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そして、はちみつのように甘い愛
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それから椛さんは、ようやく自分のことを「アキ本人」だと、改めてわたしに明らかにした。
千春先生が亡くなったことが、椛さんにとっては自分でも意外なくらいにショックとなって、椛さんはなんにも食べることができなくなってしまった。
その状態は思ったよりも長く続いた。
そのあいだ、椛さんは
「まあ、いい機会だからゆっくり休め。おまえの状態のことは、世間には隠しておく。病気療養ということにしておくからな」
お義父さんにそう言われて仕事を休んで、髪も髭も伸ばし放題にしたりしても、心は、空っぽのまま。
そのうちに、とうとう栄養失調になって倒れてしまった椛さんは、業界のお偉方が利用することで有名なK病院に緊急入院となった。
病院で点滴を受けていた椛さんは、千春先生のことを思い浮かべているうちに、どうしてもわたしに会いたくなってしまったのだそうだ。
「兄さんが死んで、ぼくにはもう支えにするものなんかなにもない。そう思ったときに、りんごちゃんの存在を思い出したんだ」
わたしの居場所は調べ上げてあって、どこに行けばわたしに会えるのかはわかっている。
千春先生のわたしへの気持ちが変わらなくて、万が一、先生がわたしとつきあいたいという気が起きたら、と。
そのときにいつでも備えられるように、椛さんは把握してあったのだ。
思いついたらいてもたってもいられなくなって、椛さんは11月の夜、雨の中病院を抜け出した。
そして、わたしと出逢って──。
「りんごちゃんに、すりおろしりんごを出してもらったとき、感動したよ」
椛さんは、言う。
「これでいつも風邪のとき、兄さんは救われてたんだなって思ったら……一気に胸のつかえが取れたみたいに、涙が止まらなくなった」
それまでは一度だって、涙すら出なかったほど千春先生の死は、椛さんに大きな傷を与えてしまっていたのだと。
「それから、ナナシさんのテントに住まわせてもらって、りんごちゃんと過ごすようになって……どんどん、りんごちゃんに惹かれていった」
最初は、千春先生からの情報があったから。だからこの感情は、一種のすりこみかと思ったらしい。
「でも、りんごちゃんと会うたびに、どんどん気持ちは膨らんでいくばかりでね。……これはもうすりこみなんかじゃなくて、ぼく個人の感情だ。ぼく本人が、りんごちゃんのことを好きになってしまったんだ、って……確信した」
わたしをかばってチンピラに刺され、搬送先の病院で手術を受けた、その晩。
椛さんは、お義父さんに見つかった。
お義父さんは確かに椛さんのことを表沙汰にはしていなかったけれど、”身内”だけで、ある程度の範囲の病院に網を張っていた。
その網に、椛さんは引っかかったというわけだ。
「りんごちゃんの話を、お父さんにだけはした。まだ一緒にいたいんだと、説得した。お父さんは気まぐれで豪快な性格だから、もしかしたら許してくれるかと期待してね」
だけどそのときのお義父さんは虫の居所が悪かったのか、ぜんぜん聞く耳を持ってくれなかったらしい。
「おまえを拾ってくれたという、そのふたりの人間とおまえとでは、住む世界が違いすぎる。もう充分羽を伸ばしただろう。おまえは、もう社長なんだ。いいかげん目を覚ませ」
冷たくむっつりと、そう言ったそうだ。
「ぼくも……一ヶ月とはいえ、りんごちゃんからはたくさんの元気や勇気といったエネルギーをもらった。りんごちゃんのことが好きだという、この感情をなくすためにも、自分のいた世界に戻ろう。そう観念した」
こんな感情をわたしに対して持ってしまって千春先生に申し訳ない、と椛さんは思ってもいたんだという。
そしてその夜のうちに、椛さんはK病院に移動となった。
「だから……あのとき急に椛さんは、わたしたちの前からいなくなっちゃったんですね」
ちゃんと着替えて暖房をつけて、椛さんとソファに隣同士座って椛さんの話を聞いていたわたしは、ころあいをみて口を挟む。
朝食の時間には、まだ早い。
まだ、朝陽が昇り始めたくらいの時間だ。
「そんなことしても、無駄だったんだけどね」
どこか自嘲気味に、椛さんは笑みを浮かべる。
「そんなことしても、……元の世界に戻っても……ぼくの、りんごちゃんに対する気持ちは消えなかった。自棄になって、りんごちゃんのことを忘れようとして、前よりもひどく女遊びもしたけど……それでもいつもぼくの頭の中からりんごちゃんの笑顔が離れることはなかった。日を追うごとに、その気持ちはどんどん増していって……」
数年経っても、わたしへの気持ちが消えなかった。
そんなとき、椛さんが経営するカフェで、椛さんはわたしの姿を見かけた。
そう、わたしが面接を受けにいった、あのカフェで。
わたしは椛さんのことを、すごいイケメン社長だな、と思っただけだった。
だけど椛さんのほうは久し振りにわたしの姿を見て、改めて自分の気持ちを再確認したらしい。
当時、結木家にふさわしいご令嬢との縁談もいくつかあったのだけれど、自分にはこの人しかいない、と。
「ああ、もう自分にはこの人しか……りんごちゃんしかいない。他の誰とも結婚なんか、したくない。そう思って、だめもとでお父さんに言ったんだ。『ぼくには好きな人がいます』って」
するとお義父さんは、
「それは、椛。4年前におまえが私に言った、例の彼女のことか? 七瀬りん子、だったかな」
わたしの名前まで、正確に覚えてくれていた。
「覚えていて、くださったんですか」
驚く椛さんに、
「伊達に派手に女遊びをしてないぞ。誰の父親だと思ってるんだ?」
お義父さんは、ニヤリと笑う。
「4年経って離れて暮らしていても、気持ちが変わらないとは……椛は一途なんだなあ」
そして、言った。
「だったらその子と結婚すればいい」
「……いいんですか?」
「ああ。ただし、だ。本気で好きなら一年以内にその子の身も心も手に入れろ。前に違う形で出逢っていようが、関係なく、結木椛として新しい状態で、だ。あ、ついでに一年以内に孫の顔も見せろよ? それができなきゃ離婚して、結木家にふさわしいご令嬢と再婚してもらう」
その無茶苦茶だとも思える条件を、椛さんは、呑んだ。
「そうまでしても、きみを手に入れたかったんだ」
そして椛さんは、その日のうちに鎌倉に飛んだ。
わたしの両親に結婚の承諾を得て、次の日になってホームレスをしているわたしを見つけ、声をかけた。
それが、始まりだった。
種を明かされてみると、なるほど、と納得できることがいくつかある。
「前に違う形で出逢っていようが関係なく、結木椛として新しい状態で、一年以内にわたしの身も心も手に入れる。そうでなくちゃ、わたしと離婚させられる。だから椛さんは、自分がアキさんだっていうことを、あれだけ否定してたんですね」
「きみがぼくのことを好きになってくれたって確信しないうちは、ぼくがアキだと認めることはできなかったからね」
そうか……
だから椛さんは前に、社長室で
『ぼくはきみを必ず手に入れる。心も、身体もね』
だなんて、言っていたんだ。
「結婚してからいままでのあいだ、椛さん……わたしに対して、一度も『好きだ』って言ってくれませんでしたよね。それも、その条件があったからですか?」
尋ねてみると、はたして椛さんはちいさくうなずいた。
「ぼくのほうが最初に自分の気持ちを告白したりなんてしたら、その時点でそれは『結木椛として新しい状態で』、という条件に違反するからね。もしもぼくがきみに告白していたとして、それがきっかけできみがぼくのことを好きになってくれたりしたら、それはお父さんにとっては違反だ」
「だから……わたしの気持ちを聞くまで、椛さんは好きだって言ってくれなかったんですね」
「うん」
そして椛さんは、「もうひとつ」と続ける。
「もうひとつ……ぼくがきみの身も心も手に入れたかったのには、理由がある」
もうひとつの、理由……?
