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第二部
87.決意の夜(前編)
しおりを挟むアレクシスがリアムから決闘を申し込まれたのと同じころ、エリスは帝国ホテルの一室の窓から、賑わい始めた朝の景色を見下ろしていた。
けれどその瞳に映るのは帝都の街並みではなく、昨夜のジークフリートとのやり取りだった。
◆
昨夜のこと――目を覚ましたエリスは、ジークフリートからそれまでの状況を一通り説明された後、このように切り出された。
「実は数日前から帝国宮廷内で、とある噂が流れていると部下から報告を受けてね。それについて、君に伝えておきたいんだ」
「噂、ですか?」
「ああ。君についての不名誉な噂だよ。シオンは何も知らない様子だったから、君の耳にも入っていないだろう。アレクシスが帰ってくる前に、知っておいた方がいい」
そうして説明された噂の内容は、『自分がアレクシス以外の男の子供を身ごもった』という、到底信じられないものだった。
ジークフリートは、顔を青ざめるエリスにこう続けた。
「噂を流したのは、リアム・ルクレールで間違いないだろうね。君の懐妊について知っていたこともそうだけど、オリビア嬢曰く、彼はアレクシスに複雑な感情を抱いていたようだから。昼間の事件は、流した噂を『既成事実』にするためのものだったと考えれば、つじつまが合う」
「既成事実……とは、どういう――」
「つまりね、彼は君のお腹の子供を、自分の子に仕立て上げるつもりだったんだよ。君と二人きりで休憩室に入るところを第三者に目撃させれば、噂の裏付けになるだろう? 皇子妃が夫の友人と――だなんて、スキャンダルどころの騒ぎじゃないからね。彼はそうまでして、君たち二人の仲を引き裂きたかったんだ」
「――っ、そんな……」
「ああ、でも安心して。噂の方は、クロヴィス殿下が動いてくれて鎮火したようだから。――とはいえ、一度立った噂は完全には消えないからね。アレクシスの立ち回り次第だけど、君はこれからしばらく、苦しい立場に置かれるかもしれないな」
「……っ」
確かにエリスは、リアム本人から聞かされて知っていた。
オリビアの火傷の責任が少なからずアレクシスにあることや、その火傷の痕のせいでオリビアが遠方に嫁がねばならなくなったことを。
そのせいでリアムは深く思い悩み、オリビアをアレクシスの測妃にしてほしいと願い出てきたことを。
――その苦しみが恨みに変わったとしても、何ら不思議ではない。
(どうして気付かなかったのかしら。少し考えれば、わかりそうなものなのに)
お茶会でリアムは言っていた。
「オリビアは、殿下を慕っていたのです」と。
それを聞いたとき、自分はすぐに気付かねばならなかったのだ。
アレクシスの妻の座に収まった自分のことを、リアムがよく思うはずがない、と。
(……わたしの、せいだわ)
エリスの心に、罪悪感が湧き上がる。
もっと早くリアムの真意に気付けていれば、こうはならなかったのではないか、と。
あの日、体調不良を押して図書館になど出かけなければ。
お茶会になんて参加していなければ。
リアムの頼みを断るとき、もっと言葉を尽くしていれば――たとえリアムがアレクシスを恨んでいようとも、ここまでのことはしなかったかもしれない。
エリスはベッドの上で、ぎゅっと拳を握りしめる。
「申し訳ございませんでした。わたくしの不手際で、ジークフリート殿下を巻き込む形になってしまい……どう、お詫びをしたらよいのか」
他国の王太子までをも巻き込んでしまったのは、明らかな失態だ。
ここまで大事になってしまっては、アレクシスに合わせる顔がない。
――それに。
噂を聞いたアレクシスはどう思うだろうか。
アレクシスは、自分を信じてくれるだろうか。
噂は全て嘘偽りだと。根も葉もないことであると。
お腹の子供は、正真正銘アレクシスの子であると。
(もし、殿下に疑われでもしたら……)
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