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第五章 泡沫夢幻
十一
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外灯がぽつぽつと佇む暗い駐車場の端に立ち尽くす喪服姿の潤が、葬儀場の入り口から漏れる明かりを見つめている。
通夜式の開始時間を三十分過ぎても中に入らずにそうしている彼女を、昭俊はいったん車に戻らないかと誘った。しかし、魂を盗られたような生気のない表情で首を横に振る彼女にそれ以上催促などできるはずもなく、その肩を静かに抱いた。
昨日の潤の様子を思い返すと、本当に野島稔の死を伝えてよかったのかと自問したくなる。
それを知らせた瞬間、急激に目前に現れた容赦のない事実に頭より先に心がひどく反応してしまったようで、彼女は悲痛に顔を歪めるやいなや命をすり減らすように慟哭した。それからしばらく、すっかり目を赤く腫らして息を乱す彼女を抱きしめてベッドに横たわり、その心が落ち着きを取り戻すのを待ってから、葬儀に参加する意思を示すも喪服など野島家に取りに帰るのは不可能だと肩を落とす彼女のため買い物に出た。
今日は午後六時の開式時刻に間に合うよう東京を出発し、昭俊の自宅に帰って支度を済ませてから車でここまで来た。そうして今に至る。
闇をぼんやりと照らす最期の灯火のような葬儀場の明かりを眺めながら、三年前の父の死を思う。
心筋梗塞だった。今は使っていないかつての父の“籠もり部屋”で、ひとり倒れているところを駐在所勤務の警察官に発見された。「郵便受けに新聞が溜まっている」、と匿名で通報があったそうだ。玄関は閉まっていたが裏口は開いており、警察官はそこから入ることができたという。
そのとき、昭俊は東京の自宅にいた。筆を洗い、穂先を整え、筆吊りに掛けたところで、スマートフォンが鳴った。知らない番号からの電話だったが、市外局番で故郷の町だとわかった。出ると、「今すぐお父様に連絡をしてください」と女性の声が聞こえた。感情を抑えた冷たい声だった。名乗りもせずにそれだけ言われ、いたずらかと思ったが、妙に胸騒ぎがして実家に電話をかけた。父は出なかった。
その後、警察からの電話で父の死を知った。
父と息子は、互いにひとりでその瞬間を迎えた。驚く暇も、別れを惜しむ暇も与えられず。いや、父は驚いたかもしれないし、別れを惜しんだかもしれない。孤独な男たちにそれは静かにふりかかり、息子はひとりきりになった。
父を送り出すため果たすべき務めを果たし、過ごすべき毎日を淡々と過ごし、忌明けを迎えた頃、ふと父の最期を間接的に知らせてきた女性の存在を思い出した。
着信履歴に残っていた固定電話の番号にかけてみたが、留守番電話の案内が不在を示した。伝言を残すにもどう説明すればいいのかわからず、かけ直すことにした。翌日、翌々日と数回かけて、ようやく繋がった。
聞こえてきたのは、かすかに冷たさを纏う透きとおった女性の声――「野島でございます」。
藤田秋三の息子だと昭俊が名乗ると、返されたのは沈黙だった。なにか言わねばと思い、何度も電話してしまったことを謝罪すれば、女性も仕事で家を空けることが多くなかなか応答できなかったのだと詫びた。「警察に通報したのはあなたですか」と尋ねると、女性はまた黙ってしまった。
その妙な間が、それまで考えつきもしなかった疑問を次々に湧きあがらせた。なぜ自分の携帯番号を知っていたのか。なぜ父の異変に気づいたのか。生垣に囲まれて表からは見えにくい玄関の郵便受けに新聞が溜まっていると、なぜわかったのか。
父が死んだ瞬間、父のそばにいたのか――。飲み込んだ問いを、昭俊が最後まで口にすることはなかった。母は昭俊が高校一年の頃に離婚して家を出ていたから、その後に父が誰とどのような関係を持とうと首を突っ込むことではないと思って生きてきたし、父のほうも、そういう相手がいたとしてわざわざ口に出す男ではなかった。
それが本当に母と別れたあとの関係だったのか、そもそも関係などなかったのか、もう父に直接訊く術はない。そういう意味では、父は秘密を墓場まで持っていくことに成功したのだろう。父から真実を知らされない以上、野島という名前への不信感にも気づかないふりをするしかなかった。