椛さんの焦げ茶色の瞳が、憂いを含んだ。
「兄さんのことは、いずれきみに話さなくちゃいけない……ぼくはずっとそう思っていた。それがぼくの義務だとも思っていたからね。きみがぼくのことを好きにならないまま、兄さんのことをきみに話したら……きみの心は、永遠に手に入らないと思った。それに、なによりもきみは……絶対傷つくでしょ?」
「あ……」
そうか。そういうことだったんだ。
わたしはようやく、腑に落ちた。
確かに、わたしがまだ初恋の人である千春先生のことが好きなまま椛さんから千春先生のことを聞いていたとしたら。
そうしたら確実に、わたしは傷ついていたに違いない。
椛さん、……そこまでわたしのことを考えてくれていたんだ……。
じんわりと、胸があたたかくなる。
「でもそれって、わたしが千春先生以外の人を好きになれば、それですむ話ですよね?」
なにも、好きになる相手は椛さんでなくともよかったはず。
ちょっとイジワルを言ってみると、珍しく椛さんは不機嫌そうに眉根を寄せた。
「そんなの、だめに決まってるでしょ? りんごちゃんの心も身体も、ぼく以外の誰にもやらない。そう決めていたんだから」
……こんなに余裕のない椛さんを見るのも、初めてだ。
幸せすぎて、ふふっと笑いがこみあげてきてしまう。
「椛さんは、わたしのことが好きだから……抱いてくれたんですね」
「ほかにどんな理由があるの?」
「子作りのためじゃ、なかったんですね」
「まあそれも、離婚させられないための条件でもあるから、ちょっとはそういう気持ちもあったけどね。りんごちゃんとの子供は、ぼくも欲しいことに変わりはないし」
たちまちわたしの顔が、熱くなった。
椛さんてば、また……なんの前触れもなく、そんな……恥ずかしいことを……っ。
「でも……できればもう少し、ふたりの時間を楽しみたいです」
恥ずかしくてちいさな声になってしまいながら、そう言うと
「そうだね。ぼくもまだ、りんごちゃんを堪能したいな」
少しだけ微笑んで、そう返してくる。
これは……椛さん、調子が戻ってきたかな?
「でも結婚した理由が恩人だからって言っていたのは、……半分嘘で、半分本当」
「どういう意味ですか?」
聞いてみると、
「確かにりんごちゃんは、あのときぼくの気持ちを救ってくれた恩人でもある。でもぼくにとってりんごちゃんは、あくまでも自分の好きな女の子だからね」
懐かしそうな色をした瞳で、椛さん。
「好きだから結婚する、という事実の隠れ蓑として、恩人だから結婚するっていう名目を使ったんだ」
どこまでも愛おしい、……椛さん。わたしの、……旦那さま。
「……ひとつ、お願いがあるんですけど……いいですか?」
ひしひしと感じながら、打診してみる。
「なに?」
いつのまにか、ソファの上のわたしの手を椛さんの手が優しく包み込んでいる。
椛さんの手、……あたたかい。
ドキドキもして、安心もする……不思議な、愛しいぬくもり。
「アキさんだったとき、椛さん……わたしをかばって、ナイフで刺されましたよね? もし、その傷痕が残っていたら……わたしに見せて、くれませんか……?」
そろそろとそう尋ねてみると、椛さんは少し驚いたようだった。
「いいけど、……傷痕なんか見て、気持ち悪くならない?」
「だって、わたしをかばってくれて、できた傷痕ですよ? 気持ち悪いわけ、ないじゃないですか」
自信たっぷりなわたしに若干戸惑う気配を見せつつも、椛さんはセーターとシャツを脱いで、上半身だけ裸になった。
そして身体をひねって、わたしのほうに背中を見せる。
きめ細かで、ほどよく筋肉のついた……椛さんの、身体。
きれいで色っぽくて、見惚れてしまいそう。
──その背中の、ちょうど中央あたり。
そこに、明らかに刺し傷とわかる、赤黒い傷跡があった。
「りんごちゃん、……大丈夫?」
椛さんが、そっと尋ねてくる。
もう、……椛さん、いろいろ心配しすぎです。
返事のかわりに、背中に顔を近づけて……その傷痕に、触れるだけのキスをした。
ビクリと椛さんの身体が、震えるのがわかる。
少し恥ずかしかったけれど、わたしは椛さんの傷痕に、幾度もキスをして──
「……、」
ふいに椛さんが振り返って、わたしの身体を自分の身体に引き寄せるようにして……わたしの唇に深いキスを落としてきた。
「椛さん、……」
「誘ったのは、りんごちゃんのほうだよ。それとも……煽ったって言ったほうが、いい?」
「わたし、そんな、……ン──っ!」
誘ってなんか、……煽ってなんか、いないのに。
そんなつもりはぜんぜんなかったのに、……わたしのさっきのキスが椛さんのスイッチを、また入れてしまったみたいだ。
激しいキスの応酬に、息が苦しくなる。
そのまま椛さんは、ソファにわたしを押し倒して──。
「も、椛さん……?」
「きみがいけないんだ」
「だって、……こんな、ところで……っ」
「りんごちゃん。愛し合うのに、場所は関係ないんだよ?」
そう言って、わたしの身体の上であやしく微笑む、椛さん。
あやしく、にっこりと……あの椛さん独特の、悪魔的な……微笑み。
……どうやら完全に、元の椛さんだ。
「やっぱりわたし、椛さんのことが……好きです」
椛さんは、椛さんのままが一番。
ドキドキして、でも安心する──わたしの大切な、椛さん。
元の調子に戻った椛さんに、ほっとしたわたしがそう言うと
「ぼくが、あの薄汚れたアキだってわかっても?」
「アキさんのことは、わたし……守ってあげたいって、思ってました」
椛さんはまた、わずかに目を見開く。
「でも、アキさんのことがあったから、椛さんのことを好きになったわけじゃなくて……ああもう、なんて言ったら伝わるのかな」
もどかしく思いながら、わたしはいまの自分の素直な気持ちを椛さんに告白した。
「たとえば椛さんがどんなでも、どうなっても、椛さんのことを好きなことは変わりません。椛さんは、……わたしにとって一番大切で、わたしの……一番の宝物です」
「……ぼくも、だよ」
椛さんは、穏やかな微笑みでわたしを見下ろす。
ほんとにいつもの椛さんだ、と、わたしはまた幸せな気持ちになる。
「ぼくも……一番の宝物は、りん子……、きみだ。好きなだけじゃ、……物足りない」
椛さんはわたしの首筋に顔をうずめて、耳元で続きを言った。
「りん子。……愛してる──」
そして椛さんは、ソファだっていうのに、優しく、でもやっぱり容赦なく、わたしを抱いた。
◇
それからすぐに、わかったことがある。
水口夏斗は4年前、ほんとうにまだ、椛さんに仕えはじめたばかりの新米だったそうだ。
だから、わたしと椛さんとの間にあったことも、本当に知らなかったらしい。
ただ、わたしとの結婚直前になって
「りんごちゃんっていうかわいい女の子がくるから、よろしくね」
とか、椛さんはうきうきと、水口夏斗にも言っていたらしい。
あとで椛さんが、のろけも兼ねて4年前のあのときのことを、水口夏斗に話したのだけど
「りんごはマジに椛さまに愛されてたんだな。……俺なんかがかなうわけねぇか」
そのあと椛さんが席を立ってから、彼はぽつりと、わけのわからないことをつぶやいていた。
「あーあ、俺の人生設計。セカンドキスに変更すっかな。ま、そうするしかねぇけどさ」
……ぜひ、そうしてほしい。
「わたしにも責任あるし、応援しますよ」
そう言うと
