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はちみつバレンタイン(プチ続編)
ひどくて、ズルい
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新婚生活1年目。
結婚……入籍してから、まだ数ヶ月しか経っていないっていうのに、夜の椛さんは容赦がない。
「りん子、足開いて」
「も、みじさん……っ」
毎晩毎晩、求められるわたしの身体。
その日はいつもよりも激しくて、でも音を上げそうになるわたしを、椛さんは許してはくれなくて。
「だめだよ、りん子。もっと開いて?」
「も、……これ以上は……恥ずかし、くて……っ」
だけど椛さんは、ふっとイジワルげに微笑むのだ。
「ぼくになんて、散々見られてるでしょ? 大丈夫。ちゃんとキレイだから。安心して、ぼくに見せて?」
「……や……っ!」
結局やんわりと、でも強引に椛さんの手でカラダは開かれて──。
わたしの名を幾度も呼ぶ、椛さんの低く甘い声。
いつもわたしは、そんな椛さんの身体に、ただただしがみつくばかりで──。
「明日から出張だから、今夜は覚悟して?」
ベッドに入る前に、確かにそうは言われていたけど……でも……っ。
やっと終わった、と思ってうつぶせになるや、すぐさま後ろから抱きしめてきて、イケナイ場所ばかりで指を動かす、椛さん。
「や、……っ……椛さん、ほんとにもう……っ……」
首をねじるようにして振り向けば、
「だめだよ」
椛さんの焦げ茶色の瞳が、色っぽく煌めく。
「まだ、ぼくが物足りない」
それだけでもう、わたしの身体の芯が再びずくんと熱く疼いてしまう。
わたしはもう、身体の中も外も甘い痺れでどうにかなってしまいそうなのに。
「りん子」
わたしの中で熱を動かす椛さんが、ふっと笑う。
「腰、動いてる」
「っ……! それは、……椛さんが……っ……あ……っ!」
「ぼくが、なに?」
容赦のない、椛さんの動き。
そういうふうに動けば、わたしがなんにも言えなくなってしまうことを、椛さんは、もうじゅうぶんに知っているから。
甘い声しか出せなくなってしまうことを、知っているから。
椛さんは、──ひどい。
ひどくて、──ズルい。
だけど、そんな椛さんのことが大好きだから、わたしはなんにも言えなくなってしまう。
麻痺するほどの快感を与えられて、真夜中を過ぎるどころか、明け方近くまで。
ほんとに足腰立たなくなるまで、抱かれ尽くされてしまった。
「専属秘書なんだから、りん子さまも一緒に連れて行ってもいいんじゃないですか?」
と、水口夏斗は言ってくれたのだけど
「ぼくもそうしたいところなんだけど、先方がどうしてもぼくひとりとじゃなきゃ会いたくないっておカタいお方でね」
残念そうに、椛さんは答える。
今回の取引先は仙堂(せんどう)グループというところだそうで、なんでも、ルミエール・ファクトリーの会長──椛さんのお祖父さんの代から贔屓にしている、大切な取引先なんだそうだ。
だからというか、もちろん静夜も連れて行けないらしい。
「じゃありんごちゃん、ぼくが帰るまでいい子でいてね」
まだ身体にだるさの残るわたしの唇にキスをして、出張に行ってしまった、椛さん。
わたしの身体は、まだ疲れを残しているのに……椛さん、ほんとに元気だなあ……。
いまは、2月になってバレンタインもいよいよ、という時期。
今年はバレンタインは土曜日で会社も休みだし、そのころには椛さんも出張から帰ってくるって言っていたし……バレンタイン当日は、椛さんとふたりでゆっくり過ごせるかな?
