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はちみつバレンタイン(プチ続編)

きみでなければ

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翌日、午前中のうちに、椛さんと一緒に結木邸を出発した。
見送りにきてくれた水口夏斗は、熱で赤い顔をして、しきりにくしゃみをしていた。
やっぱり風邪、引いちゃったんだ。
こんな真冬に水を浴びるなんて、こういう結果になるのは目に見えていたのに。

「今日は夏斗もゆっくりしておいで。せめて熱が下がるまではね」

苦笑しつつ、椛さんもそう言っていた。
今日は、藍色の車を椛さんが運転する。
わたしは、助手席。
なんだかちょっぴり、ドライブ気分でわくわくする。
だってドライブなんて、したことがない。
男の人とまともにつきあったことのないわたしにとっては、こういうことはほぼ初めて。
キスもハジメテも、みんな椛さんが初めてだった。
これからもこういうことは全部、初めては椛さんとがいいな。

椛さんの運転は、すごく丁寧だった。
車内では、音楽をかけながら椛さんと世間話をした。
温泉に最初に入ったのは何歳のときだった、とか。
今日行く旅館には、客室露天風呂がついているんだ、とか。
そんな他愛のない会話なのに、椛さんが相手だと楽しくて仕方がない。

途中から、あたりは雪景色になってきて、やがて最初の目的地である遊園地に到着した。
椛さんがチケットを購入して、案内図と一緒にわたしに渡してくれる。

「わあ、すごい! 雪が積もっても遊園地って開園してるんですね!」

むしろ、あちこち白い雪で彩られた遊園地は、よりいっそう幻想的に見える。

「ここは、冬にはスキーやそり滑りもできる場所もあるよ」

遊園地も、いろいろ考えてるんだなあ。
変な感心をしていると、

「りんごちゃん、遊園地は久し振り?」

「久し振りっていうか、小学校のときの修学旅行で一度だけ。うち、あんまり余裕がなかったので」

「じゃあ、今日はいっぱい楽しもうね」

「はい!」

椛さんの手がわたしの手に触れて、きゅっと握られる。
そのまま、指を絡められた。
恋人つなぎ、だ。
たったそれだけで、わたしの顔は熱くなってしまう。
椛さんとの初デートで、こんなふうに……本物のカップルみたいにしてもらえることが、無性にうれしくて仕方がない。
本物のカップルって、わたしと椛さんは実際に本物の夫婦、なんだけれど。
だけど絶叫系は、わたしは恐くなってしまって二種類乗っただけでやめてしまった。

「せっかくだし、スキーしてみる? それとも、スケートがいい?」

「うーん……どっちもしたことがないのでわからないんですけど、まだスケートのほうができそうな気がします」

ベンチで少し休むわたしに、ホットドッグを買ってきてくれる、椛さん。
さっそくパクつく、わたし。

「おいしーい!」

遊園地のホットドッグって、こんなにおいしいんだ。
隣に座って、椛さんもホットドッグを食べる。
アキさんのときも、こんなにたまごかけごはんを上品に食べる人って他に見たことがないと思ったけれど、いまもそう感じてしまう。
こんなにきれいにホットドッグを食べる人、見たことがない。
いつも思うけど、食事をする椛さんて、……ものすごく色っぽい。
よく、食事をしている女の人のことを色っぽいって言う男の人もいるけれど、わたしはたぶんそれを、椛さんに対して感じてしまっているみたい。
ホットドッグを食べて、こんなに絵になる人って……他にいないだろうなあ……。
見惚れてしまっていると、ホットドッグを食べ終わった椛さんが、こっちを向いて、ふっと微笑んだ。

「りんごちゃん、ついてる」

「え?」

「ケチャップ」

「え……あ!」

見惚れていた恥ずかしさもあって、慌てるわたしに、椛さんが手を伸ばしてくる。
唇の端っこを、長い指で、くい、と軽く拭ってくれた。
椛さんの指に、ケチャップが移る。

「あ……ありがとうございます。あ、えっとティッシュ……」

バッグからティッシュを出そうとすると、椛さんは指についたケチャップを、そのままぺろりと舐めてしまった。
何気ない仕草、なのに、心臓が高鳴ってしまう。
椛さんって、きれいで色っぽくて……