「この、鈍感女!」
なぜか不機嫌に、思い切り怒鳴られた。
「あーそれから。気になるからもう、俺に敬語使うな。俺だっておまえに対してこんな言い方してんだし。タメ口でいいだろ」
そして、わたしにそう言った水口夏斗は
「……いや、俺のほうは敬語にする努力でもするか。そうすりゃ自然と気持ちもおさまるかもしれねぇしな」
ぶつぶつと意味不明なことをつぶやきながら、運転手の前田さんの車の掃除を手伝うために、去って行った。
水口夏斗が怒鳴った意味を。
彼の言葉の意味をわたしが知ることになるのは、……また、別の話。
ちなみに水口夏斗は千春先生とは、面識はなかったそう。
なぜなら水口夏斗が執事として雇われたのは、先述したとおり、4年前。
そのころにはもう千春先生は鎌倉に移住していたし、椛さんが千春先生のところへ遊びにいくときは、執事である水口夏斗も連れて行かずに、単身だったそうだから。
ハネムーンが終わり、元の日々が始まった。
わたしの秘書の仕事は、椛さんと相談して、子供ができるまで続けることに決めた。
「そうすればいままでどおり、仕事中もりんごちゃんと一緒にいられるしね。子供なんて、すぐにできるかもしれないけど」
にこにことそんなことを言う椛さんに、わたしは顔が熱くなったものだ。
ナナシさんには、あれからすぐに椛さんがアキさんだったことを報告した。
『やっぱりそうだったか! 絶対そうだと思ってたんだよな、オレ! やったな、りん子ちゃん!』
ナナシさんは電話越しに、手放しに喜んでくれた。
椛さんと電話を代わると、あまりにアキさんだったときの椛さんと態度が違うものだから、また電話を戻してもらったとき、ナナシさんはものすごくびっくりしていた。
『まるで別人みたいだけど、マジでアキなんだよな! あー、ますます会うのが楽しみだわー!』
そんなふうに言ってくれたナナシさんは、変な言い方だけれど、本当に……ナナシさんらしい。
椛さんも、なんだかうれしそうに笑っていた。
ナナシさんの仕事の都合がつくのが来年になってからだから、そのときに三人で会って食事でもしよう、と約束を取りつけている。
お正月には、椛さんを連れて実家にも帰る予定。
やっとのことでわたしが連絡を入れると
『椛さんと会えるとなるとお正月も楽しみだけど、孫の顔もほんとに楽しみ!』
お母さんはうれしそうに、電話の向こうで笑っていた。
そしてわたしは椛さんに連れられて、千春先生のお墓参りにも行った。
椛さん、わたしの隣で一緒に手を合わせて目を閉じて、……わたしとのことを報告するんだって、ここに来る前に言っていたっけ、と思い返す。
わたしも、心の中で先生に、深く深く……お礼を言う。お礼なんて、ほんとうにいまさらかもしれないけれど。こういう言動こそが、生きている人間のエゴ、なのかもしれないけれど。
それでも、……生きているから。
わたしと椛さんは、……生きて、いるから。
だからこうして、亡き人につかの間に別れを告げて、また前を向いて歩き出すんだ。
あの日秘書室で静夜に、椛さんにはお兄さんがいるのか、と聞いたとき
「それは、俺が言うべきことじゃない。たぶんな」
どうして静夜がそんなふうに言ったのか、ふと疑問に思ったわたしは、後日そのことを静夜本人に聞いてみた。
すると、
「ここまで千春さんのことを、妻であるおまえに知らせてこなかったなんて、不自然だろう。社長にはなにか深い考えがある──そう思ったからだ」
そんな答えが、返ってきた。
「”挑戦”とかいろいろしたけど、でもやっぱり俺は……千春さんの弟である、椛社長のことも尊敬しているんだと思う」
そう言う静夜の表情は、どこか淋しそうだった。
「……千春先生のこと、わたしに黙っててくれて……ありがとう」
静夜に対しては、珍しく感謝の気持ちをこめて、そう言ったのに
「……別に」
静夜は、照れたように目をそらし、中指で眼鏡を押し上げた。
「そういえば、俺が描いたあの絵は結局どうするんだ? 社長は、どうするつもりなんだ?」
「ああ……なんだか、そのまま結木家に置くみたい」
「──は?」
「椛さん以外の人には、絶対に見せないって言ってたけどね」
その件に関しては、まだわたしの心中も複雑なのだ。
複雑、というのは……そこまで椛さんがわたしのことを大事にしてくれているんだ、と、うれしい気持ちと、けど椛さん以外の人が描いたわたしの裸の絵を残されるのはちょっと、という気持ちと。
わたしは、ついこの前のハネムーンのときのことを、思い返す。
◆
ハネムーンの二日目、クリスマス。
まるで神様からのプレゼントのように、真っ白な雪が降って
「ホワイトクリスマスだね」
椛さんが、うれしそうにそう言ったのは、夕方を過ぎてからのこと。
朝食を食べたあとも、昼も……そして夜も、椛さんはわたしを求めてきた。
「りん子、……りん子……愛してる」
甘いささやきとともにわたしの身体に甘い痺れをくれる椛さんは、まるで箍の外れた獣のようで。
やっと満足したらしい椛さんに抱きしめられたわたしは、疲れ切ってしまっていて、指の一本すらも動かせない。
だけど、イヤじゃない……心地の良い、疲れ。
「……あの絵、……静夜が書いた、わたしの絵……あの日出張先にも、持って行ったんですか……?」
ふと思い出して、尋ねてみる。
「うん。まあ出張なんて、最初の一日だけだったんだけどね」
「え……?」
じゃあ、あの「急な出張」の日からイブの夜までのあいだ、椛さんはいったいどこでなにをしていたんだろう。
「出張は日帰りで済んだんだけど、……頭を冷やしたいってぼく、言ってたでしょ?」
出張からの帰り、その足で、椛さんは鎌倉へと向かったのだという。
「そこで、兄さんがよく行っていた場所を点々とね。山積みだった仕事は全部、宿泊先の旅館でやったんだよ。他の男のことでのぼせた頭を冷やすには、兄さんのことを考えるのが一番だったからね」
「他の男って……静夜のこと、ですか?」
「あの日の件では、寝屋川くんのほかに男はいないでしょ?」
わたしの髪を、手櫛で優しく梳いてくれながら、椛さん。
「寝屋川くんから”挑戦”を受けたあの日、彼の発言で、彼もりんごちゃんと同じに兄さんが事故死したことを知らないんだなってはっきりわかってね。ぼくも彼からの”挑戦”で少なからず彼に嫉妬もしちゃってたから、これ以上りんごちゃんに手を出さないよう牽制も兼ねて、兄さんのことを寝屋川くんにメールで教えたんだよ。ちょっと”効きすぎた”みたいだけどね」
そういうこと、だったんだ。
……ん……?
でも、……あれ?
「椛さん、あのとき……根に持ってないって言ってませんでした?」
「そんなの、嘘に決まってるでしょ?」
にこにこと、まったく悪意のなさそうな笑顔を浮かべてそう言う、椛さん。
「……前に社長室でわたしに、『ぼくは嘘が嫌いだよ』って……言ってましたよね……?」
「そうだっけ?」
椛さんって、ほんとに……!
……椛さんだけは絶対に、敵には回したくない。
ほんの少しだけ静夜に同情しつつ、わたしはもうひとつ、気になっていたことを聞いてみる。
「それで……結局あの絵、どうするんですか?」
椛さんの返答は、早かった。
「ぼくも悩んだんだけど、あのままこの家に置いておくことにしたよ」
「へっ!?」
だってこの家には水口夏斗だって、他の使用人さんたちだっているのにっ!?
