ」

あ……おはようの、キスか。
だけどいつもは、わたしが起きるのを待ってから……なのに。
言いながらも椛さんは、幾度もわたしの唇にキスを落とす。
なんだか……いつもの椛さんと、ちょっと様子が違う……?

「社長……?」

「今日は会社行くのやめて、りんごちゃんを抱こうかな」

「な、」

朝っぱらから、あなたはまた……っ!

「りんごちゃんはどうして、ぼく以外の男の名前を呼ぶの?」

「え……」

まさか、わたし。
寝言で千春先生の名前、呼んじゃってた……?

「あ……初恋の人の夢、見てて……それで」

わたわたと慌てるわたしの身体に、椛さんは本格的に覆いかぶさってくる。
その椛さんの重みが、心地いい……だなんて、思っている場合じゃない。
椛さん……一見いつもの穏やかな微笑み、に見えるけど、目がぜんぜん笑ってない。

「旦那とおなじベッドで、他の男の夢を見るなんて。いい度胸だね? りんごちゃん」

「そ、……あ──っ!」

言い訳も許さず椛さんが、わたしの首筋に顔をうずめてきた。
強くきつく痛いほどにソコを吸われて、そのあいだにパジャマのボタンを全部外されてしまう。

「や、……っ!」

隠そうとするわたしの両手を、椛さんは大きな手でつかんで阻む。
裸の胸に椛さんの視線を感じて、恥ずかしくなって、でも身体の芯が一気に熱を持った。

「かわいい、りん子」

「ひゃ、あ……っ」

耳元でささやかれ、胸を両方とも椛さんの手で包まれて。
下から持ち上げるように強く優しく、揉みほぐされて──。
椛さん、……また、名前、で……ベッドの中、だから……?

「社長、……あ、朝から……っ」

「ぼくの機嫌を損ねた、罰」

「そんな、……あ──!」

ちゅっと先端に、くちづけられた。
軽く、なのにたったそれだけで、身体全体を痺れるような電流が走り抜ける。
ちゅ、ちゅっと、愛おしむように幾度も繰り返されて、わたしは全身の力が抜けてしまって。
力なく喘ぐだけで、せいいっぱいで──。

「わたしばっかり、……ズルい……っ」

いつも熱くなるのは、わたしだけ。
おとといの社長室では、……違ったけれど。
そのことを思い出すと、ますます身体が、……ひとりで妄想して悶えている、どうしようもないわたし。

「ぼくも相当、余裕ないよ」

わたしの胸から顔を上げて、くっと楽しそうに笑う、椛さん。
あ……機嫌、直った……のかな?

「触って確かめてみる?」

からかうように言いつつわたしの手をつかんだものだから、わたしは慌てて抵抗した。

「そんなの、だめ……っ!」

反応した余裕のない椛さん、なんて。
そんなの、刺激が強すぎて触ったりなんかしたら、そのとたんに鼻血を噴いてしまいそう……!

「ほんとにかわいいね、りんごちゃん」

くすくす笑いながら、わたしの唇に触れるだけのキスをくれる、椛さん。
よかった……ほんとに機嫌、直ったんだ。
そのために朝から散々な目に遭わされたけど、いつもの椛さんでいてくれたほうが、わたしも安心する。
今日は結木家のお抱えシェフは、ちゃんと風邪を治したらしく

「朝食の用意ができました」

水口夏斗が呼びにきて、大きな食堂で椛さんと朝食をとる。
豪華な食事もおいしいけれど、昨日のたまごかけごはんのいっときが恋しく感じられるのは、わたしが贅沢になってきている証拠だろうか。
もちろんどんな食事だっておいしいし、椛さんと一緒にごはんが食べられるなんてすごくすごく幸せに感じてしまうのだけれど。

椛さんは、さっきのわたしに対する襲撃なんて、まるでなかったことのように優雅に朝食を食べている。
わたしなんて、まだ身体が熱く感じているのに……そのきれいなすまし顔が、ちょっと恨めしい。