「りんごちゃん、どうかした?」

そうやって微笑んでくれると、わたしはもうイチコロで。

「どうも、しません」

あたふたと、そう答えるのがせいいっぱい。
こんな人がわたしの旦那さまだなんて、本当に、奇跡に近いと思う。
わたし、いったい椛さんに何度恋に落ちるんだろう。
ドキドキしていると、

「ちょっと手、洗ってくるね。いい子で待っててね?」

椛さんはそう言って、きれいな微笑みを残してベンチから立ち上がり、歩いていく。

「はあ……」

思わず、深いため息をついてしまう。
椛さんにドキドキしすぎて、まともに息もできない。
毎晩抱かれてもいるのに、まだまだわたしの、椛さんに対する愛のレベルは上がりそうだ。
どんなに抱かれたって、飽きない。
椛さんの一挙一動に、ドキドキして……そのたび、恋をする。
椛さんのどんな行動も、愛しいな、と思う。
ひとり幸せを噛みしめていた、そのときだった。

「あんたが椛さんの奥さん? ”りんごちゃん”ですか?」

敵意むきだしの声に顔を上げると、わたしと同い年くらいのショートヘアの女性が腕組みをして、わたしを見下ろしていた。
見下ろして、というか……恐い表情で、わたしを睨みつけている。
元々はかわいらしい顔のつくりなのだろうに、そんな表情をしているから、醜く歪んで見えてしまう。

「そう、ですけど……」

その迫力に押されて、恐る恐る答えると

「わたし。椛さんの、元カノです」

……なんとなく、そんな気はしていたけれど。
でもどうして元カノさんが、「りんごちゃん」というわたしの呼び名を知っているんだろう。
よく見れば元カノさんは、制服のようなものを着ている。

「もしかして、ここで働いていらっしゃるんですか?」

尋ねてみると、

「ええ、お土産を売っています。ここは、椛さんとよくデートに来た思い出の場所なので、忘れられなくて」

ズキン、と胸に亀裂が走ったようだった。
ゆうべ椛さんが言っていた、椛さんと遊園地に一緒に行ったという、「ご令嬢じゃない子」って……この人のこと、なんだ。

「わたし、椛さんとは結婚するつもりだったんですよね。椛さんも、デートだってしてくれたし、いつも抱いてもくれたし」

ズキン、ズキンと、胸の痛みが……やまない。やんで、くれない。
そんなわたしの足を、元カノさんが思いっきり踏みつけた。

「痛っ……!」

ピンヒールで踏まれたから、相当に痛い。
抗議するよりも早く、元カノさんは、わたしに顔を近づけて憎々しげに言った。

「椛さんがどこかの令嬢と結婚したんなら、わたしもあきらめがついた。でも……一般公表を聞いて、驚いた。椛さんの奥さん……あんたは、てんで普通の庶民だっていうじゃない。わたし、それからずっとここで、椛さんが来るのを待っていたのよ。あんたなんかよりわたしのほうが、椛さんのことを愛してる。椛さんを、あんたから奪ってやるわ。絶対にね……!」

この、人……椛さんのことを、ここでずっと待ってたって……そんなの、まるでストーカーみたい……。
背筋がゾクリとして、勝手に身体が震える。
嫉妬よりも、恐さのほうが勝(まさ)ってなんにも言い返すことができない。
そこへ、

「ぼくのりんごちゃんを、いじめないでもらえるかな?」

元カノさんの背後に、いつのまにか椛さんが立っていた。
にこにこと……あの、椛さん特有の悪魔的な微笑みを、浮かべて。
元カノさんは、ぱっと振り返って、いままでの表情が嘘だったかのように、花のように微笑んでみせた。

「いじめてなんか、いません。椛さん、お久し振りですね。わたし、椛さんのことずーっと待ってたんですよ? ……ねえ、椛さん。ほかに遊園地はたくさんあるのに、奥さまとのデートにこの遊園地を選んでくださったのは……わたしのこと、忘れないでいてくださったからですよね?」

声も、わたしと話していたときよりも一オクターブくらい、高い。
だけど椛さんは、あっけらかんと答えた。

「それが忘れてたんだよね、きみのこと。きみがあんな手紙を、この短期間であんなにたくさんりんごちゃんあてに出さなければ、きみの顔も名前もすっかり忘れてたよ。ごめんね?」