椛さんを見送ってから、わたしも急いで会社に行く準備をする。
いまではわたしも、簡単なメイクくらいならひとりでもできるようになった。
椛さんの指導のたまものだ。
といっても、ファンデーションと口紅くらいだけれど。
支度を終えて、運転手の前田さんの待つ門の前まで行くまでのあいだに、見送りについてきてくれている、水口夏斗に聞いてみた。
「椛さんて、どんなチョコが好きですかね?」
「チョコ? ああ、バレンタインチョコですか」
最近水口夏斗はすっかり敬語になってしまって、それが少しだけ淋しい気もする。
「うーん、どんなチョコがいいか、か……椛さまは、無類の甘いもの好きですからねぇ。でも去年まではもらったバレンタインチョコ、全部養護施設に寄付してたんですよね」
「えっ……どうしてですか?」
水口夏斗は、ちらりとわたしを見下ろす。
「椛さまは、4年前からりん子さまのことがずっと好きだったんでしょ? りん子さまに操を立ててたんじゃないんですか?」
まあ身体のほうは操を立ててはいなかったみたいですけど、と少し皮肉げに、水口夏斗はつぶやく。
わたしに操を……って、まだ再会してもいなかったのに……。
もしほんとにそうだとしたら、……どうしよう。
すごくうれしい。
車の中でも自然とニヤけてしまいながら、わたしは出社した。
朝礼のあといつもどおりに秘書室に行くと、静夜がなぜだかため息をついた。
「ゆうべは社長も相当手加減しなかったみたいだな」
「え?」
な、なんでそんなこと静夜にわかるんだろう。
すると静夜は、自分の首筋を、持っていたボールペンで指し示す。
「キスマーク。ばっちりついてるぞ」
「えっ!?」
わたしは慌てて、バッグからコンパクトを取り出して確認してみた。
確かに……左の首筋に、明らかにキスマークとわかる赤い印がつけられている。
少し後ろのほうだったから、自分ではちょっと気づきにくい位置。
椛さんてば、いつのまに……っ!
「いつもは見えない部分にしか、しないのに……っ」
どうしよう。朝礼のときに、みんなにもばれちゃったかもしれない。
といっても、もう本社のみんなどころか、世間にもわたしと椛さんの結婚は公表されているから問題はないのかもしれないけれど。
それでも、キスマークとかっ……恥ずかしすぎる。
「それだけ社長に愛されてるってことだろう」
わたしのつぶやきを、静夜は丁寧に拾う。
「どうしよう、今日はルナ・ファクトリーの社長がご挨拶にいらっしゃるんだよね?」
ルナ・ファクトリーというのは、ルミエール・ファクトリー傘下の会社。
その社長が、わざわざわたしに会いに来て下さるのだ。
どうせなら本社の社長である椛さんも一緒のときがいいのに、とも思ったけれど、あいにくとルナ・ファクトリーの社長の都合が合わないのだそう。
椎名雪兎(しいな・ゆきと)、というのが社長の名前だそうで、年齢は28歳。
「雪兎はぼくの従弟でもあって、ちいさなころからの……そうだな、イタズラ仲間ってところかな。兄さんにも一緒に可愛がってもらったりもしたよ」
椛さんは椎名さんの情報を事前にくれたとき、懐かしそうにそんなふうに語ってもいた。
イタズラ仲間っていうことは、椛さんもちいさなころはやんちゃしてたりしたのかな。
椛さんのそういう話も、椎名さんから聞けたらいいな。
そんなふうに、楽しみにしていたのに。
「とりあえず、ファンデーションで隠したらどうだ?」
早くもパソコンに向かって、仕事に取りかかっている静夜が、一応助け舟を出してくれる。
「え、キスマークってファンデーションで隠せるの? どうやって?」
「そんなことも知らないのか」
そんなこと言われたって、まともに男の人とつきあった経験がないのだから、仕方がない。
あとから気づいたけれど、中学生のとき静夜となにもなかったのなら、わたしのファーストキスの相手でさえ、椛さんなのだから。
静夜が立ち上がり、わたしのデスクの傍へと歩み寄ってくる。
