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心、重なり合って 2
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◆
兄さんはちいさなころから、ルミエール・ファクトリーの後継者として教育を受けていた。
物心つく前から、お父さんに連れられて取引先のところにも、行ったりしていた。
兄さんは親思いの優しい子で、文句ひとつ言わずに塾や習い事もしたし、取引先の相手とも話をしたりした。
取引先の相手に、自分と境遇がよく似た子がいる。
その子に絵を教えてるんだ。
兄さんは寝屋川静夜のことも、そうしてぼくに話してくれるようにもなった。
ぼくは兄さんとは違って、昔からどこか性格が歪んでいてね。
塾や習い事なんかクソくらえだって思っていたけど、そのたび兄さんが、
「どんなことにも、ちゃんと意味があるんだよ」
そう、優しく諭してくれたんだ。
お父さんのことは昔から好きじゃなかったけど、ぼくは優しい兄さんのことは大好きだった。
──だけど兄さんは、恋愛に対してあまりにも純粋で、……不器用で。
兄さんは大学を出てから少しのあいだ、ルミエール・ファクトリーの子会社で、本社の次期社長として社会勉強をしていたことがあった。
そんなとき知り合った女性と、初めて男女のつきあいというものを始めた。
その女は、いかにも軽い感じだった。
ああこの女は、将来の地位も約束されていてお金もある兄さんを、利用しているだけなんだ、って……当時からすれていたぼくは、一目(ひとめ)で悟った。
だけど、ぼくがその女と別れろっていくら説得しても無駄だった。
兄さんは、
「彼女はそんな人じゃない。ぼくを利用したりなんか、できる人じゃない。純粋な人だよ」
そう信じて、疑わなくてね。
だからぼくは、強硬手段に出た。
その女をホテルに呼び出して、誘ってみたんだよ。
「兄さんなんかやめて、ぼくとつきあわない?」
ってね。
とたんに女はいやらしい笑みを浮かべて、ぼくの身体にしなだれかかってきた。
「玉の輿を狙っているから、椛くんとは結婚できないけど……セフレっていう形だったら、ぜひ椛くんとつきあいたいわ。千春は顔もきれいだしエッチもうまくなってきたし、なにより次期社長だけど、あたしは椛くんのほうがタイプなのよね」
もちろん、ぼくはその女に指一本触れなかった。
「冗談だよ。悪いけどあなたみたいに尻軽で性格ブスな女を抱くほど、飢えてないんだよね」
実際ぼくは、もうずっと前から女に苦労はしていなかったからね。
豹変したぼくに、女は青ざめた。
「あなた……まさか、カマかけたの……?」
「ホテルに呼ばれた時点で、気づかないとね?」
ぼくは、用意していたお金をテーブルの上に置く。
自分の小遣いだったけど、妥当な金額の手切れ金だったと思う。
「兄さんとは、別れてもらえますね?」
「誰が、」
「別れてくれないと、さっきのあなたの発言、あなたの本当の恋人に聞かせますよ」
その女が他に本命らしき男と密会している写真も、ぼくは入手済みだった。
たぶん女は兄さんと結婚したあとも、なんだかんだその男も丸め込んで、その男とも逢瀬を続けるつもりだったんだろうね。
「さっきの発言って、……録音、してたの?」
「もちろん」
そう言ってぼくが微笑むと、女はますます顔の色をなくして、しぶしぶぼくの要望を呑んだ。
録音した女の発言を、ぼくは兄さんに聞かせた。
兄さんはさすがにショックを受けた様子で、弱々しく微笑んだ。
「……ぼくは、ばかだな。あれだけ椛が、忠告してくれていたのに」
そして、言った。
「ぼくはもう、……二度と恋愛なんか、しない」
ぼくはきっと、恋愛には向かない人間なんだ。