あたふたとするわたしを見下ろして、くすくす笑う、椛さん。
「といっても、この部屋のリビングに布をかけて置いておくだけだから、安心して? ぼくだってりんごちゃんの裸は、たとえ絵であっても老若男女、誰にも見せたくないからね」
「どうしてそこまでして、残しておくんですか?」
「絵とはいえ、ぼくのかわいいりんごちゃんを、捨てたり燃やしたりできるわけがない」
そして椛さんは、愛おしげにわたしの額に優しいキスをくれる。
それにしても、老若男女……って。
「もしかして椛さんって、独占欲、強いほうですか……?」
「かなり強いと思うよ」
あっさりと肯定する、椛さん。
「りんごちゃんは、独占欲の強い男は嫌い?」
わたしは、なぜだかとても幸せな気分になって、椛さんの身体を抱きしめ返した。
「いいえ。そんな椛さんが、たまらなく……好き、です」
椛さんは、うれしそうに微笑む。
そしてもう一度、触れるだけのキスをくれた。
今度は、そっと唇に。
いま、あのりんごのキーホルダーはいままでと変わらずに、椛さんが持っている。
まるでお守りみたいに、大切に、大切に。
「結婚式は、やっぱり6月かな。ジューンブライド。結婚式の根回しはお父さんがやってるから、まずはお父さんにそう言っておかなくちゃね」
椛さんのほうがうきうきと、そう言ったものだ。
──来年の6月に、わたしは椛さんと結婚式を挙げるんだ。
想像するだけで、わたしの気持ちもふくふくと幸せになる。
◆
12月、大晦日。
昨日最後の仕事が終わって、わたしと椛さんはハネムーンのときのように、抱き合って過ごした。
少し眠って疲れを取り、食堂に行って、椛さんと一緒に夕食をとる。
今日は、年越し蕎麦つきの夕ご飯だ。
いつものようにありがたくおいしくいただいて、椛さんと部屋に戻ったわたしが、お風呂から上がったところで
「りんごちゃん、お父さんから通話が入ってるんだけど」
いつかのように、リビングにいた椛さんに呼ばれた。
ローテーブルの上にパソコンが置いてあり、その前にはスタンドマイク。
パソコン画面には、お義父さんの映像が映っていた。
『いやありん子さん、いま椛に聞いたんですがね。りん子さんは本当に、椛のことが好きなんですか?』
も、椛さんっ……
「あ、は、はい」
あたふたしながらそう答え、できるだけ小声で椛さんに文句を言う。
「椛さんっ。事実とはいえ、人の気持ちを勝手にお義父さんに言わないでくださいっ……!」
「お父さんにこそ、言うべきだと思うけど?」
にこにこ笑顔で、ちっとも堪えていない様子の椛さん。
椛さんにかかれば、わたしのこんな攻撃なんか、たいしたことはないんだろう。
うう、この上下関係、いつからできていたんだろう。
もしかして、……いや、もしかしなくても、……最初から、のような気がするけれど。
いや、いまはそれは置いておいて。
まあ、……離婚の危機がかかっているんだから、椛さんの言うことには一理あるんだけど……でもっ。
「それは確かかもしれませんけど、わたしにもプライバシーというものが……」
まだごにょごにょと言うわたしの言葉を遮るようにして、お義父さんの笑い声が響き渡る。
『ちゃんと結木椛としての新しい”状態”で、この短期間でオトすとは、さすが俺の息子だ!』
お、お義父さん……?
その豪快な笑い声に、まだ慣れずに動揺してしまうわたし。
『椛、合格だ。特別に、孫の顔は2年以内に見せてくれればそれでいいとしよう』
ちょ、……お義父さんっ!?
「1年のびただけじゃないですか!」
焦ったわたしは、そう突っ込んでしまう。
って……そうじゃなくて!
「そ……その条件をクリアしたらもう、他のなにがあってもわたしと椛さんは離婚しなくてもいいっていう……こと、ですか?」
気を取り直して尋ねたわたしに、お義父さんは大きくうなずく。
わたしの言い方もなんだか変だった気がするけれど、そもそもお義父さんが出した条件自体が一般常識からズレているんだから、仕方がない。
『まあ、そうなりますな。孫の顔が見たいのは、私の願望ですからね。まあぶっちゃけ、それはオプションだったんですよ』
「お、オプションって……」
もう、どう突っ込んでいいのかわからない。
だけど、いままで黙っていた椛さんが、
「でも、お父さん。どんなことがあっても、ぼくは絶対にりん子と離婚なんかしませんからね」
笑顔でそう言い放つ。
椛さん、目が……目が、笑ってない。
『ああ、はいはい。わかったよ』
苦笑する、お義父さん。
その背後で女の人の英語が聞こえたとたん、お義父さんはデレッとした笑顔になった。
『ちょっとマイハニーが呼んでるから、また今度な』
「マイハニーもいいですけど、いいかげんアメリカから戻ってきたらどうですか。せめて、お正月くらい」
『マイハニーがいるから、無理だ』
どぎっぱりと、お義父さん。
『それにもう大晦日だろう? 間に合わない、間に合わない。……っと、今度こそ、また今度な。じゃあな、椛! 子作りがんばれよ!』
言うだけ言って、お義父さんはまたプツッと通話を切ってしまった。
パソコン画面からも、お義父さんの顔の映像が消えるのをみはからったかのように
椛さんが、深いため息をつく。
「……あのエロ親父。いったい何人マイハニーがいるんだ」
そういえば少し前に、水口夏斗にちょろっと聞いた。
お義父さんは、椛さんのお母さんが椛さんがちいさなころに病気で亡くなって、だいぶ経ってからだけど、たくさんの恋人を持つようになったらしい。
『俺も又聞きなんだけどさ、もちろん大旦那さまは仕事もちゃんとやってるし、敏腕だから、誰も文句は言わないんだとさ。でも椛さまが大旦那さまのことを尊敬したがらないのは、大旦那さまの、その派手な女遊びが原因らしいぜ』
水口夏斗は、そうも言っていた。
なんとなく、椛さんの気持ちもわからないではない、けど……
「でも、椛さんもたくさんの女の人とおつきあいしてきたんですよね?」
わたしの言葉にも、
「まあ、そうなんだけどね」
椛さんは、どこか不満顔。
わたしはといえば、自分で言ったことなのになんだか胸がモヤモヤして……。
つい、続けてチクッと言ってしまった。
「似てるんじゃないですか? お義父さんと椛さん。血は争えないってことでしょうか」
すると、パソコンの電源を落としていた椛さんがふとこちらを見て、……たちまち楽しそうな笑みを浮かべる。
「……りんごちゃん。それってもしかして、ヤキモチ?」
「……っ!」
図星を刺され、やばい、と思ったのもつかの間。
「ン……っ!」
顎をつままれたかと思うと、わたしがなにを言うよりも早く椛さんのキスが降ってきた。
深く深く、……わたしの舌と唇を、味わうかのように。
はちみつみたいに甘い椛さんのキスは、最初のころから、ずっと変わらない。
中毒性のある、はちみつKiss。
「かわいいこと言ってくれたご褒美、あげなくちゃね?」
「や──っ!」
服の上から愛撫を重ねられて、あっという間に準備が整ってしまう……すっかり椛さんに慣らされた、わたしの身体。
「椛さん、……だめっ……」
「どうして? りん子だってもう、こんなだよ」
「だって、……こ、……こんなところ、で……っ」
「こんなところでって、クリスマスにも一度ここでしてるよね?」
そ、それはそうだけど……やっぱりこんなの、恥ずかしすぎて……っ。
もがいているうちに、立ったまま、なのに。
椛さんの熱が、わたしの中に入ってきそうになって──。
か……、
「かっ……、神様助けてっ……!」
思わず心の声が出てしまった、わたしの耳元で
「そんなに神様に会いたいの?」
うつむいてしまったわたしの頭の上でした、椛さんの……声。
あ……。わたし、そういうつもりじゃ……。
もしかして、哀しいことを思い出させてしまったかもしれない。
不安に思って振り仰ぐと、椛さんはイジワルげにクスリと笑う。
イジワルな、……でもわたしにとっては、たまらなく魅力的な微笑み。
「心配しなくても、ぼくが何度でも……天国に、いかせてあげるよ」
最後のほうを、耳たぶに触れるくらいに近く唇を寄せて、甘くささやかれた。
いや、なんか”天国”も”いく”も意味が全然違う気がするんですけど!