「うーん、100万円しかないなあ」

椛さんがそんなけったいなことを言い出したのは、部屋に戻ってすっかり会社に行く準備を終えてからのこと。
100万円しかないって……いったい。

「どうしたんですか?」

尋ねてみると、椛さんは自分の黒い長財布の中を確かめているようだった。
その長財布、かなり……分厚い。

「りんごちゃんに、ゆうべ言ってた現金を渡そうと思ったんだけどね。いま現金は、ぼくの手持ちだと100万円しかないんだよ。あ、カードはこれね」

そう言って、カードを渡してくる椛さん。
いやいや、椛さん。
それってものすごく、突っ込みどころ満載な発言なことに……気づいてますか?
ある程度のレベルをこえたお金持ちの人ってみんな、現金はそんなに家にないものなんだろうか。

そうか、銀行に預けたりしてるのか。
あとはカードですませていたりして……ほんとに、わたしなんかと住んでいた世界が違う。
というか、100万円でも充分に大金だと思うんですけど。
そんな大金、持ち歩いているほうが心配なんですけど。

「千円もあれば、充分です」

痛みを訴えてくる頭を押さえつつそう言うと、椛さんは納得がいかなそう。

「千円だけじゃ、ぜんぜん買い物なんかできないでしょ? それにいま、財布の中に千円札はないんだよ」

まさか、万札オンリー?

「じゃ、500円玉で……」

「それじゃ、バス代ぐらいにしかならないよね?」

確かに、実際に使うのは静夜のところに行くバス代だけだけど、名目上は買い物に行く、と言ってあるんだから500円だけじゃあやしまれるかもしれない。
そんな嘘をついてまで、静夜のところに行かなくちゃならないなんて……罪悪感と悔しさで、胸の奥が苦しくなる。

「じゃあ、……1万円で……」

自然とうつむきがちになりつつそう言うと、椛さんの指先がわたしの顎をとらえ、仰向かせた。
穏やかな優しい笑顔が、そこにある。

「今日も、なるべく早めに帰るから。好きな食べ物でも食べて、いい子で待ってるんだよ」

「……はい」

そんな優しい言葉をかけられたら、ますます苦しい。
でも悟られたらまずい、と思って、わたしもむりやり笑顔をつくった。
結局100万円全部を、椛さんはわたしに渡す。

「でも、それじゃ椛さんが困るんじゃ……」

「ぼくのぶんの現金は、あとで補充しておくから心配しないで。じゃあ、いってきます」

そう言って椛さんは、会社に出かけていった。
部屋に取りつけられた、テレビをなんとなく見たりして時間をつぶし、夕方になり、昨日とおなじぐらいの時間にわたしは結木邸を出た。
今度は事前に椛さんに、門と玄関の鍵を渡されている。

「ほんとにひとりで大丈夫か?」

水口夏斗は、心配そうだったけど……

「子供じゃないんだから、大丈夫」

そう言ったら、

「子供じゃないから、心配なんだろ」

それは……もっともな意見なのだけど。

「ひとりのほうが、気楽に買い物できるから」

なんとか押し切った。
そしてまた、静夜のマンションの部屋に上がって

「脱げ」

昨日とおなじく冷たくそう言われて、悔しさと恥ずかしさをぐっとこらえて服を脱いだ。
けれどなぜだか今日はすぐにスケッチには入らずに、静夜はじっとわたしの首筋や鎖骨、胸のあたりを見つめている。

「……そんなに見られると、イヤなんだけど」

椛さん以外の人に、しかも静夜なんかに裸を凝視されるなんて、やっぱり屈辱で。
すると静夜は手を伸ばしてきて、首筋のあたりに触れた。

「いたっ……!」

カリッ、と爪の先でソコを引っかかれる。

「社長に、抱かれたのか?」

「……え?」

「キスマークがついてる。ここにも、ここにも」

言いながら静夜は、鎖骨と胸のふくらみのあたりにも、指を滑らせて爪を押しつける。
そのたび身体が、ビクリと震える。

「……やめ、て」

キスマーク……ってもしかして、朝のあのときに……?