そうつぶやいて、それからすぐに兄さんは、結木邸から姿を消した。
兄さんの行方は、すぐにわかったけれど
「もうぼくは、跡を継ぐ気はありません。会社経営はたぶん、椛のほうが適役です。椛にやらせるべきです」
そう言って、周囲の反対も聞かずにお父さんと縁を切った。
そしてお母さんの旧姓を名乗って、気に入った土地のひとつの鎌倉で、大学の講師として働くようになった。
兄さんは、その免許も持っていたからね。
恋愛に失敗したのは、自分に次期社長という肩書きがあったせいもある。
兄さんはたぶんそう思って、結木の家を嫌ってしまったんだろう。
お父さんは、ああいう……豪快な性格だから。
だからというか、ぼくもそのころ大学生だったけどもう会社経営の手伝いをしていて、能力を買われてもいたから、お父さんはあっさりと後継者をぼくへと切り替えたんだ。
兄さんが結木家と縁を切っても、ぼくはときどき鎌倉にいる兄さんのアパートを訪ねていって、兄さんと語り合ったりもした。
前より兄さんは、生き生きしている。
大学での話を楽しそうにぼくに聞かせる兄さんを見て、ぼくはそう感じた。
「最近、女の子がぼくについてまわるんだ」
兄さんは、あるときぼくにそう言った。
困っているどころか、兄さんはどこかうれしそうだった。
それがりんごちゃん、きみのことだよ。
兄さんは、ぼくが兄さんのところに遊びに行くたびに、りんごちゃんの話を、するようになった。
途中から、「七瀬さん」から「りんごちゃん」に呼び名が変わって、──そう。
最初にりんごちゃんって呼び始めたのは、ぼくじゃなくて……兄さんだったんだよ。
兄さんの話を聞いているうちに、ぼくまでりんごちゃんに会っている気分になるくらいで。
それくらい兄さんは楽しそうに、幸せそうに、りんごちゃんとのことをぼくに話して聞かせていた。
また「りんごちゃん」の話を聞かせてもらえるのかな、って、その日もぼくは楽しみに事前に仕事休みを取って、兄さんのところに遊びに行った。
その日は大学の卒業式で、兄さんは淋しそうな微笑みを浮かべていた。
「りんごちゃんに、告白された」
「よかったじゃないか、兄さん。りんごちゃんも晴れて卒業だし、もちろんつきあうんでしょ?」
だけど兄さんは、かぶりを振ったんだ。
ぼくは、目を瞠った。
「まさか、……ふったの? どうして? 兄さんもりんごちゃんのことが、好きだったんだよね?」
「前にも言ったように、……ぼくは恋愛には向かない男なんだ。りんごちゃんにも、そう言った。ぼくは……臆病な男なんだ」
むりを言ってりんごちゃんにこれをもらってきたよ、と兄さんは言って、りんご型の爪切りのキーホルダーをぼくに見せてくれた。
「ぼくみたいな、人間として欠落している男のことを、好きと言ってくれる女の子がいた。りんごちゃんはほんとうに、りんごみたいな子だったな。りんごちゃんといるだけで、熟したりんごを食べているときみたいに、胸が甘酸っぱくなって気分がすっきりして、幸せな気分になれるんだ。……素直で真面目で、いい子だったな」
どこか遠い目つきをして淋しそうに微笑みながら、兄さんはそう言った。
兄さんを、ここまでの恋愛恐怖症に追い込んだのは、……ぼくだ。
だからぼくは、それ以上は……なにも、言えなかった。
兄さんが事故に遭ったのは、それから間もなくのことだった。
飲酒運転をしていた、車にはねられて、……ほぼ即死だった。
だけど幸いぼくがそばにいて、最期の言葉を聞くことができたんだ。
兄さんは震える手で、ズボンのポケットから、あのりんごのキーホルダーを出してぼくに手渡した。
「椛、……頼む。りんごちゃんを……守って、あげて……。ぼくの、かわりに……」
かすれていて、とぎれとぎれだったけれど。
兄さんははっきりと、ぼくにそう言い残した。
兄さんは最期まで、りんごちゃん。きみのことを、想っていたんだよ──。