椛さん……?
わたしにはわけがわからなかったけれど、元カノさんには通じたらしい。
見る間に、愛らしい顔が青ざめていく。

「な、なんのこと……ですか?」

笑顔を引きつらせる元カノさんに、椛さんは余裕たっぷりに、口を開く。

「ぼくと離婚しないと男に襲わせるぞ、とか。まだわからないようだからって、過去にぼくに抱かれたときに録音しておいたDVDを送りつけたり、とか。まあ、きみからそういう手紙が結木邸に届き始めてからは、りんごちゃんには内緒でボディーガードをつけてたし、そのDVDも破棄しちゃったけどね」

えっ……わたしあてに、そんなものが届いていたの?
いったい、いつから?
って、椛さん、わたしにボディーガードまでつけてくれていたの?

「雪兎がりんごちゃんをホテルに連れ込んだときには、ボディーガードも相手が雪兎だからって見守るだけにしたみたいだね。ぼくと雪兎とのことを、よく知っているボディーガードだったから」

「わ、わたしが雪兎さんにホテルに連れ込まれたこと……椛さん、知ってたんですか?」

驚いて尋ねると、

「うん。今朝方ボディーガードから報告を受けたんだよ。雪兎相手でも容赦しないでくれって、注意しておいたけどね」

ごめんねりんごちゃん、と、椛さん。

「だけどあんなDVDなんか送りつけても、あんまり意味なかったんじゃない? ぼく、きみとつきあってたあのころは、他にも恋人たちがいたし、きみ相手にも他の女性相手にも、抱くときは全員のことを『りんごちゃん』って呼んでたんだから」

な、……なんだかとっても、すごいことを聞いてしまった気がする。
いろんな意味で、いろいろと。

「でも、わたしの声も入ってましたよ。この女よりも、きっといい声で」

そう言う元カノさんは、開き直った模様。
そんな元カノさんに、にっこりと

「なに言ってるの? りんごちゃんの声は、ぼくにとって世界一いい声なんだけど?」

容赦のない、椛さん。

「それに、きみには『りんごちゃんの代わりでいいのなら』ってつきあう前に条件出しておいたはずだよね? 他の恋人たちにも、だけど。結局ぼくが虚しくなって、『やっぱりりんごちゃんじゃないと意味がない』って……きみも納得して別れたはずだよね?」

「それは……! ……期間をあければ、きっと椛さんもわたしのよさを思い出してくれると思ったから……!」

「ぶっちゃけ、りんごちゃんじゃなければぼくにとっては、相手が誰でもおなじだったからね。デートのときも抱くときも、ぼくはきみの顔にりんごちゃんの顔を重ねていたし。きみのよさなんて思い出すどころか、ぼくにとってはそんなものなにひとつなかったよ?」

椛さん……改めて思うけど、椛さんって、わたし以外の女の人にはこんなに冷たい人なんだ。
……どうしよう、……うれしい。
元カノさんは、きっと傷ついているはずなのに。
こんなことを思ってしまうなんて……。
わたしってほんとに、いつからこんなに性格が歪んじゃったんだろう。

「だから、この遊園地をりんごちゃんとの今日のデート先に選んだのも、こうしてきみとの縁を完全に断ち切るためなんだよね。りんごちゃんのことを脅している女がいるってわかって、きみのことを徹底的に調べ上げた。だから、きみがこの遊園地で働いていることもわかったんだよ」

そこで、スッと椛さんの目が細くなる。
ゆうべ雪兎さんに対してそうだったように、椛さんの周りの空気の温度が一気に下がった。

「きみの性格が悪いのも、知ってたよ? なにしろぼく自身の性格が悪いし歪んでいるからね。同類は、どうしてもわかっちゃうんだ。──これ以上りんごちゃんに手を出したら、社会で生きられないようにしてあげるから覚悟して?」

「くっ……!」

とうとう、観念したように元カノさんはその場に崩れ落ちた。



ああ……雪が、きれいだなあ。
わたしは肩まで温泉に浸かりながら、ぼんやりと、すぐそこに見える、庭に降り積もった白い雪を見つめる。
あれから元カノさんが、どこかへ去って行ったあと

