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Ep.10 放課後のきつね日和(後)≪曇りのち陽炎≫
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◇
黒板の端を拭き終えたとき、拭き跡に粉の筋が薄く残っていたので指で払う。静けさに呼吸が馴染みかけた、その時——背後で、誰かが息を吸うような小さな気配がして、声が落ちた。
「なあ、雨宮、そっちもう終わった?」
「——あ、もう少しで」
反射的に返事をして振り返る。
けれど、教室の後ろにいた伏見は、怪訝そうに眉を寄せていた。
「ん?……今、俺はなんも言ってないけど?」
(……え?)
嫌な予感に、おそるおそる視線を落とす。
教卓の影から、尻尾を左右にゆらして狐が姿を現した。——伏見の守護。
橙の毛並みが夕陽をすくい、目尻が愉快そうに細まる。
『反応早いね。やった!声真似、大成功~』
(やば——)
血の気が、足の先から引いていく。
次の瞬間、肩の上でケロスケの“同化”がほどけて、するりと表に出た。小さな体が重力を取り戻して、教卓に「ぺた」と貼りつく。
『やべ、表出ちまった! 湊!』
乾いた音に、伏見の視線が動いた。驚いたように目が丸くなり、それでもすぐに焦点が定まる。
「……マジか。“持ち”だったんだ」
言い方は軽いのに、瞳の奥は冗談じゃなかった。俺の喉は乾いて、言葉がうまく並ばない。
『狐のくせに、タチ悪ぃ真似すんな!』
ケロスケが抗議すると、狐は前足をそろえて、肩をすくめるように尻尾を揺らした。
『悪気はないよ、蛙くん。ちょっとした遊び心さ。……でもさ、反応したの、君じゃなくて“ご主人”だろ?オレは好きだよ、正直なの』
口調は軽くても、声の芯に熱がある。視線が一度、俺の方に流れて、すぐに消えた。
「ごめん。こいつが悪ノリした」
伏見が、俺に頭を下げた。さらりとした謝り方で、けれど、その一礼は誠実だった。狐は『えー』と伸ばし、笑うのをやめる。それでも尻尾は、ゆっくり横に揺れていた。
「……秘密にしてほしい」
やっと出た声は、自分でも驚くほど小さかった。喉の奥がひりつく。けれど、それでも言えた。
「言うわけないだろ。俺も“持ち”だし」
伏見はほうきを逆さにして立てかけた。机の角を指で軽く叩きながら、穏やかに続けた。
「今まで隠してたってことは、雨宮なりの事情があるってことだろ。俺はそれ、壊すつもりないよ。“持ち”だからって、全部見せなきゃいけないわけでもないし、な」
「……ありがとう」
『狐のくせに、いいこと言う』
『褒め言葉として受け取っておくよ、蛙くん。アカツキって呼んでもいいよ』
アカツキとケロスケが向かい合うと、大きさの差は歴然だった。アカツキは机の上に座って余裕の目線、ケロスケは教卓の陰で「ぺた」と身を平らにしている。
火と水。熱と湿度。互いに交わらないはずのものが、不思議と反発せず、ただそこに在る。
伏見は少しだけ笑って、窓の外を見た。陽の傾きが教室の中に斜めの線を落としている。
その光がアカツキの毛に反射して、教室が少しだけ明るくなったような気がした。
(……よかった。見られても、変わらないままでいられる)
そう思えた瞬間、指先の力がようやく抜けた。
『ところで蛙くん、今日の味噌汁、出汁の引き方が良かったね。昆布、弱火でしょ?』
『わかるのかよ』
『狐は食にうるさいのさ。人の心と胃袋は近い』
『屁理屈の匂い』
「あ、君も食べるんだ」
守護生物って食事は要らないはずなのに、食い意地の張った蛙と文鳥に狐の仲間が加わって、思わず吹き出した。緊張の隙間に入り込んだ笑い。それが自分の声だと気づくまで、少し時間がかかった。喉の奥がひくりと動いて、固まっていた空気がやっと外に出た。
笑いが静まるころ、伏見がふと窓の外を見た。雲の切れ間から光が滑り落ちて、机の上を淡く照らす。その横顔だけがやけに鮮明に見えた。
「俺、雨好きだよ」
「……え?」
唐突な言葉に、頭の中が一瞬だけ白くなる。
伏見は軽く笑って、肩をすくめた。
「蛙、見たからさ。なんとなく言いたくなっただけ」
アカツキが尻尾を揺らし、ケロスケをちらりと見る。ケロスケは小さく首を傾げ、『けろ』とだけ鳴いて黙った。
「変なこと言った?」
「い、いや……」
否定しかけた言葉が喉の途中で引っかかる。窓の外はまだ晴れきらず、光が薄い。まるで空が迷っているみたいな明るさだった。
(俺もたぶん、いまこんな顔してる)
ふと、伏見がこちらを見た。目が合うと、笑みがひとつ柔らかくなる。
そういう自然な笑い方ができる人は、たぶん生き方の基準が“他人”じゃない。俺みたいに、空気を読むことでしか存在を保てない人間とは、どこか根っこの温度が違う。
「で、さ。さっきの“押しつけ掃除”、ああいうの、無理なら無理って言っていいと思う」
言われた瞬間、心臓が小さく跳ねた。軽く言った言葉なのに、図星みたいに響いて、ちょっと痛い。でも優しさであって、正しさだと分かる。