そして、
「貸してみろ」
わたしが手に持っている化粧道具の入ったポーチを取り上げた。
「えっ……ちょ、静夜……っ」
「動くな。ファンデーションが服についたらどうする」
そ、それは困るっ。
椎名社長は椛さんにとっても大事な人なのに、汚れた服で会うなんて、そんな失礼なことできるわけがない。
首筋にパタパタとパフが触れる感触は、なんだか不思議な心地だ。
椛さんにメイクしてもらっていたときだって、椛さんは、当たり前のことだけど首筋にはファンデーションなんてつけなかったし。
こういうこともできるってことは、静夜もわりと女性経験豊富なんだな。
これだけイケメンなんだから、恋人のひとりやふたり……いや、もっとかな、いなかったほうがおかしいのかもしれないけれど。
「そんなに緊張するな。こっちまで意識するだろう」
「ご……ごめん」
知らず緊張していたわたしは、思わずますます背筋をピンと伸ばしてしまう。
「心配しなくても、おまえに変なことはもうしない。千春さんの大事な人だしな」
静夜の中では、あくまでも、いまだに椛さんより千春先生のほうが、存在は大きいらしい。
「だけど」
ぴた、とパフの動きが止まる。
見上げると、思ったよりも近い位置に静夜の整った顔がある。
反射的にドキリとしてしまったのは、長年静夜に対していい感情を持っていなかったせい。
そんなわたしを見下ろしながら、静夜は言った。
「俺は、椛社長のことを尊敬しているとも思う。だけど、おまえをあきらめたとはひと言も言っていないからな」
「え……?」
それってどういう意味……?
だけど、静夜がもう一度口を開こうとしたその瞬間
「椛がいないあいだに浮気ー? 案外尻軽なんだね、椛の奥さんって」
秘書室の入り口のほうから声がして、わたしと静夜はビクリと振り返った。
一瞬、本物の椛さんかと思ったほど、椛さんと似た、低く甘い声。
容貌も、兄弟なんじゃないかと思うくらい、椛さんと似ている。
もしかしたら、千春先生よりも似ているかもしれない。
背も、椛さんとおなじくらいに高い。
「勝手に入ってごめんね。一応ノックはしたんだけどね?」
言い方も……どことなく、椛さんと似ている……ような。
いち早く、冷静に戻ったのはやっぱりというか、静夜だった。
彼はファンデーションをポーチに戻し、姿勢を正す。
「ノックに気づかず、失礼いたしました。ルナ・ファクトリーの椎名雪兎社長ですね?」
「うん、よくわかったねー」
「椎名社長のお顔はネットにもかなり出回っておりますから」
そういえば、わたしも事前に椛さんに、椎名社長と椛さんが一緒に写っている写真とか、いろいろ見せてもらっていたんだった。
写真を見てもふたりは似てる、となんとなく思っていたけど、実際に会ってみると、ほんとに似ている。
雰囲気は……やっぱりというか、違うけれど。
なんというか、椛さんのほうが穏やかなんだけど、悪戯っぽくてイジワルで得体が知れなくて……ぶっちゃけ腹黒そう。
そんな椛さんのことが大好きなわたしは、もう完全に椛さんの虜なんだなと実感する。
「りん子さん。りん子ちゃんでいっか」
椎名社長は勝手にわたしの呼び方を決めて
「さっそくだけど、りん子ちゃんの仕事ぶりが見たいんだ。俺は適当に座ってるから、仕事始めてくれていいよ」
そう言うと、椎名社長についてきた秘書らしい男の人に、あいている椅子を持ってこさせて座ってしまった。
「えっ……で、でも……」
ご挨拶にくるって……わたしの仕事ぶりを見にくるっていうことだったの?
戸惑っていると、
「単に椛の奥さんが見たいっていうだけじゃ、結木邸のほうに個人的に挨拶に行けば済むことでしょ?」
た、確かに……。
「まあ、このあとふたりで食事でもしましょーよ。椛の武勇伝は、そのときにでも聞かせてあげるからさ」
その言葉に、わたしのテンションは一気に上がった。
「はいっ!」
椛さんの武勇伝、ぜひとも聞かせていただきたいっ!