◆
「兄さんは、……本当は自分がりんごちゃんのことを守りたかったんだと思う」
椛さんは、千春先生の話をしめくくる。
わたしはといえば、話の途中からぽろぽろと涙があふれてきて……なんにも、言葉が出てこなくて。
千春先生の最期の言葉が、胸に痛くて苦しい。
だけど、……でも、
ああ、……千春先生。
「……椛さんと出逢って、わたしまで……歪んじゃったみたいです」
泣きながらかすれる声で言うわたしを不思議そうに見下ろす、椛さん。
「千春先生の死も、気持ちも……つらくて苦しくて、たまらない。なのに……頭の片隅で、思ってしまう自分がいるんです。──きっと千春先生が、わたしと椛さんとを結びつけてくれたんだ、って」
「……りんごちゃん、」
椛さんの焦げ茶色の瞳が、大きく見開かれる。
「こんなの、わたし……身勝手すぎます。自分で自分が、いやになります」
ほんとうにほんとうの純粋な人間だったら千春先生の死と気持ちだけを悼むことができるのだろう。
なのに、わたしは……
「わたし、……ぜんぜん千春先生が言っていたような人間じゃありません。純粋でも、なんでもない。こんなのきっと、神様が赦してくれない」
「……りんごちゃん」
椛さんが、そっと尋ねてきた。
「きみに、触れても……いい?」
わたしは思わず、苦笑い。
「はい、もちろん。そんなの、いまさら……です」
たぶん椛さんは、わたしの心の中の千春先生への気持ちが、ぶり返したんだとでも思ったんだと思う。
わたしが、泣いてなんか、いるから。
椛さんは、強く優しくわたしを抱きしめてくれた。
そして、そっと背中をさすってくれた。
「もしも、神様が赦してくれなくても。ぼくが、きみのことを赦すよ。──ぼくだって同罪、かもしれないけどね。いや、ぼくのほうがりんごちゃんよりも罪が重いかな」
「どうして、ですか?」
椛さんの鼓動が、伝わってくる。
その鼓動が少しだけ速く感じられるのは、椛さんが……感情的になっているからかもしれない。
「りんごちゃんと出逢うまでは……兄さんに言われたとおりにりんごちゃんを守ることだけに徹しようと思ってたんだ。……だけど4年前、実際に出逢って少しだけだけど、一緒に過ごして。ぼくもりんごちゃんのことが、好きになってしまって。……りんごちゃんを、兄さんにさえも渡したくない。そんな感情が生まれてきて、もう……止められなくてね。だから再会して、りんごちゃんを自分の奥さんにしてから、りんごちゃんにキスしたり身体に触れたりもしたんだ。りんごちゃんの心は、いまも兄さんのところにある。そうは思っても、りんごちゃんの心も身体も、必ずぼくのものにしてみせる。そう決意したんだ。……ぼくは、卑怯者なんだよ」
懺悔でもするかのように、一息に言った椛さん。
わたしの心は、不思議と穏やかだった。
「椛さんが、それを罪だと思うのなら。それなら、椛さんのことはわたしが赦します。それで、おあいこでしょう?」
椛さんのそのバニラの甘い香りが、つらくて苦しいわたしの気持ちを優しくしてくれる。
椛さんは少しだけ身体を離して、わたしの額に自分の額をコツンとくっつけた。
「大丈夫。誰が赦しても赦さなくても、……兄さんは、優しいから」
「……はい」
千春先生だったら、きっと生きていたとして、わたしと椛さんがこんなふうに愛し合うようになっても。
淋しそうに、困ったように、でも優しく微笑んで、赦してくれる。
そんな、気がする。
「……わたしのこの涙は、確かに千春先生のことが哀しくて、ですけど……」
伝わりますように、そう願いながら、わたしは言葉を紡ぐ。
「たぶん、千春先生への……決別の涙でも、あると思います」
「りんごちゃん」
椛さんの声が、震える。
「むりしなくても、いいんだよ」
なんだか、椛さんのほうが、泣き出してしまいそう。