「念のため、もうしばらくボディーガードはそのままでいてもらおうね」

椛さんはそう言って、わたしをスケート場まで連れて行ってくれた。
そして、何事もなかったかのように、優しくスケートの指導をしてくれて……。
遊園地の一画にあった、おしゃれなレストランで昼食をとって、雪遊びができる場所で、一緒に雪だるまを作ったり、そり滑りをしたり。
最後に観覧車に乗ると、その中で椛さんは、わたしにそっと、触れるだけのキスをくれた。
そのころには、外は薄暗くなり始めていて、また少しだけ車を走らせて、この旅館にきて。

懐石料理が運ばれてくるまで時間があるからと、先にこうしてお部屋についている
かけ流しの露天風呂に、入っている。

純和風のつくりの部屋に、日帰りなのに、ベッドルームもついていて……とってもぜいたくな、気分。
椛さんはといえば、実は……わたしのすぐ隣に、いる。
恥ずかしがるわたしを、

「温泉は、夫婦だったら一緒に入るのが醍醐味だよ」

と、半ば強引に温泉に入れたのだ。
椛さんの裸ならもう何度も見ているけれど、こういうシチュエーションには、まだ慣れていない。
あの元カノさんの一件があってから、わたしは椛さんに対して、あんまりしゃべることができなくなってしまっていた。
わたしのことを、前からそんなにまで想ってくれていたんだ、と思うと確かに、うれしかったけれど……でも。

「足のあざ、少し引いてきたね」

「……はい」

椛さんが、さっき元カノさんに踏まれたわたしの足を、そっとさすってくれる。
踏まれたときの痛みほど、あざはそんなにひどくない。
だから、それはいいのだけれど。

「ぼくの過去の女性関係が、そんなに気になる?」

……やっぱり、椛さんは鋭い。
そう尋ねられて、わたしはおずおずと、口にした。

「気にならないって言ったら、嘘になります。椛さんは、わたしの代わりにって他の女の人とつきあってたみたいですけど……、なにも身体の関係にまでなることないって思っちゃうんです」

そんなふうに思うのは、たぶん……わたしの精神年齢が、まだ……子供だから、なんだろう。

「ぼくは、相手をりんごちゃんだと思ってつきあってたんだよ?」

「? はい」

それは、わかっているけれど。
椛さん、なにが言いたいんだろう?
小首をかしげるわたしの温泉の中の手に、椛さんは、自分の手を重ねる。
きゅっと、握られた。
さっきの、遊園地のときみたいに、……恋人つなぎ。

「相手がりんごちゃんだと思ったら、抱きたくなるのは当たり前。もちろんいまは本物のりんごちゃんがいるから、りんごちゃん一筋だけどね?」

「……!」

ま、またこの人はそんな恥ずかしいことを……っ!
首まで熱くなるわたしの耳元に形のいい唇を寄せて、椛さんはトドメのひと言。

「好きな女の子を抱きたいと思うのは、男として当然の心理だよ。それともりんごちゃんはこんなぼくのこと、イヤだと思う?」

ふるふる、とわたしはかぶりを振った。

「恥ずかしい、けど……イヤじゃ、ありません。……うれしい、です」

最後のほうは、ちいさな声になってしまったけれど

「ありがとう」

椛さんはそう言って、わたしの唇にキスを落とした。
軽いリップ音を立てながらのキスは、回を増すごとに、次第に深いものになっていく。
長く温泉に浸かっているせいか、軽くのぼせたのかもしれない。
だから少しだけ頭が朦朧として、……つい、自分から、椛さんの唇の隙間から舌をそっと入れて……椛さんの舌を、物欲しげに吸ってしまった。

「椛さんの、舌……甘い……」

うっとりと、その甘さに酔いながら、そうささやくと

「りんごちゃん、……りん子」

椛さんの手が、ぐっとわたしの腰に回り、自分の身体へと抱き寄せる。
わたしの肌に触れる、椛さんの……熱くなった、カラダ。

「もう、シたいの?」

コクンとうなずいてしまったのも、きっと……のぼせかけていたから。
そう、信じたい。
自分がそんなに椛さんのことが欲しいと思っているだなんて、認めることが、ものすごく恥ずかしい。
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