結婚……入籍してから、まだ数ヶ月しか経っていないっていうのに、夜の椛さんは容赦がない。
「りん子、足開いて」
「も、みじさん……っ」
毎晩毎晩、求められるわたしの身体。
その日はいつもよりも激しくて、でも音を上げそうになるわたしを、椛さんは許してはくれなくて。
「だめだよ、りん子。もっと開いて?」
「も、……これ以上は……恥ずかし、くて……っ」
だけど椛さんは、ふっとイジワルげに微笑むのだ。
「ぼくになんて、散々見られてるでしょ? 大丈夫。ちゃんとキレイだから。安心して、ぼくに見せて?」
「……や……っ!」
結局やんわりと、でも強引に椛さんの手でカラダは開かれて──。
わたしの名を幾度も呼ぶ、椛さんの低く甘い声。
いつもわたしは、そんな椛さんの身体に、ただただしがみつくばかりで──。
「明日から出張だから、今夜は覚悟して?」
ベッドに入る前に、確かにそうは言われていたけど……でも……っ。
やっと終わった、と思ってうつぶせになるや、すぐさま後ろから抱きしめてきて、イケナイ場所ばかりで指を動かす、椛さん。
「や、……っ……椛さん、ほんとにもう……っ……」
首をねじるようにして振り向けば、
「だめだよ」
椛さんの焦げ茶色の瞳が、色っぽく煌めく。
「まだ、ぼくが物足りない」
それだけでもう、わたしの身体の芯が再びずくんと熱く疼いてしまう。
わたしはもう、身体の中も外も甘い痺れでどうにかなってしまいそうなのに。
「りん子」
わたしの中で熱を動かす椛さんが、ふっと笑う。
「腰、動いてる」
「っ……! それは、……椛さんが……っ……あ……っ!」
「ぼくが、なに?」
容赦のない、椛さんの動き。
そういうふうに動けば、わたしがなんにも言えなくなってしまうことを、椛さんは、もうじゅうぶんに知っているから。
甘い声しか出せなくなってしまうことを、知っているから。
椛さんは、──ひどい。
ひどくて、──ズルい。
だけど、そんな椛さんのことが大好きだから、わたしはなんにも言えなくなってしまう。
麻痺するほどの快感を与えられて、真夜中を過ぎるどころか、明け方近くまで。
ほんとに足腰立たなくなるまで、抱かれ尽くされてしまった。
「専属秘書なんだから、りん子さまも一緒に連れて行ってもいいんじゃないですか?」
と、水口夏斗は言ってくれたのだけど
「ぼくもそうしたいところなんだけど、先方がどうしてもぼくひとりとじゃなきゃ会いたくないっておカタいお方でね」
残念そうに、椛さんは答える。
今回の取引先は仙堂(せんどう)グループというところだそうで、なんでも、ルミエール・ファクトリーの会長──椛さんのお祖父さんの代から贔屓にしている、大切な取引先なんだそうだ。
だからというか、もちろん静夜も連れて行けないらしい。
「じゃありんごちゃん、ぼくが帰るまでいい子でいてね」
まだ身体にだるさの残るわたしの唇にキスをして、出張に行ってしまった、椛さん。
わたしの身体は、まだ疲れを残しているのに……椛さん、ほんとに元気だなあ……。
いまは、2月になってバレンタインもいよいよ、という時期。
今年はバレンタインは土曜日で会社も休みだし、そのころには椛さんも出張から帰ってくるって言っていたし……バレンタイン当日は、椛さんとふたりでゆっくり過ごせるかな?