「むりなんか、していません」
千春先生。
初恋を、貫くことができなくて……ごめんなさい。
でも、わたし……やっと、先生への恋に終止符を打つことができたみたいです。
千春先生が亡くなっていたから、じゃなくて。
椛さんのことを好きになってしまった瞬間から、たぶんもう、わたしは自分の初恋に終止符を打つことができていたんです。
わたしはいままでそのことに、はっきりと気づいていなかった。気づけていなかった。
……こんなふうに、勝手に気持ちの決別なんかしたりして……生きている人間特有の、ご都合主義だとも思う。
でも、……それでも、いい。
そんなふうに、誰かに罵られても、いい。
椛さんのそばに、いられるのなら。
椛さんのことを、想い続けていられるのなら。
──千春先生がもうこの世にいないって考えたら、心のどこか一部分が、ちぎれてしまうかのように哀しいけれど。
でも、千春先生のことを聞いてもいまわたしがこうして優しい気持ちでいられるのは、椛さんがいてくれるおかげだと思います。
「椛さん、」
だからわたしも、椛さんの背中にそっと両手を回して、その愛おしい存在を抱きしめる。
「……変わりません。薄情かもしれないけれど、わたし……いま好きな人は、変わりません。いまのわたしが、好きな人は……椛さん、だけです」
わたしの、何度目かの告白に
「……ありがとう」
椛さんがちいさくかすれた声で、そう言った。
椛さん。
わたし、あなたに出逢えてほんとうによかった。
椛さんがいてくれなかったら、わたしの人生は、きっともっとつまらないものになっていた。
千春先生、……いっぱいいっぱい、ありがとう。
兄さんはちいさなころから、ルミエール・ファクトリーの後継者として教育を受けていた。
物心つく前から、お父さんに連れられて取引先のところにも、行ったりしていた。
兄さんは親思いの優しい子で、文句ひとつ言わずに塾や習い事もしたし、取引先の相手とも話をしたりした。
取引先の相手に、自分と境遇がよく似た子がいる。
その子に絵を教えてるんだ。
兄さんは寝屋川静夜のことも、そうしてぼくに話してくれるようにもなった。
ぼくは兄さんとは違って、昔からどこか性格が歪んでいてね。
塾や習い事なんかクソくらえだって思っていたけど、そのたび兄さんが、
「どんなことにも、ちゃんと意味があるんだよ」
そう、優しく諭してくれたんだ。
お父さんのことは昔から好きじゃなかったけど、ぼくは優しい兄さんのことは大好きだった。
──だけど兄さんは、恋愛に対してあまりにも純粋で、……不器用で。
兄さんは大学を出てから少しのあいだ、ルミエール・ファクトリーの子会社で、本社の次期社長として社会勉強をしていたことがあった。
そんなとき知り合った女性と、初めて男女のつきあいというものを始めた。
その女は、いかにも軽い感じだった。
ああこの女は、将来の地位も約束されていてお金もある兄さんを、利用しているだけなんだ、って……当時からすれていたぼくは、一目(ひとめ)で悟った。
だけど、ぼくがその女と別れろっていくら説得しても無駄だった。
兄さんは、
「彼女はそんな人じゃない。ぼくを利用したりなんか、できる人じゃない。純粋な人だよ」
そう信じて、疑わなくてね。
だからぼくは、強硬手段に出た。
その女をホテルに呼び出して、誘ってみたんだよ。
「兄さんなんかやめて、ぼくとつきあわない?」
ってね。
とたんに女はいやらしい笑みを浮かべて、ぼくの身体にしなだれかかってきた。
「玉の輿を狙っているから、椛くんとは結婚できないけど……セフレっていう形だったら、ぜひ椛くんとつきあいたいわ。千春は顔もきれいだしエッチもうまくなってきたし、なにより次期社長だけど、あたしは椛くんのほうがタイプなのよね」
もちろん、ぼくはその女に指一本触れなかった。