だけど、こんなふうにわたしをイジメて──いや違くて、からかって──もとい、かわいがって……くれているときの椛さんは、最高に幸せそうなのだ。
だからわたしは、なんにも言えなくなってしまう。
椛さんのことが、大好きだから。
たぶんこれが、人を愛する、ということ。
それを教えてくれたのは、……椛さん、で……椛さんにとっての幸せは、わたしの幸せだから。
「──りんごちゃん。……りん子、……愛してる」
そして椛さんは、わたしを抱きしめながら、心の底から幸せそうな笑顔を見せてくれるのだ。
「一生離してやらないから、……覚悟して?」
わたしと椛さんの、はちみつのように甘い新婚生活は、
……まだ、──始まった、ばかりだ。
《End》
千春先生が亡くなったことが、椛さんにとっては自分でも意外なくらいにショックとなって、椛さんはなんにも食べることができなくなってしまった。
その状態は思ったよりも長く続いた。
そのあいだ、椛さんは
「まあ、いい機会だからゆっくり休め。おまえの状態のことは、世間には隠しておく。病気療養ということにしておくからな」
お義父さんにそう言われて仕事を休んで、髪も髭も伸ばし放題にしたりしても、心は、空っぽのまま。
そのうちに、とうとう栄養失調になって倒れてしまった椛さんは、業界のお偉方が利用することで有名なK病院に緊急入院となった。
病院で点滴を受けていた椛さんは、千春先生のことを思い浮かべているうちに、どうしてもわたしに会いたくなってしまったのだそうだ。
「兄さんが死んで、ぼくにはもう支えにするものなんかなにもない。そう思ったときに、りんごちゃんの存在を思い出したんだ」
わたしの居場所は調べ上げてあって、どこに行けばわたしに会えるのかはわかっている。
千春先生のわたしへの気持ちが変わらなくて、万が一、先生がわたしとつきあいたいという気が起きたら、と。
そのときにいつでも備えられるように、椛さんは把握してあったのだ。
思いついたらいてもたってもいられなくなって、椛さんは11月の夜、雨の中病院を抜け出した。
そして、わたしと出逢って──。
「りんごちゃんに、すりおろしりんごを出してもらったとき、感動したよ」
椛さんは、言う。
「これでいつも風邪のとき、兄さんは救われてたんだなって思ったら……一気に胸のつかえが取れたみたいに、涙が止まらなくなった」
それまでは一度だって、涙すら出なかったほど千春先生の死は、椛さんに大きな傷を与えてしまっていたのだと。
「それから、ナナシさんのテントに住まわせてもらって、りんごちゃんと過ごすようになって……どんどん、りんごちゃんに惹かれていった」
最初は、千春先生からの情報があったから。だからこの感情は、一種のすりこみかと思ったらしい。
「でも、りんごちゃんと会うたびに、どんどん気持ちは膨らんでいくばかりでね。……これはもうすりこみなんかじゃなくて、ぼく個人の感情だ。ぼく本人が、りんごちゃんのことを好きになってしまったんだ、って……確信した」
わたしをかばってチンピラに刺され、搬送先の病院で手術を受けた、その晩。
椛さんは、お義父さんに見つかった。
お義父さんは確かに椛さんのことを表沙汰にはしていなかったけれど、”身内”だけで、ある程度の範囲の病院に網を張っていた。
その網に、椛さんは引っかかったというわけだ。
「りんごちゃんの話を、お父さんにだけはした。まだ一緒にいたいんだと、説得した。お父さんは気まぐれで豪快な性格だから、もしかしたら許してくれるかと期待してね」
だけどそのときのお義父さんは虫の居所が悪かったのか、ぜんぜん聞く耳を持ってくれなかったらしい。
「おまえを拾ってくれたという、そのふたりの人間とおまえとでは、住む世界が違いすぎる。もう充分羽を伸ばしただろう。おまえは、もう社長なんだ。いいかげん目を覚ませ」
冷たくむっつりと、そう言ったそうだ。
「ぼくも……一ヶ月とはいえ、りんごちゃんからはたくさんの元気や勇気といったエネルギーをもらった。りんごちゃんのことが好きだという、この感情をなくすためにも、自分のいた世界に戻ろう。そう観念した」
こんな感情をわたしに対して持ってしまって千春先生に申し訳ない、と椛さんは思ってもいたんだという。
そしてその夜のうちに、椛さんはK病院に移動となった。
「だから……あのとき急に椛さんは、わたしたちの前からいなくなっちゃったんですね」
ちゃんと着替えて暖房をつけて、椛さんとソファに隣同士座って椛さんの話を聞いていたわたしは、ころあいをみて口を挟む。
朝食の時間には、まだ早い。
まだ、朝陽が昇り始めたくらいの時間だ。
「そんなことしても、無駄だったんだけどね」
どこか自嘲気味に、椛さんは笑みを浮かべる。
「そんなことしても、……元の世界に戻っても……ぼくの、りんごちゃんに対する気持ちは消えなかった。自棄になって、りんごちゃんのことを忘れようとして、前よりもひどく女遊びもしたけど……それでもいつもぼくの頭の中からりんごちゃんの笑顔が離れることはなかった。日を追うごとに、その気持ちはどんどん増していって……」
数年経っても、わたしへの気持ちが消えなかった。
そんなとき、椛さんが経営するカフェで、椛さんはわたしの姿を見かけた。
そう、わたしが面接を受けにいった、あのカフェで。
わたしは椛さんのことを、すごいイケメン社長だな、と思っただけだった。
だけど椛さんのほうは久し振りにわたしの姿を見て、改めて自分の気持ちを再確認したらしい。
当時、結木家にふさわしいご令嬢との縁談もいくつかあったのだけれど、自分にはこの人しかいない、と。
「ああ、もう自分にはこの人しか……りんごちゃんしかいない。他の誰とも結婚なんか、したくない。そう思って、だめもとでお父さんに言ったんだ。『ぼくには好きな人がいます』って」
するとお義父さんは、
「それは、椛。4年前におまえが私に言った、例の彼女のことか? 七瀬りん子、だったかな」
わたしの名前まで、正確に覚えてくれていた。
「覚えていて、くださったんですか」
驚く椛さんに、
「伊達に派手に女遊びをしてないぞ。誰の父親だと思ってるんだ?」
お義父さんは、ニヤリと笑う。
「4年経って離れて暮らしていても、気持ちが変わらないとは……椛は一途なんだなあ」
そして、言った。
「だったらその子と結婚すればいい」
「……いいんですか?」
「ああ。ただし、だ。本気で好きなら一年以内にその子の身も心も手に入れろ。前に違う形で出逢っていようが、関係なく、結木椛として新しい状態で、だ。あ、ついでに一年以内に孫の顔も見せろよ? それができなきゃ離婚して、結木家にふさわしいご令嬢と再婚してもらう」
その無茶苦茶だとも思える条件を、椛さんは、呑んだ。
「そうまでしても、きみを手に入れたかったんだ」
そして椛さんは、その日のうちに鎌倉に飛んだ。
わたしの両親に結婚の承諾を得て、次の日になってホームレスをしているわたしを見つけ、声をかけた。
それが、始まりだった。
種を明かされてみると、なるほど、と納得できることがいくつかある。
「前に違う形で出逢っていようが関係なく、結木椛として新しい状態で、一年以内にわたしの身も心も手に入れる。そうでなくちゃ、わたしと離婚させられる。だから椛さんは、自分がアキさんだっていうことを、あれだけ否定してたんですね」
「きみがぼくのことを好きになってくれたって確信しないうちは、ぼくがアキだと認めることはできなかったからね」
そうか……
だから椛さんは前に、社長室で
『ぼくはきみを必ず手に入れる。心も、身体もね』
だなんて、言っていたんだ。
「結婚してからいままでのあいだ、椛さん……わたしに対して、一度も『好きだ』って言ってくれませんでしたよね。それも、その条件があったからですか?」
尋ねてみると、はたして椛さんはちいさくうなずいた。
「ぼくのほうが最初に自分の気持ちを告白したりなんてしたら、その時点でそれは『結木椛として新しい状態で』、という条件に違反するからね。もしもぼくがきみに告白していたとして、それがきっかけできみがぼくのことを好きになってくれたりしたら、それはお父さんにとっては違反だ」
「だから……わたしの気持ちを聞くまで、椛さんは好きだって言ってくれなかったんですね」
「うん」
そして椛さんは、「もうひとつ」と続ける。
「もうひとつ……ぼくがきみの身も心も手に入れたかったのには、理由がある」
もうひとつの、理由……?