椛さんを見送ってから、わたしも急いで会社に行く準備をする。
いまではわたしも、簡単なメイクくらいならひとりでもできるようになった。
椛さんの指導のたまものだ。
といっても、ファンデーションと口紅くらいだけれど。
支度を終えて、運転手の前田さんの待つ門の前まで行くまでのあいだに、見送りについてきてくれている、水口夏斗に聞いてみた。
「椛さんて、どんなチョコが好きですかね?」
「チョコ? ああ、バレンタインチョコですか」
最近水口夏斗はすっかり敬語になってしまって、それが少しだけ淋しい気もする。
「うーん、どんなチョコがいいか、か……椛さまは、無類の甘いもの好きですからねぇ。でも去年まではもらったバレンタインチョコ、全部養護施設に寄付してたんですよね」
「えっ……どうしてですか?」
水口夏斗は、ちらりとわたしを見下ろす。
「椛さまは、4年前からりん子さまのことがずっと好きだったんでしょ? りん子さまに操を立ててたんじゃないんですか?」
まあ身体のほうは操を立ててはいなかったみたいですけど、と少し皮肉げに、水口夏斗はつぶやく。
わたしに操を……って、まだ再会してもいなかったのに……。
もしほんとにそうだとしたら、……どうしよう。
すごくうれしい。
車の中でも自然とニヤけてしまいながら、わたしは出社した。
朝礼のあといつもどおりに秘書室に行くと、静夜がなぜだかため息をついた。
「ゆうべは社長も相当手加減しなかったみたいだな」
「え?」
な、なんでそんなこと静夜にわかるんだろう。
すると静夜は、自分の首筋を、持っていたボールペンで指し示す。
「キスマーク。ばっちりついてるぞ」
「えっ!?」
わたしは慌てて、バッグからコンパクトを取り出して確認してみた。
確かに……左の首筋に、明らかにキスマークとわかる赤い印がつけられている。
少し後ろのほうだったから、自分ではちょっと気づきにくい位置。
椛さんてば、いつのまに……っ!
「いつもは見えない部分にしか、しないのに……っ」
どうしよう。朝礼のときに、みんなにもばれちゃったかもしれない。
といっても、もう本社のみんなどころか、世間にもわたしと椛さんの結婚は公表されているから問題はないのかもしれないけれど。
それでも、キスマークとかっ……恥ずかしすぎる。
「それだけ社長に愛されてるってことだろう」
わたしのつぶやきを、静夜は丁寧に拾う。
「どうしよう、今日はルナ・ファクトリーの社長がご挨拶にいらっしゃるんだよね?」
ルナ・ファクトリーというのは、ルミエール・ファクトリー傘下の会社。
その社長が、わざわざわたしに会いに来て下さるのだ。
どうせなら本社の社長である椛さんも一緒のときがいいのに、とも思ったけれど、あいにくとルナ・ファクトリーの社長の都合が合わないのだそう。
椎名雪兎(しいな・ゆきと)、というのが社長の名前だそうで、年齢は28歳。
「雪兎はぼくの従弟でもあって、ちいさなころからの……そうだな、イタズラ仲間ってところかな。兄さんにも一緒に可愛がってもらったりもしたよ」
椛さんは椎名さんの情報を事前にくれたとき、懐かしそうにそんなふうに語ってもいた。
イタズラ仲間っていうことは、椛さんもちいさなころはやんちゃしてたりしたのかな。
椛さんのそういう話も、椎名さんから聞けたらいいな。
そんなふうに、楽しみにしていたのに。
「とりあえず、ファンデーションで隠したらどうだ?」
早くもパソコンに向かって、仕事に取りかかっている静夜が、一応助け舟を出してくれる。
「え、キスマークってファンデーションで隠せるの? どうやって?」
「そんなことも知らないのか」
そんなこと言われたって、まともに男の人とつきあった経験がないのだから、仕方がない。
あとから気づいたけれど、中学生のとき静夜となにもなかったのなら、わたしのファーストキスの相手でさえ、椛さんなのだから。
静夜が立ち上がり、わたしのデスクの傍へと歩み寄ってくる。
そして、
