滲む墨痕

莇 鈴子

文字の大きさ
66 / 66
第五章 泡沫夢幻

十一

しおりを挟む
 外灯がぽつぽつと佇む暗い駐車場の端に立ち尽くす喪服姿の潤が、葬儀場の入り口から漏れる明かりを見つめている。
 通夜式の開始時間を三十分過ぎても中に入らずにそうしている彼女を、昭俊はいったん車に戻らないかと誘った。しかし、魂を盗られたような生気のない表情で首を横に振る彼女にそれ以上催促などできるはずもなく、その肩を静かに抱いた。
 昨日の潤の様子を思い返すと、本当に野島稔の死を伝えてよかったのかと自問したくなる。
 それを知らせた瞬間、急激に目前に現れた容赦のない事実に頭より先に心がひどく反応してしまったようで、彼女は悲痛に顔を歪めるやいなや命をすり減らすように慟哭した。それからしばらく、すっかり目を赤く腫らして息を乱す彼女を抱きしめてベッドに横たわり、その心が落ち着きを取り戻すのを待ってから、葬儀に参加する意思を示すも喪服など野島家に取りに帰るのは不可能だと肩を落とす彼女のため買い物に出た。
 今日は午後六時の開式時刻に間に合うよう東京を出発し、昭俊の自宅に帰って支度を済ませてから車でここまで来た。そうして今に至る。
 闇をぼんやりと照らす最期の灯火のような葬儀場の明かりを眺めながら、三年前の父の死を思う。
 心筋梗塞だった。今は使っていないかつての父の“籠もり部屋”で、ひとり倒れているところを駐在所勤務の警察官に発見された。「郵便受けに新聞が溜まっている」、と匿名で通報があったそうだ。玄関は閉まっていたが裏口は開いており、警察官はそこから入ることができたという。
 そのとき、昭俊は東京の自宅にいた。筆を洗い、穂先を整え、筆吊りに掛けたところで、スマートフォンが鳴った。知らない番号からの電話だったが、市外局番で故郷の町だとわかった。出ると、「今すぐお父様に連絡をしてください」と女性の声が聞こえた。感情を抑えた冷たい声だった。名乗りもせずにそれだけ言われ、いたずらかと思ったが、妙に胸騒ぎがして実家に電話をかけた。父は出なかった。
 その後、警察からの電話で父の死を知った。
 父と息子は、互いにひとりでその瞬間を迎えた。驚く暇も、別れを惜しむ暇も与えられず。いや、父は驚いたかもしれないし、別れを惜しんだかもしれない。孤独な男たちにそれは静かにふりかかり、息子はひとりきりになった。
 父を送り出すため果たすべき務めを果たし、過ごすべき毎日を淡々と過ごし、忌明けを迎えた頃、ふと父の最期を間接的に知らせてきた女性の存在を思い出した。
 着信履歴に残っていた固定電話の番号にかけてみたが、留守番電話の案内が不在を示した。伝言を残すにもどう説明すればいいのかわからず、かけ直すことにした。翌日、翌々日と数回かけて、ようやく繋がった。
 聞こえてきたのは、かすかに冷たさを纏う透きとおった女性の声――「野島でございます」。
 藤田秋三しゅうぞうの息子だと昭俊が名乗ると、返されたのは沈黙だった。なにか言わねばと思い、何度も電話してしまったことを謝罪すれば、女性も仕事で家を空けることが多くなかなか応答できなかったのだと詫びた。「警察に通報したのはあなたですか」と尋ねると、女性はまた黙ってしまった。
 その妙な間が、それまで考えつきもしなかった疑問を次々に湧きあがらせた。なぜ自分の携帯番号を知っていたのか。なぜ父の異変に気づいたのか。生垣に囲まれて表からは見えにくい玄関の郵便受けに新聞が溜まっていると、なぜわかったのか。
 父が死んだ瞬間、父のそばにいたのか――。飲み込んだ問いを、昭俊が最後まで口にすることはなかった。母は昭俊が高校一年の頃に離婚して家を出ていたから、その後に父が誰とどのような関係を持とうと首を突っ込むことではないと思って生きてきたし、父のほうも、そういう相手がいたとしてわざわざ口に出す男ではなかった。
 それが本当に母と別れたあとの関係だったのか、そもそも関係などなかったのか、もう父に直接訊く術はない。そういう意味では、父は秘密を墓場まで持っていくことに成功したのだろう。父から真実を知らされない以上、野島という名前への不信感にも気づかないふりをするしかなかった。
 その電話から四ヶ月ほど過ぎ、東京から完全にこの地に戻った昭俊は、久しぶりに竹林の散策道を歩いた。紅葉の見頃は終わりを迎えており、竹に囲まれた木々は冬支度を始め、紅く染まった葉をひらりひらりと石畳に落としていた。
 前方から、恋人同士らしき男女がゆったりとした足取りで歩いてきた。どうやら男のほうが女の歩幅に合わせているようだった。女はふいにしゃがみ込むと、紅葉を一枚拾い上げて優しげな笑みを浮かべた。昭俊は微笑ましい気持ちになりながらふたりのそばを通り過ぎた。
 後ろで、「ジュン」と言う男の声が聞こえた。次いで、「うん」と返事をする女の声がした。
 似合わない名前だと思った。その姿を目にし、声を耳にしたのは一瞬だったが、その名は妙にアンバランスな印象を与えた。
――セイジロウさん、見て。
 女が口にしたその名前は聞いたことがあった。野島屋旅館の次男と同じだ。野島の――。
 その瞬間、心に水滴が落ち、波紋を広げた。それまで気づかないふりをしていた猜疑心をようやく自覚したのだ。
 昭俊は振り返った。手を繋いだふたりの後ろ姿は少しずつ小さくなっていき、やがて見えなくなった。
 あ、と隣から聞こえた声で昭俊は我に返った。
 葬場の出入り口からひとりの参列者が姿を現すのが見えた。それに続いてぞろぞろと出てきた多くの人々が駐車場の暗闇に紛れていく。旅館の関係者をはじめとする様々な人間が参列しているのだろう。中には書道連盟の面々もいるかもしれない。
 なにげなく隣を見下ろす。吐き出されてくる人の流れを呆然と眺めている潤が、ふと両手を合わせて俯いた。長いことそのまま沈黙したあと、彼女はおもむろに顔を上げ、手を下ろした。無言を貫く潤に「帰りますか」と声をかけてみると、彼女は諦めたように「はい」と小さく返事をした。
 帰りの車でもほとんど喋らない潤だったが、自宅に戻り、『虚往実帰』の部屋に入ったとたん、硬直した声を出した。
「昭俊さん、言いましたよね。髪を切るときは教えてくださいって」
 唐突な言葉に一瞬思考が止まる。だがすぐに、東京に行く前日に風呂でそのようなことを口走ったと思い出し、昭俊は返事の代わりに潤の瞳を見つめた。
 彼女は決意のまなざしとともに、ひとつの要求を口にした。
「切ってくれませんか……私の髪」
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

処理中です...