「冗談だよ。悪いけどあなたみたいに尻軽で性格ブスな女を抱くほど、飢えてないんだよね」
実際ぼくは、もうずっと前から女に苦労はしていなかったからね。
豹変したぼくに、女は青ざめた。
「あなた……まさか、カマかけたの……?」
「ホテルに呼ばれた時点で、気づかないとね?」
ぼくは、用意していたお金をテーブルの上に置く。
自分の小遣いだったけど、妥当な金額の手切れ金だったと思う。
「兄さんとは、別れてもらえますね?」
「誰が、」
「別れてくれないと、さっきのあなたの発言、あなたの本当の恋人に聞かせますよ」
その女が他に本命らしき男と密会している写真も、ぼくは入手済みだった。
たぶん女は兄さんと結婚したあとも、なんだかんだその男も丸め込んで、その男とも逢瀬を続けるつもりだったんだろうね。
「さっきの発言って、……録音、してたの?」
「もちろん」
そう言ってぼくが微笑むと、女はますます顔の色をなくして、しぶしぶぼくの要望を呑んだ。
録音した女の発言を、ぼくは兄さんに聞かせた。
兄さんはさすがにショックを受けた様子で、弱々しく微笑んだ。
「……ぼくは、ばかだな。あれだけ椛が、忠告してくれていたのに」
そして、言った。
「ぼくはもう、……二度と恋愛なんか、しない」
ぼくはきっと、恋愛には向かない人間なんだ。
そうつぶやいて、それからすぐに兄さんは、結木邸から姿を消した。
兄さんの行方は、すぐにわかったけれど
「もうぼくは、跡を継ぐ気はありません。会社経営はたぶん、椛のほうが適役です。椛にやらせるべきです」
そう言って、周囲の反対も聞かずにお父さんと縁を切った。
そしてお母さんの旧姓を名乗って、気に入った土地のひとつの鎌倉で、大学の講師として働くようになった。
兄さんは、その免許も持っていたからね。
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兄さんはたぶんそう思って、結木の家を嫌ってしまったんだろう。
お父さんは、ああいう……豪快な性格だから。
だからというか、ぼくもそのころ大学生だったけどもう会社経営の手伝いをしていて、能力を買われてもいたから、お父さんはあっさりと後継者をぼくへと切り替えたんだ。
兄さんが結木家と縁を切っても、ぼくはときどき鎌倉にいる兄さんのアパートを訪ねていって、兄さんと語り合ったりもした。
前より兄さんは、生き生きしている。
大学での話を楽しそうにぼくに聞かせる兄さんを見て、ぼくはそう感じた。
「最近、女の子がぼくについてまわるんだ」
兄さんは、あるときぼくにそう言った。
困っているどころか、兄さんはどこかうれしそうだった。
それがりんごちゃん、きみのことだよ。
兄さんは、ぼくが兄さんのところに遊びに行くたびに、りんごちゃんの話を、するようになった。
途中から、「七瀬さん」から「りんごちゃん」に呼び名が変わって、──そう。
最初にりんごちゃんって呼び始めたのは、ぼくじゃなくて……兄さんだったんだよ。
兄さんの話を聞いているうちに、ぼくまでりんごちゃんに会っている気分になるくらいで。
それくらい兄さんは楽しそうに、幸せそうに、りんごちゃんとのことをぼくに話して聞かせていた。
また「りんごちゃん」の話を聞かせてもらえるのかな、って、その日もぼくは楽しみに事前に仕事休みを取って、兄さんのところに遊びに行った。
その日は大学の卒業式で、兄さんは淋しそうな微笑みを浮かべていた。
「りんごちゃんに、告白された」
「よかったじゃないか、兄さん。りんごちゃんも晴れて卒業だし、もちろんつきあうんでしょ?」
だけど兄さんは、かぶりを振ったんだ。
ぼくは、目を瞠った。
「まさか、……ふったの? どうして? 兄さんもりんごちゃんのことが、好きだったんだよね?」