その電話から四ヶ月ほど過ぎ、東京から完全にこの地に戻った昭俊は、久しぶりに竹林の散策道を歩いた。紅葉の見頃は終わりを迎えており、竹に囲まれた木々は冬支度を始め、紅く染まった葉をひらりひらりと石畳に落としていた。
前方から、恋人同士らしき男女がゆったりとした足取りで歩いてきた。どうやら男のほうが女の歩幅に合わせているようだった。女はふいにしゃがみ込むと、紅葉を一枚拾い上げて優しげな笑みを浮かべた。昭俊は微笑ましい気持ちになりながらふたりのそばを通り過ぎた。
後ろで、「ジュン」と言う男の声が聞こえた。次いで、「うん」と返事をする女の声がした。
似合わない名前だと思った。その姿を目にし、声を耳にしたのは一瞬だったが、その名は妙にアンバランスな印象を与えた。
――セイジロウさん、見て。
女が口にしたその名前は聞いたことがあった。野島屋旅館の次男と同じだ。野島の――。
その瞬間、心に水滴が落ち、波紋を広げた。それまで気づかないふりをしていた猜疑心をようやく自覚したのだ。
昭俊は振り返った。手を繋いだふたりの後ろ姿は少しずつ小さくなっていき、やがて見えなくなった。
あ、と隣から聞こえた声で昭俊は我に返った。
葬場の出入り口からひとりの参列者が姿を現すのが見えた。それに続いてぞろぞろと出てきた多くの人々が駐車場の暗闇に紛れていく。旅館の関係者をはじめとする様々な人間が参列しているのだろう。中には書道連盟の面々もいるかもしれない。
なにげなく隣を見下ろす。吐き出されてくる人の流れを呆然と眺めている潤が、ふと両手を合わせて俯いた。長いことそのまま沈黙したあと、彼女はおもむろに顔を上げ、手を下ろした。無言を貫く潤に「帰りますか」と声をかけてみると、彼女は諦めたように「はい」と小さく返事をした。
帰りの車でもほとんど喋らない潤だったが、自宅に戻り、『虚往実帰』の部屋に入ったとたん、硬直した声を出した。
「昭俊さん、言いましたよね。髪を切るときは教えてくださいって」
唐突な言葉に一瞬思考が止まる。だがすぐに、東京に行く前日に風呂でそのようなことを口走ったと思い出し、昭俊は返事の代わりに潤の瞳を見つめた。
彼女は決意のまなざしとともに、ひとつの要求を口にした。
「切ってくれませんか……私の髪」
通夜式の開始時間を三十分過ぎても中に入らずにそうしている彼女を、昭俊はいったん車に戻らないかと誘った。しかし、魂を盗られたような生気のない表情で首を横に振る彼女にそれ以上催促などできるはずもなく、その肩を静かに抱いた。
昨日の潤の様子を思い返すと、本当に野島稔の死を伝えてよかったのかと自問したくなる。
それを知らせた瞬間、急激に目前に現れた容赦のない事実に頭より先に心がひどく反応してしまったようで、彼女は悲痛に顔を歪めるやいなや命をすり減らすように慟哭した。それからしばらく、すっかり目を赤く腫らして息を乱す彼女を抱きしめてベッドに横たわり、その心が落ち着きを取り戻すのを待ってから、葬儀に参加する意思を示すも喪服など野島家に取りに帰るのは不可能だと肩を落とす彼女のため買い物に出た。
今日は午後六時の開式時刻に間に合うよう東京を出発し、昭俊の自宅に帰って支度を済ませてから車でここまで来た。そうして今に至る。
闇をぼんやりと照らす最期の灯火のような葬儀場の明かりを眺めながら、三年前の父の死を思う。
心筋梗塞だった。今は使っていないかつての父の“籠もり部屋”で、ひとり倒れているところを駐在所勤務の警察官に発見された。「郵便受けに新聞が溜まっている」、と匿名で通報があったそうだ。玄関は閉まっていたが裏口は開いており、警察官はそこから入ることができたという。
そのとき、昭俊は東京の自宅にいた。筆を洗い、穂先を整え、筆吊りに掛けたところで、スマートフォンが鳴った。知らない番号からの電話だったが、市外局番で故郷の町だとわかった。出ると、「今すぐお父様に連絡をしてください」と女性の声が聞こえた。感情を抑えた冷たい声だった。名乗りもせずにそれだけ言われ、いたずらかと思ったが、妙に胸騒ぎがして実家に電話をかけた。父は出なかった。
その後、警察からの電話で父の死を知った。