椛さんの焦げ茶色の瞳が、憂いを含んだ。
「兄さんのことは、いずれきみに話さなくちゃいけない……ぼくはずっとそう思っていた。それがぼくの義務だとも思っていたからね。きみがぼくのことを好きにならないまま、兄さんのことをきみに話したら……きみの心は、永遠に手に入らないと思った。それに、なによりもきみは……絶対傷つくでしょ?」
「あ……」
そうか。そういうことだったんだ。
わたしはようやく、腑に落ちた。
確かに、わたしがまだ初恋の人である千春先生のことが好きなまま椛さんから千春先生のことを聞いていたとしたら。
そうしたら確実に、わたしは傷ついていたに違いない。
椛さん、……そこまでわたしのことを考えてくれていたんだ……。
じんわりと、胸があたたかくなる。
「でもそれって、わたしが千春先生以外の人を好きになれば、それですむ話ですよね?」
なにも、好きになる相手は椛さんでなくともよかったはず。
ちょっとイジワルを言ってみると、珍しく椛さんは不機嫌そうに眉根を寄せた。
「そんなの、だめに決まってるでしょ? りんごちゃんの心も身体も、ぼく以外の誰にもやらない。そう決めていたんだから」
……こんなに余裕のない椛さんを見るのも、初めてだ。
幸せすぎて、ふふっと笑いがこみあげてきてしまう。
「椛さんは、わたしのことが好きだから……抱いてくれたんですね」
「ほかにどんな理由があるの?」
「子作りのためじゃ、なかったんですね」
「まあそれも、離婚させられないための条件でもあるから、ちょっとはそういう気持ちもあったけどね。りんごちゃんとの子供は、ぼくも欲しいことに変わりはないし」
たちまちわたしの顔が、熱くなった。
椛さんてば、また……なんの前触れもなく、そんな……恥ずかしいことを……っ。
「でも……できればもう少し、ふたりの時間を楽しみたいです」
恥ずかしくてちいさな声になってしまいながら、そう言うと
「そうだね。ぼくもまだ、りんごちゃんを堪能したいな」
少しだけ微笑んで、そう返してくる。
これは……椛さん、調子が戻ってきたかな?
「でも結婚した理由が恩人だからって言っていたのは、……半分嘘で、半分本当」
「どういう意味ですか?」
聞いてみると、
「確かにりんごちゃんは、あのときぼくの気持ちを救ってくれた恩人でもある。でもぼくにとってりんごちゃんは、あくまでも自分の好きな女の子だからね」
懐かしそうな色をした瞳で、椛さん。
「好きだから結婚する、という事実の隠れ蓑として、恩人だから結婚するっていう名目を使ったんだ」
どこまでも愛おしい、……椛さん。わたしの、……旦那さま。
「……ひとつ、お願いがあるんですけど……いいですか?」
ひしひしと感じながら、打診してみる。
「なに?」
いつのまにか、ソファの上のわたしの手を椛さんの手が優しく包み込んでいる。
椛さんの手、……あたたかい。
ドキドキもして、安心もする……不思議な、愛しいぬくもり。
「アキさんだったとき、椛さん……わたしをかばって、ナイフで刺されましたよね? もし、その傷痕が残っていたら……わたしに見せて、くれませんか……?」
そろそろとそう尋ねてみると、椛さんは少し驚いたようだった。
「いいけど、……傷痕なんか見て、気持ち悪くならない?」
「だって、わたしをかばってくれて、できた傷痕ですよ? 気持ち悪いわけ、ないじゃないですか」
自信たっぷりなわたしに若干戸惑う気配を見せつつも、椛さんはセーターとシャツを脱いで、上半身だけ裸になった。
そして身体をひねって、わたしのほうに背中を見せる。
きめ細かで、ほどよく筋肉のついた……椛さんの、身体。
きれいで色っぽくて、見惚れてしまいそう。
──その背中の、ちょうど中央あたり。
そこに、明らかに刺し傷とわかる、赤黒い傷跡があった。
「りんごちゃん、……大丈夫?」
椛さんが、そっと尋ねてくる。
もう、……椛さん、いろいろ心配しすぎです。
返事のかわりに、背中に顔を近づけて……その傷痕に、触れるだけのキスをした。
ビクリと椛さんの身体が、震えるのがわかる。
少し恥ずかしかったけれど、わたしは椛さんの傷痕に、幾度もキスをして──
「……、」
ふいに椛さんが振り返って、わたしの身体を自分の身体に引き寄せるようにして……わたしの唇に深いキスを落としてきた。
「椛さん、……」
「誘ったのは、りんごちゃんのほうだよ。それとも……煽ったって言ったほうが、いい?」
「わたし、そんな、……ン──っ!」
誘ってなんか、……煽ってなんか、いないのに。
そんなつもりはぜんぜんなかったのに、……わたしのさっきのキスが椛さんのスイッチを、また入れてしまったみたいだ。
激しいキスの応酬に、息が苦しくなる。
そのまま椛さんは、ソファにわたしを押し倒して──。
「も、椛さん……?」
「きみがいけないんだ」
「だって、……こんな、ところで……っ」
「りんごちゃん。愛し合うのに、場所は関係ないんだよ?」
そう言って、わたしの身体の上であやしく微笑む、椛さん。
あやしく、にっこりと……あの椛さん独特の、悪魔的な……微笑み。
……どうやら完全に、元の椛さんだ。
「やっぱりわたし、椛さんのことが……好きです」
椛さんは、椛さんのままが一番。
ドキドキして、でも安心する──わたしの大切な、椛さん。
元の調子に戻った椛さんに、ほっとしたわたしがそう言うと
「ぼくが、あの薄汚れたアキだってわかっても?」
「アキさんのことは、わたし……守ってあげたいって、思ってました」
椛さんはまた、わずかに目を見開く。
「でも、アキさんのことがあったから、椛さんのことを好きになったわけじゃなくて……ああもう、なんて言ったら伝わるのかな」
もどかしく思いながら、わたしはいまの自分の素直な気持ちを椛さんに告白した。
「たとえば椛さんがどんなでも、どうなっても、椛さんのことを好きなことは変わりません。椛さんは、……わたしにとって一番大切で、わたしの……一番の宝物です」
「……ぼくも、だよ」
椛さんは、穏やかな微笑みでわたしを見下ろす。
ほんとにいつもの椛さんだ、と、わたしはまた幸せな気持ちになる。
「ぼくも……一番の宝物は、りん子……、きみだ。好きなだけじゃ、……物足りない」
椛さんはわたしの首筋に顔をうずめて、耳元で続きを言った。
「りん子。……愛してる──」
そして椛さんは、ソファだっていうのに、優しく、でもやっぱり容赦なく、わたしを抱いた。
◇
それからすぐに、わかったことがある。
水口夏斗は4年前、ほんとうにまだ、椛さんに仕えはじめたばかりの新米だったそうだ。
だから、わたしと椛さんとの間にあったことも、本当に知らなかったらしい。
ただ、わたしとの結婚直前になって
「りんごちゃんっていうかわいい女の子がくるから、よろしくね」
とか、椛さんはうきうきと、水口夏斗にも言っていたらしい。
あとで椛さんが、のろけも兼ねて4年前のあのときのことを、水口夏斗に話したのだけど
「りんごはマジに椛さまに愛されてたんだな。……俺なんかがかなうわけねぇか」
そのあと椛さんが席を立ってから、彼はぽつりと、わけのわからないことをつぶやいていた。
「あーあ、俺の人生設計。セカンドキスに変更すっかな。ま、そうするしかねぇけどさ」
……ぜひ、そうしてほしい。
「わたしにも責任あるし、応援しますよ」
そう言うと