「前にも言ったように、……ぼくは恋愛には向かない男なんだ。りんごちゃんにも、そう言った。ぼくは……臆病な男なんだ」
むりを言ってりんごちゃんにこれをもらってきたよ、と兄さんは言って、りんご型の爪切りのキーホルダーをぼくに見せてくれた。
「ぼくみたいな、人間として欠落している男のことを、好きと言ってくれる女の子がいた。りんごちゃんはほんとうに、りんごみたいな子だったな。りんごちゃんといるだけで、熟したりんごを食べているときみたいに、胸が甘酸っぱくなって気分がすっきりして、幸せな気分になれるんだ。……素直で真面目で、いい子だったな」
どこか遠い目つきをして淋しそうに微笑みながら、兄さんはそう言った。
兄さんを、ここまでの恋愛恐怖症に追い込んだのは、……ぼくだ。
だからぼくは、それ以上は……なにも、言えなかった。
兄さんが事故に遭ったのは、それから間もなくのことだった。
飲酒運転をしていた、車にはねられて、……ほぼ即死だった。
だけど幸いぼくがそばにいて、最期の言葉を聞くことができたんだ。
兄さんは震える手で、ズボンのポケットから、あのりんごのキーホルダーを出してぼくに手渡した。
「椛、……頼む。りんごちゃんを……守って、あげて……。ぼくの、かわりに……」
かすれていて、とぎれとぎれだったけれど。
兄さんははっきりと、ぼくにそう言い残した。
兄さんは最期まで、りんごちゃん。きみのことを、想っていたんだよ──。
◆
「兄さんは、……本当は自分がりんごちゃんのことを守りたかったんだと思う」
椛さんは、千春先生の話をしめくくる。
わたしはといえば、話の途中からぽろぽろと涙があふれてきて……なんにも、言葉が出てこなくて。
千春先生の最期の言葉が、胸に痛くて苦しい。
だけど、……でも、
ああ、……千春先生。
「……椛さんと出逢って、わたしまで……歪んじゃったみたいです」
泣きながらかすれる声で言うわたしを不思議そうに見下ろす、椛さん。
「千春先生の死も、気持ちも……つらくて苦しくて、たまらない。なのに……頭の片隅で、思ってしまう自分がいるんです。──きっと千春先生が、わたしと椛さんとを結びつけてくれたんだ、って」
「……りんごちゃん、」
椛さんの焦げ茶色の瞳が、大きく見開かれる。
「こんなの、わたし……身勝手すぎます。自分で自分が、いやになります」
ほんとうにほんとうの純粋な人間だったら千春先生の死と気持ちだけを悼むことができるのだろう。
なのに、わたしは……
「わたし、……ぜんぜん千春先生が言っていたような人間じゃありません。純粋でも、なんでもない。こんなのきっと、神様が赦してくれない」
「……りんごちゃん」
椛さんが、そっと尋ねてきた。
「きみに、触れても……いい?」
わたしは思わず、苦笑い。
「はい、もちろん。そんなの、いまさら……です」
たぶん椛さんは、わたしの心の中の千春先生への気持ちが、ぶり返したんだとでも思ったんだと思う。
わたしが、泣いてなんか、いるから。
椛さんは、強く優しくわたしを抱きしめてくれた。
そして、そっと背中をさすってくれた。
「もしも、神様が赦してくれなくても。ぼくが、きみのことを赦すよ。──ぼくだって同罪、かもしれないけどね。いや、ぼくのほうがりんごちゃんよりも罪が重いかな」
「どうして、ですか?」
椛さんの鼓動が、伝わってくる。
その鼓動が少しだけ速く感じられるのは、椛さんが……感情的になっているからかもしれない。
「りんごちゃんと出逢うまでは……兄さんに言われたとおりにりんごちゃんを守ることだけに徹しようと思ってたんだ。……だけど4年前、実際に出逢って少しだけだけど、一緒に過ごして。ぼくもりんごちゃんのことが、好きになってしまって。……りんごちゃんを、兄さんにさえも渡したくない。そんな感情が生まれてきて、もう……止められなくてね。だから再会して、りんごちゃんを自分の奥さんにしてから、りんごちゃんにキスしたり身体に触れたりもしたんだ。りんごちゃんの心は、いまも兄さんのところにある。そうは思っても、りんごちゃんの心も身体も、必ずぼくのものにしてみせる。そう決意したんだ。……ぼくは、卑怯者なんだよ」