「貸してみろ」
わたしが手に持っている化粧道具の入ったポーチを取り上げた。
「えっ……ちょ、静夜……っ」
「動くな。ファンデーションが服についたらどうする」
そ、それは困るっ。
椎名社長は椛さんにとっても大事な人なのに、汚れた服で会うなんて、そんな失礼なことできるわけがない。
首筋にパタパタとパフが触れる感触は、なんだか不思議な心地だ。
椛さんにメイクしてもらっていたときだって、椛さんは、当たり前のことだけど首筋にはファンデーションなんてつけなかったし。
こういうこともできるってことは、静夜もわりと女性経験豊富なんだな。
これだけイケメンなんだから、恋人のひとりやふたり……いや、もっとかな、いなかったほうがおかしいのかもしれないけれど。
「そんなに緊張するな。こっちまで意識するだろう」
「ご……ごめん」
知らず緊張していたわたしは、思わずますます背筋をピンと伸ばしてしまう。
「心配しなくても、おまえに変なことはもうしない。千春さんの大事な人だしな」
静夜の中では、あくまでも、いまだに椛さんより千春先生のほうが、存在は大きいらしい。
「だけど」
ぴた、とパフの動きが止まる。
見上げると、思ったよりも近い位置に静夜の整った顔がある。
反射的にドキリとしてしまったのは、長年静夜に対していい感情を持っていなかったせい。
そんなわたしを見下ろしながら、静夜は言った。
「俺は、椛社長のことを尊敬しているとも思う。だけど、おまえをあきらめたとはひと言も言っていないからな」
「え……?」
それってどういう意味……?
だけど、静夜がもう一度口を開こうとしたその瞬間
「椛がいないあいだに浮気ー? 案外尻軽なんだね、椛の奥さんって」
秘書室の入り口のほうから声がして、わたしと静夜はビクリと振り返った。
一瞬、本物の椛さんかと思ったほど、椛さんと似た、低く甘い声。
容貌も、兄弟なんじゃないかと思うくらい、椛さんと似ている。
もしかしたら、千春先生よりも似ているかもしれない。
背も、椛さんとおなじくらいに高い。
「勝手に入ってごめんね。一応ノックはしたんだけどね?」
言い方も……どことなく、椛さんと似ている……ような。
いち早く、冷静に戻ったのはやっぱりというか、静夜だった。
彼はファンデーションをポーチに戻し、姿勢を正す。
「ノックに気づかず、失礼いたしました。ルナ・ファクトリーの椎名雪兎社長ですね?」
「うん、よくわかったねー」
「椎名社長のお顔はネットにもかなり出回っておりますから」
そういえば、わたしも事前に椛さんに、椎名社長と椛さんが一緒に写っている写真とか、いろいろ見せてもらっていたんだった。
写真を見てもふたりは似てる、となんとなく思っていたけど、実際に会ってみると、ほんとに似ている。
雰囲気は……やっぱりというか、違うけれど。
なんというか、椛さんのほうが穏やかなんだけど、悪戯っぽくてイジワルで得体が知れなくて……ぶっちゃけ腹黒そう。
そんな椛さんのことが大好きなわたしは、もう完全に椛さんの虜なんだなと実感する。
「りん子さん。りん子ちゃんでいっか」
椎名社長は勝手にわたしの呼び方を決めて
「さっそくだけど、りん子ちゃんの仕事ぶりが見たいんだ。俺は適当に座ってるから、仕事始めてくれていいよ」
そう言うと、椎名社長についてきた秘書らしい男の人に、あいている椅子を持ってこさせて座ってしまった。
「えっ……で、でも……」
ご挨拶にくるって……わたしの仕事ぶりを見にくるっていうことだったの?
戸惑っていると、
「単に椛の奥さんが見たいっていうだけじゃ、結木邸のほうに個人的に挨拶に行けば済むことでしょ?」
た、確かに……。
「まあ、このあとふたりで食事でもしましょーよ。椛の武勇伝は、そのときにでも聞かせてあげるからさ」
その言葉に、わたしのテンションは一気に上がった。
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