「さわら、ないで」

震える声でそう言うと、ようやく静夜は指を離した。

「抱かれたのか?」

そしてもう一度、尋ねてくる。
わたしは黙って、かぶりを振った。

「おまえがバージンじゃないってわかったときの社長の反応が、楽しみだな」

ソファに腰を下ろしながら、イジワルげに口角を上げる、静夜。
どこまでも、性根の腐ったやつ。
なんでこんなやつなんかに、大切な初めてをあげちゃったんだろう。

「……でも、」

悔しくて、でも……椛さんが、キスマークをつけてくれたことがうれしくて。
衝動に駆られて、言葉が口をついていた。

「社長には、せめて……わたしの、二度目をあげたいって……思ってる」

スケッチブックを手にした静夜の瞳が、わずかに見開かれた。

「セカンドバージンってことか?」

コクンとわたしがうなずくと、

「それっておまえ……まさか、あのとき以来、誰にも抱かれてないのか?」

静夜は、心底驚いたようだった。

「わたし……初恋の人にふられて、ずっと引きずってて。社長と出逢うまで、新しい恋なんてできなかったから」

なぜだか黙り込んでしまった静夜に、わたしはすがるように言う。

「だから……わたしの身体を描くだけに、して。もうこれ以上、社長以外の人に身体を触らせたくない」

静夜はそれには答えず、黙って、スケッチを始める。
その鋭い眼光は、まるでわたしの身体を射抜くようで。
身体が、すくんだ。

「おまえの初恋の人って、どんな男なんだ?」

静夜がそう聞いてきたのは、スケッチを終えて、わたしが服を着始めているとき。

「そんなの、あんたに関係ないでしょ」

「いいから、答えろよ」

命令口調の静夜に、逆らえないのは……もうちいさなころからのすりこみ、としか言いようがない。
しぶしぶ、打ち明けた。

「大学のとき、絵のうまい先生がいて。その先生の絵があんたの絵にすごく似てて、どんな人かなって興味を持って近づいて……それがきっかけで、仲良くなったの。優しくて穏やかで、絶対怒らないおとなの男の人で……絵は似てても、あんたとは大違い」

多少皮肉をこめたつもりだけど、静夜は驚いたように目を瞠(みは)る。

「まさかとは思うが、……そいつの名前は神山千春か?」

「えっ……」

今度はわたしが、驚く番だ。

「どうして静夜が、先生の名前を知ってるの?」

「なんでもなにも、俺に絵を教えてくれたのは千春さんだ。画風が似ていて当たり前だ」

まさか、千春先生と静夜にそんな縁があっただなんて。
とたんに、興味が沸いた。

「千春先生とは、どうやって知り合ったの?」

聞いてみると、案外あっさり静夜は教えてくれた。

「俺の親父の会社と、千春さんの父親の会社は重要な取引相手で。俺の家に、たまに来ていたんだ。千春さんの父親が千春さんも連れてきていたのは、千春さんが跡取りだったからだろうな」

まだちいさいころに静夜は千春さんと出逢い、千春さんは静夜とよく遊んでくれて、絵を描くことも教えてくれたらしい。

『ストレス解消にいいよ。絵を描いているあいだだけは、ほかのことを考えなくてもすむ』

千春先生は、まだ幼い静夜にそう言っていたらしい。
千春先生が、跡取り……って……。

「千春先生って、もしかしてどこかの御曹司……?」

すると静夜は、冷たい一瞥をくれた。

「初恋の相手のことなのに、おまえ千春さんのことなにも知らないんだな」

「どういう意味?」

「別に」

こいつ……ほんとに、むかつくっ……!