父と息子は、互いにひとりでその瞬間を迎えた。驚く暇も、別れを惜しむ暇も与えられず。いや、父は驚いたかもしれないし、別れを惜しんだかもしれない。孤独な男たちにそれは静かにふりかかり、息子はひとりきりになった。
父を送り出すため果たすべき務めを果たし、過ごすべき毎日を淡々と過ごし、忌明けを迎えた頃、ふと父の最期を間接的に知らせてきた女性の存在を思い出した。
着信履歴に残っていた固定電話の番号にかけてみたが、留守番電話の案内が不在を示した。伝言を残すにもどう説明すればいいのかわからず、かけ直すことにした。翌日、翌々日と数回かけて、ようやく繋がった。
聞こえてきたのは、かすかに冷たさを纏う透きとおった女性の声――「野島でございます」。
藤田秋三の息子だと昭俊が名乗ると、返されたのは沈黙だった。なにか言わねばと思い、何度も電話してしまったことを謝罪すれば、女性も仕事で家を空けることが多くなかなか応答できなかったのだと詫びた。「警察に通報したのはあなたですか」と尋ねると、女性はまた黙ってしまった。
その妙な間が、それまで考えつきもしなかった疑問を次々に湧きあがらせた。なぜ自分の携帯番号を知っていたのか。なぜ父の異変に気づいたのか。生垣に囲まれて表からは見えにくい玄関の郵便受けに新聞が溜まっていると、なぜわかったのか。
父が死んだ瞬間、父のそばにいたのか――。飲み込んだ問いを、昭俊が最後まで口にすることはなかった。母は昭俊が高校一年の頃に離婚して家を出ていたから、その後に父が誰とどのような関係を持とうと首を突っ込むことではないと思って生きてきたし、父のほうも、そういう相手がいたとしてわざわざ口に出す男ではなかった。
それが本当に母と別れたあとの関係だったのか、そもそも関係などなかったのか、もう父に直接訊く術はない。そういう意味では、父は秘密を墓場まで持っていくことに成功したのだろう。父から真実を知らされない以上、野島という名前への不信感にも気づかないふりをするしかなかった。
その電話から四ヶ月ほど過ぎ、東京から完全にこの地に戻った昭俊は、久しぶりに竹林の散策道を歩いた。紅葉の見頃は終わりを迎えており、竹に囲まれた木々は冬支度を始め、紅く染まった葉をひらりひらりと石畳に落としていた。
前方から、恋人同士らしき男女がゆったりとした足取りで歩いてきた。どうやら男のほうが女の歩幅に合わせているようだった。女はふいにしゃがみ込むと、紅葉を一枚拾い上げて優しげな笑みを浮かべた。昭俊は微笑ましい気持ちになりながらふたりのそばを通り過ぎた。
後ろで、「ジュン」と言う男の声が聞こえた。次いで、「うん」と返事をする女の声がした。
似合わない名前だと思った。その姿を目にし、声を耳にしたのは一瞬だったが、その名は妙にアンバランスな印象を与えた。
――セイジロウさん、見て。
女が口にしたその名前は聞いたことがあった。野島屋旅館の次男と同じだ。野島の――。
その瞬間、心に水滴が落ち、波紋を広げた。それまで気づかないふりをしていた猜疑心をようやく自覚したのだ。
昭俊は振り返った。手を繋いだふたりの後ろ姿は少しずつ小さくなっていき、やがて見えなくなった。
あ、と隣から聞こえた声で昭俊は我に返った。
葬場の出入り口からひとりの参列者が姿を現すのが見えた。それに続いてぞろぞろと出てきた多くの人々が駐車場の暗闇に紛れていく。旅館の関係者をはじめとする様々な人間が参列しているのだろう。中には書道連盟の面々もいるかもしれない。
なにげなく隣を見下ろす。吐き出されてくる人の流れを呆然と眺めている潤が、ふと両手を合わせて俯いた。長いことそのまま沈黙したあと、彼女はおもむろに顔を上げ、手を下ろした。無言を貫く潤に「帰りますか」と声をかけてみると、彼女は諦めたように「はい」と小さく返事をした。
帰りの車でもほとんど喋らない潤だったが、自宅に戻り、『虚往実帰』の部屋に入ったとたん、硬直した声を出した。
「昭俊さん、言いましたよね。髪を切るときは教えてくださいって」
唐突な言葉に一瞬思考が止まる。だがすぐに、東京に行く前日に風呂でそのようなことを口走ったと思い出し、昭俊は返事の代わりに潤の瞳を見つめた。
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