「この、鈍感女!」
なぜか不機嫌に、思い切り怒鳴られた。
「あーそれから。気になるからもう、俺に敬語使うな。俺だっておまえに対してこんな言い方してんだし。タメ口でいいだろ」
そして、わたしにそう言った水口夏斗は
「……いや、俺のほうは敬語にする努力でもするか。そうすりゃ自然と気持ちもおさまるかもしれねぇしな」
ぶつぶつと意味不明なことをつぶやきながら、運転手の前田さんの車の掃除を手伝うために、去って行った。
水口夏斗が怒鳴った意味を。
彼の言葉の意味をわたしが知ることになるのは、……また、別の話。
ちなみに水口夏斗は千春先生とは、面識はなかったそう。
なぜなら水口夏斗が執事として雇われたのは、先述したとおり、4年前。
そのころにはもう千春先生は鎌倉に移住していたし、椛さんが千春先生のところへ遊びにいくときは、執事である水口夏斗も連れて行かずに、単身だったそうだから。
ハネムーンが終わり、元の日々が始まった。
わたしの秘書の仕事は、椛さんと相談して、子供ができるまで続けることに決めた。
「そうすればいままでどおり、仕事中もりんごちゃんと一緒にいられるしね。子供なんて、すぐにできるかもしれないけど」
にこにことそんなことを言う椛さんに、わたしは顔が熱くなったものだ。
ナナシさんには、あれからすぐに椛さんがアキさんだったことを報告した。
『やっぱりそうだったか! 絶対そうだと思ってたんだよな、オレ! やったな、りん子ちゃん!』
ナナシさんは電話越しに、手放しに喜んでくれた。
椛さんと電話を代わると、あまりにアキさんだったときの椛さんと態度が違うものだから、また電話を戻してもらったとき、ナナシさんはものすごくびっくりしていた。
『まるで別人みたいだけど、マジでアキなんだよな! あー、ますます会うのが楽しみだわー!』
そんなふうに言ってくれたナナシさんは、変な言い方だけれど、本当に……ナナシさんらしい。
椛さんも、なんだかうれしそうに笑っていた。
ナナシさんの仕事の都合がつくのが来年になってからだから、そのときに三人で会って食事でもしよう、と約束を取りつけている。
お正月には、椛さんを連れて実家にも帰る予定。
やっとのことでわたしが連絡を入れると
『椛さんと会えるとなるとお正月も楽しみだけど、孫の顔もほんとに楽しみ!』
お母さんはうれしそうに、電話の向こうで笑っていた。
そしてわたしは椛さんに連れられて、千春先生のお墓参りにも行った。
椛さん、わたしの隣で一緒に手を合わせて目を閉じて、……わたしとのことを報告するんだって、ここに来る前に言っていたっけ、と思い返す。
わたしも、心の中で先生に、深く深く……お礼を言う。お礼なんて、ほんとうにいまさらかもしれないけれど。こういう言動こそが、生きている人間のエゴ、なのかもしれないけれど。
それでも、……生きているから。
わたしと椛さんは、……生きて、いるから。
だからこうして、亡き人につかの間に別れを告げて、また前を向いて歩き出すんだ。
あの日秘書室で静夜に、椛さんにはお兄さんがいるのか、と聞いたとき
「それは、俺が言うべきことじゃない。たぶんな」
どうして静夜がそんなふうに言ったのか、ふと疑問に思ったわたしは、後日そのことを静夜本人に聞いてみた。
すると、
「ここまで千春さんのことを、妻であるおまえに知らせてこなかったなんて、不自然だろう。社長にはなにか深い考えがある──そう思ったからだ」
そんな答えが、返ってきた。
「”挑戦”とかいろいろしたけど、でもやっぱり俺は……千春さんの弟である、椛社長のことも尊敬しているんだと思う」
そう言う静夜の表情は、どこか淋しそうだった。
「……千春先生のこと、わたしに黙っててくれて……ありがとう」
静夜に対しては、珍しく感謝の気持ちをこめて、そう言ったのに
「……別に」
静夜は、照れたように目をそらし、中指で眼鏡を押し上げた。
「そういえば、俺が描いたあの絵は結局どうするんだ? 社長は、どうするつもりなんだ?」
「ああ……なんだか、そのまま結木家に置くみたい」
「──は?」
「椛さん以外の人には、絶対に見せないって言ってたけどね」
その件に関しては、まだわたしの心中も複雑なのだ。
複雑、というのは……そこまで椛さんがわたしのことを大事にしてくれているんだ、と、うれしい気持ちと、けど椛さん以外の人が描いたわたしの裸の絵を残されるのはちょっと、という気持ちと。
わたしは、ついこの前のハネムーンのときのことを、思い返す。
◆
ハネムーンの二日目、クリスマス。
まるで神様からのプレゼントのように、真っ白な雪が降って
「ホワイトクリスマスだね」
椛さんが、うれしそうにそう言ったのは、夕方を過ぎてからのこと。
朝食を食べたあとも、昼も……そして夜も、椛さんはわたしを求めてきた。
「りん子、……りん子……愛してる」
甘いささやきとともにわたしの身体に甘い痺れをくれる椛さんは、まるで箍の外れた獣のようで。
やっと満足したらしい椛さんに抱きしめられたわたしは、疲れ切ってしまっていて、指の一本すらも動かせない。
だけど、イヤじゃない……心地の良い、疲れ。
「……あの絵、……静夜が書いた、わたしの絵……あの日出張先にも、持って行ったんですか……?」
ふと思い出して、尋ねてみる。
「うん。まあ出張なんて、最初の一日だけだったんだけどね」
「え……?」
じゃあ、あの「急な出張」の日からイブの夜までのあいだ、椛さんはいったいどこでなにをしていたんだろう。
「出張は日帰りで済んだんだけど、……頭を冷やしたいってぼく、言ってたでしょ?」
出張からの帰り、その足で、椛さんは鎌倉へと向かったのだという。
「そこで、兄さんがよく行っていた場所を点々とね。山積みだった仕事は全部、宿泊先の旅館でやったんだよ。他の男のことでのぼせた頭を冷やすには、兄さんのことを考えるのが一番だったからね」
「他の男って……静夜のこと、ですか?」
「あの日の件では、寝屋川くんのほかに男はいないでしょ?」
わたしの髪を、手櫛で優しく梳いてくれながら、椛さん。
「寝屋川くんから”挑戦”を受けたあの日、彼の発言で、彼もりんごちゃんと同じに兄さんが事故死したことを知らないんだなってはっきりわかってね。ぼくも彼からの”挑戦”で少なからず彼に嫉妬もしちゃってたから、これ以上りんごちゃんに手を出さないよう牽制も兼ねて、兄さんのことを寝屋川くんにメールで教えたんだよ。ちょっと”効きすぎた”みたいだけどね」
そういうこと、だったんだ。
……ん……?
でも、……あれ?
「椛さん、あのとき……根に持ってないって言ってませんでした?」
「そんなの、嘘に決まってるでしょ?」
にこにこと、まったく悪意のなさそうな笑顔を浮かべてそう言う、椛さん。
「……前に社長室でわたしに、『ぼくは嘘が嫌いだよ』って……言ってましたよね……?」
「そうだっけ?」
椛さんって、ほんとに……!
……椛さんだけは絶対に、敵には回したくない。
ほんの少しだけ静夜に同情しつつ、わたしはもうひとつ、気になっていたことを聞いてみる。
「それで……結局あの絵、どうするんですか?」
椛さんの返答は、早かった。
「ぼくも悩んだんだけど、あのままこの家に置いておくことにしたよ」
「へっ!?」
だってこの家には水口夏斗だって、他の使用人さんたちだっているのにっ!?