千春先生がどこかの御曹司だとしても、わたしには関係ない。
千春先生は、千春先生。
わたしの初恋の人。
ただ、それだけのこと。

ふと、静夜ならいま千春先生がどうしているのか知っているんじゃないか、と思い当たる。

「静夜。あんた、いまも千春先生と連絡取ってる?」

「……なんで、そんなこと聞くんだ?」

「ある日突然、連絡が取れなくなっちゃって……そのままなの。いま千春先生がどうしているのか、知らない?」

「まだ初恋の男に、未練があるのか?」

「違う、そういうことじゃなくて」

ただ、わたしは安否が知りたいだけ。
わたしのその思いを、静夜は珍しく正確に汲みとってくれたらしい。
難しい顔をして、うつむいてしまった。

「……残念だが、いまは千春さんとは連絡を取っていない。俺も突然、連絡が取れなくなったんだ」

「……そうなんだ」

そうなるとますます、気になってくる。
いったい千春先生に、なにがあったんだろう。

「なにも言わずに、黙っていなくなる人じゃないのに」

静夜のその淋しそうなつぶやきから、こんなやつでも千春先生のことを慕っていたんだな、とわかって、少しだけうれしくなる。
それだけ千春先生のことを、認めてもらえた気がして。

「もし連絡が取れたら、どうするんだ?」

ふと、静夜がそんなことを聞いてくる。

「やけぼっくいに火がついたら、どうする? 仮にもおまえはいま、社長と結婚しているんだぞ」

「そんなことには、ならないよ」

不思議と、その自信がわたしにはあった。

「いまわたしが好きなのは、社長だもの。それは、変わらないよ」

わたしが椛さんに対する”好き”は、初恋の千春先生への”好き”とは、比べ物にならないくらいに大きい。
椛さんのことを考えるだけで胸がきゅんと疼いて、会いたくて会いたくてたまらなくなる。
毎日顔を合わせているのに、それでもまだ足りない。
それくらい、好き。
静夜は「そうか」とつぶやき、かと思うと、一転した冷たい目でわたしを見下ろした。

「来週と再来週の土日も、おなじ時間に来い」

千春先生のことを話していたときは、まだあたたかい瞳をしていたのに……。

「まさか、こういうの……ずっと、続くの?」

不安に思って尋ねたけれど、静夜はかぶりを振った。

「再来週で、絵は完成すると思う」

「そんなに早く、完成するものなんだ」

「俺の趣味で描いている絵だからな」

趣味で描くなら、もっと違う絵にすればいいのに。

買い物に行く、と椛さんにも銘打って家を出たのだから、少しくらいはなにかを買って帰らないと、不審に思われるかもしれない。
昨日はなんとか、気づかれなかったみたいだけれど。

買いたいものがなにもなかった、という理由は、せいぜい一度くらいしか使えないだろうし、昨日も今日もなにも買って帰らなかったら、あやしすぎる。
そう思って、静夜のマンションを出たあと街中まで行ったけれど、なにを見ても買うのがもったいない気がして仕方がない。
貧乏性が板についてるんだな、わたし。

……食べ物なら、いいかもしれない。
ふと、そんなことを思う。

食事は結木家のお抱えシェフが作ってくれるけれど、その後のデザートにちいさなケーキだったら。
そんなわたしの眼前には、テレビでもよく見る有名洋菓子店。
店内に入ってみれば、おしゃれで可愛らしいケーキがずらりと並んでいる。

「おいしそう……!」

椛さんと一緒に、食べたい!
できれば、全種類!

そんな衝動に駆られたけれど、さすがに全種類は食べ切れないし、もったいない。
そう思って、ハート型のチョコレートケーキをふたつ買った。

『恋人同士で食べると、一生一緒にいられます』

そんなうたい文句がついていて、それにつられたといっても過言ではない。
ケーキ箱には店員さんが、そのうたい文句がついたカードも入れてくれた。

このカードを見たら、椛さん……なんて思うかな。
わたしが椛さんのことを好きって……ばれちゃう、かな。

そう思うと恥ずかしいけど、恐い気持ちもある。

わたしだけ椛さんのことが好き、だなんて……椛さんにとっては、……重い、かもしれない。
いざとなったら店員さんに強引にオススメされたんだ、って言おう。
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