懺悔でもするかのように、一息に言った椛さん。
わたしの心は、不思議と穏やかだった。
「椛さんが、それを罪だと思うのなら。それなら、椛さんのことはわたしが赦します。それで、おあいこでしょう?」
椛さんのそのバニラの甘い香りが、つらくて苦しいわたしの気持ちを優しくしてくれる。
椛さんは少しだけ身体を離して、わたしの額に自分の額をコツンとくっつけた。
「大丈夫。誰が赦しても赦さなくても、……兄さんは、優しいから」
「……はい」
千春先生だったら、きっと生きていたとして、わたしと椛さんがこんなふうに愛し合うようになっても。
淋しそうに、困ったように、でも優しく微笑んで、赦してくれる。
そんな、気がする。
「……わたしのこの涙は、確かに千春先生のことが哀しくて、ですけど……」
伝わりますように、そう願いながら、わたしは言葉を紡ぐ。
「たぶん、千春先生への……決別の涙でも、あると思います」
「りんごちゃん」
椛さんの声が、震える。
「むりしなくても、いいんだよ」
なんだか、椛さんのほうが、泣き出してしまいそう。
「むりなんか、していません」
千春先生。
初恋を、貫くことができなくて……ごめんなさい。
でも、わたし……やっと、先生への恋に終止符を打つことができたみたいです。
千春先生が亡くなっていたから、じゃなくて。
椛さんのことを好きになってしまった瞬間から、たぶんもう、わたしは自分の初恋に終止符を打つことができていたんです。
わたしはいままでそのことに、はっきりと気づいていなかった。気づけていなかった。
……こんなふうに、勝手に気持ちの決別なんかしたりして……生きている人間特有の、ご都合主義だとも思う。
でも、……それでも、いい。
そんなふうに、誰かに罵られても、いい。
椛さんのそばに、いられるのなら。
椛さんのことを、想い続けていられるのなら。
──千春先生がもうこの世にいないって考えたら、心のどこか一部分が、ちぎれてしまうかのように哀しいけれど。
でも、千春先生のことを聞いてもいまわたしがこうして優しい気持ちでいられるのは、椛さんがいてくれるおかげだと思います。
「椛さん、」
だからわたしも、椛さんの背中にそっと両手を回して、その愛おしい存在を抱きしめる。
「……変わりません。薄情かもしれないけれど、わたし……いま好きな人は、変わりません。いまのわたしが、好きな人は……椛さん、だけです」
わたしの、何度目かの告白に
「……ありがとう」
椛さんがちいさくかすれた声で、そう言った。
椛さん。
わたし、あなたに出逢えてほんとうによかった。
椛さんがいてくれなかったら、わたしの人生は、きっともっとつまらないものになっていた。
千春先生、……いっぱいいっぱい、ありがとう。
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働けども働けどもその収入は両親に搾取されるだけ…。睡眠時間だって2時間程度しかないのに、それでもまだ働き口を増やせと言う両親。
早朝のバイトで頭は朦朧としていたけれど、そんな時にうちにやってきたのは白虎商事CEOの白川大雄さん。ポーンっと25億で私を買っていった。
そんな大雄さん、白虎商事のCEOとは別に白虎組組長の顔を持っていて、私に『姐』になれとのこと。
大丈夫なのかなぁ?
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