あたふたとするわたしを見下ろして、くすくす笑う、椛さん。
「といっても、この部屋のリビングに布をかけて置いておくだけだから、安心して? ぼくだってりんごちゃんの裸は、たとえ絵であっても老若男女、誰にも見せたくないからね」
「どうしてそこまでして、残しておくんですか?」
「絵とはいえ、ぼくのかわいいりんごちゃんを、捨てたり燃やしたりできるわけがない」
そして椛さんは、愛おしげにわたしの額に優しいキスをくれる。
それにしても、老若男女……って。
「もしかして椛さんって、独占欲、強いほうですか……?」
「かなり強いと思うよ」
あっさりと肯定する、椛さん。
「りんごちゃんは、独占欲の強い男は嫌い?」
わたしは、なぜだかとても幸せな気分になって、椛さんの身体を抱きしめ返した。
「いいえ。そんな椛さんが、たまらなく……好き、です」
椛さんは、うれしそうに微笑む。
そしてもう一度、触れるだけのキスをくれた。
今度は、そっと唇に。
いま、あのりんごのキーホルダーはいままでと変わらずに、椛さんが持っている。
まるでお守りみたいに、大切に、大切に。
「結婚式は、やっぱり6月かな。ジューンブライド。結婚式の根回しはお父さんがやってるから、まずはお父さんにそう言っておかなくちゃね」
椛さんのほうがうきうきと、そう言ったものだ。
──来年の6月に、わたしは椛さんと結婚式を挙げるんだ。
想像するだけで、わたしの気持ちもふくふくと幸せになる。
◆
12月、大晦日。
昨日最後の仕事が終わって、わたしと椛さんはハネムーンのときのように、抱き合って過ごした。
少し眠って疲れを取り、食堂に行って、椛さんと一緒に夕食をとる。
今日は、年越し蕎麦つきの夕ご飯だ。
いつものようにありがたくおいしくいただいて、椛さんと部屋に戻ったわたしが、お風呂から上がったところで
「りんごちゃん、お父さんから通話が入ってるんだけど」
いつかのように、リビングにいた椛さんに呼ばれた。
ローテーブルの上にパソコンが置いてあり、その前にはスタンドマイク。
パソコン画面には、お義父さんの映像が映っていた。
『いやありん子さん、いま椛に聞いたんですがね。りん子さんは本当に、椛のことが好きなんですか?』
も、椛さんっ……
「あ、は、はい」
あたふたしながらそう答え、できるだけ小声で椛さんに文句を言う。
「椛さんっ。事実とはいえ、人の気持ちを勝手にお義父さんに言わないでくださいっ……!」
「お父さんにこそ、言うべきだと思うけど?」
にこにこ笑顔で、ちっとも堪えていない様子の椛さん。
椛さんにかかれば、わたしのこんな攻撃なんか、たいしたことはないんだろう。
うう、この上下関係、いつからできていたんだろう。
もしかして、……いや、もしかしなくても、……最初から、のような気がするけれど。
いや、いまはそれは置いておいて。
まあ、……離婚の危機がかかっているんだから、椛さんの言うことには一理あるんだけど……でもっ。
「それは確かかもしれませんけど、わたしにもプライバシーというものが……」
まだごにょごにょと言うわたしの言葉を遮るようにして、お義父さんの笑い声が響き渡る。
『ちゃんと結木椛としての新しい”状態”で、この短期間でオトすとは、さすが俺の息子だ!』
お、お義父さん……?
その豪快な笑い声に、まだ慣れずに動揺してしまうわたし。
『椛、合格だ。特別に、孫の顔は2年以内に見せてくれればそれでいいとしよう』
ちょ、……お義父さんっ!?
「1年のびただけじゃないですか!」
焦ったわたしは、そう突っ込んでしまう。
って……そうじゃなくて!
「そ……その条件をクリアしたらもう、他のなにがあってもわたしと椛さんは離婚しなくてもいいっていう……こと、ですか?」
気を取り直して尋ねたわたしに、お義父さんは大きくうなずく。
わたしの言い方もなんだか変だった気がするけれど、そもそもお義父さんが出した条件自体が一般常識からズレているんだから、仕方がない。
『まあ、そうなりますな。孫の顔が見たいのは、私の願望ですからね。まあぶっちゃけ、それはオプションだったんですよ』
「お、オプションって……」
もう、どう突っ込んでいいのかわからない。
だけど、いままで黙っていた椛さんが、
「でも、お父さん。どんなことがあっても、ぼくは絶対にりん子と離婚なんかしませんからね」
笑顔でそう言い放つ。
椛さん、目が……目が、笑ってない。
『ああ、はいはい。わかったよ』
苦笑する、お義父さん。
その背後で女の人の英語が聞こえたとたん、お義父さんはデレッとした笑顔になった。
『ちょっとマイハニーが呼んでるから、また今度な』
「マイハニーもいいですけど、いいかげんアメリカから戻ってきたらどうですか。せめて、お正月くらい」
『マイハニーがいるから、無理だ』
どぎっぱりと、お義父さん。
『それにもう大晦日だろう? 間に合わない、間に合わない。……っと、今度こそ、また今度な。じゃあな、椛! 子作りがんばれよ!』
言うだけ言って、お義父さんはまたプツッと通話を切ってしまった。
パソコン画面からも、お義父さんの顔の映像が消えるのをみはからったかのように
椛さんが、深いため息をつく。
「……あのエロ親父。いったい何人マイハニーがいるんだ」
そういえば少し前に、水口夏斗にちょろっと聞いた。
お義父さんは、椛さんのお母さんが椛さんがちいさなころに病気で亡くなって、だいぶ経ってからだけど、たくさんの恋人を持つようになったらしい。
『俺も又聞きなんだけどさ、もちろん大旦那さまは仕事もちゃんとやってるし、敏腕だから、誰も文句は言わないんだとさ。でも椛さまが大旦那さまのことを尊敬したがらないのは、大旦那さまの、その派手な女遊びが原因らしいぜ』
水口夏斗は、そうも言っていた。
なんとなく、椛さんの気持ちもわからないではない、けど……
「でも、椛さんもたくさんの女の人とおつきあいしてきたんですよね?」
わたしの言葉にも、
「まあ、そうなんだけどね」
椛さんは、どこか不満顔。
わたしはといえば、自分で言ったことなのになんだか胸がモヤモヤして……。
つい、続けてチクッと言ってしまった。
「似てるんじゃないですか? お義父さんと椛さん。血は争えないってことでしょうか」
すると、パソコンの電源を落としていた椛さんがふとこちらを見て、……たちまち楽しそうな笑みを浮かべる。
「……りんごちゃん。それってもしかして、ヤキモチ?」
「……っ!」
図星を刺され、やばい、と思ったのもつかの間。
「ン……っ!」
顎をつままれたかと思うと、わたしがなにを言うよりも早く椛さんのキスが降ってきた。
深く深く、……わたしの舌と唇を、味わうかのように。
はちみつみたいに甘い椛さんのキスは、最初のころから、ずっと変わらない。
中毒性のある、はちみつKiss。
「かわいいこと言ってくれたご褒美、あげなくちゃね?」
「や──っ!」
服の上から愛撫を重ねられて、あっという間に準備が整ってしまう……すっかり椛さんに慣らされた、わたしの身体。
「椛さん、……だめっ……」
「どうして? りん子だってもう、こんなだよ」
「だって、……こ、……こんなところ、で……っ」
「こんなところでって、クリスマスにも一度ここでしてるよね?」
そ、それはそうだけど……やっぱりこんなの、恥ずかしすぎて……っ。
もがいているうちに、立ったまま、なのに。
椛さんの熱が、わたしの中に入ってきそうになって──。
か……、
「かっ……、神様助けてっ……!」
思わず心の声が出てしまった、わたしの耳元で
「そんなに神様に会いたいの?」
うつむいてしまったわたしの頭の上でした、椛さんの……声。
あ……。わたし、そういうつもりじゃ……。
もしかして、哀しいことを思い出させてしまったかもしれない。
不安に思って振り仰ぐと、椛さんはイジワルげにクスリと笑う。
イジワルな、……でもわたしにとっては、たまらなく魅力的な微笑み。
「心配しなくても、ぼくが何度でも……天国に、いかせてあげるよ」
最後のほうを、耳たぶに触れるくらいに近く唇を寄せて、甘くささやかれた。
いや、なんか”天国”も”いく”も意味が全然違う気がするんですけど!
だけど、こんなふうにわたしをイジメて──いや違くて、からかって──もとい、かわいがって……くれているときの椛さんは、最高に幸せそうなのだ。
だからわたしは、なんにも言えなくなってしまう。
椛さんのことが、大好きだから。
たぶんこれが、人を愛する、ということ。
それを教えてくれたのは、……椛さん、で……椛さんにとっての幸せは、わたしの幸せだから。
「──りんごちゃん。……りん子、……愛してる」
そして椛さんは、わたしを抱きしめながら、心の底から幸せそうな笑顔を見せてくれるのだ。
「一生離してやらないから、……覚悟して?」
わたしと椛さんの、はちみつのように甘い新婚生活は、
……まだ、──始まった、ばかりだ。
《End》
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静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
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