「無理って言うの、むずい」
「じゃ、練習してみる?“今日は無理です”って俺に言ってみて」
「え?いや、でもっ……」
「ほら、練習だから」
「ええっ……今日、あの、無理……です」
「はい、よくできました」
茶化すようで、笑いが残らない。言葉の奥が静かに温かかった。からかいじゃなくて、“本当にそう思ってる”声。心の奥の固まった場所を、柔らかい指先で撫でられた気がした。
(“見てみる”って、白河にも言われたしな。逃げないで、まず目を上げる)
「……あのさ」
自分でも驚くほど小さい声が出た。
「狐って、怖い?」
伏見が一瞬だけ目を見開き、それから静かに笑った。
「たぶん、怖がらせる生き物、だな。でも、怖がらせることが目的なわけじゃないと思う。アカツキは……火、だから。火って、怖いけど、光でもあるだろ」
『名言出たぞ』
『照れるねぇ、朱里くん』
ケロスケの声を無視しながら、指先が少し動いた。止めようと思ったのに、動いてしまった。
その小さな勇気を、言葉にするしかなかった。
「……触っても、いい?」
伏見の眉がわずかに動く。けれど、拒絶の影はなかった。彼は少し顎を引いて、「大丈夫。噛まないよ、こいつは」と言った。
アカツキは尻尾の先で小さく空気を払ってから、机の縁まで静かに歩み出る。橙の目が細くなり、前足をそろえて頭を下げた。光が毛並みの間で溶けて、息をするみたいに揺れている。
『礼儀正しい子は、好きだよ。ここ』
「ありがとう」と言って、そっと毛並みに触れる。
思っていたより柔らかいのに、指の腹のところで薄い熱の膜みたいな、僅かな温度の差を感じた。静電気の直前で止まったような、触れそうで触れない温度——確かに“生きている熱”。
『やけどすんなよ、湊』
(しないよ……あったかい)
胸の鼓動が一度、深く落ち着く。怖い、の中に“光”が確かに混ざっている感じで、それは“信じてもいいかもしれない”という感情に、よく似ていた。
「平気?」
「うん。……あったかい」
「だろ。火の気、あるから」
アカツキは満足そうに瞬きをして、音も立てずに身を引く。触れていた指先をそっと握り締めると、指先に残った温度が、ゆっくりと肌の内側へ沈んでいくようだった。
あれはたぶん、ただの熱じゃない。 “人に触れてもらう”という感覚を、思い出させる熱だ。俺が忘れていたもの。
「あ、……朱里って呼んでいい?」
気づけば口が勝手に動いていた。距離を測るのが苦手なくせに、一歩踏み出すみたいに。
伏見は少し驚いて、それから笑った。
「いいよ。じゃ、俺は湊って呼んでいい?」
「……うん」
“湊”と呼ばれる感触は、“雨宮”より柔らかくて近い。背骨の真ん中に刺さらず、肩のうしろで受け止められる感じだ。誰かに名前を正しく呼ばれるだけで、心ってこんなふうに体温を持つんだ。
『湊、成長』
(やめろ実況)
ケロスケが小さく笑って、アカツキが尻尾を一振りする。その瞬間、教室の光がひときわ明るく見えた。
火と水。陽と陰。
違うはずのものが、いまだけ同じ温度で呼吸している。——そのことが、妙に心地よかった。
◇
掃除は、二人でやればすぐ終わった。ゴミ袋の口を縛って、校舎裏の集積所へ運ぶ。
戻ってきた教室は、もう薄暗い。夕陽がガラスに跳ね返って、机の天板に細い光の帯が並んでいる。
「——で、さ。アカツキ」
朱里が小声で呼ぶと、狐は机からひらりと降り、足音もなく廊下へ出た。
『先に行ってる。君らの空気、少し湿っぽいからね』
『余計なお世話だ』
『嫌いじゃないよ?』
ケロスケが小さく『ふん』と鼻を鳴らした。でも、吸盤の指先はさっきより軽い。
静かになった教室に、外の風の音だけが入ってくる。朱里がモップを用具入れに立てかけながら、ぽつりと言った。
「……なんか、静かだな」
「アカツキがいないからじゃない?」
「そうかもな。あいつ、しゃべると空気が騒がしいんだ」
朱里が笑う。その笑い声が机の並びに反射して、少しだけ柔らかい光みたいに広がった。
「でも、たまにはこういうのも悪くない」
その“こういうの”の意味を測りかけて、結局、頷くだけにした。言葉よりも黙っていた方が、今はうまく伝わる気がしたから。
朱里が窓際を見上げ、わずかに目を細める。外の空は、夕方の光を抱えたまま色を失いかけていた。
「明日、曇りだと思う」
「へえ。なんか、それっぽい空だな」
軽く交わしただけの言葉なのに、不思議と長く残る。窓の外の灰色が、二人の間の沈黙までやさしく包んでいくようだった。
朱里は鞄を肩に掛け、振り返る。
「じゃ、またな、湊。俺、今日コンビニ寄って帰る」
「うん。……ありがと、手伝い」
「礼はいいって。俺も掃除、嫌いじゃないし」
ドアの前で振り返って、朱里は片手を上げた。その後ろで、アカツキの尻尾が薄闇にオレンジの揺れを残して消えた。
また、教室にひとりになる。
雑巾をバケツに戻すと、ちゃぷりと円が広がった。窓を少し開けると、曇り空の向こうから温い風が入り込む。湿度はそれほど高くない。雨の匂いもない。
けれど、どこかで夕飯の準備が始まった気配と、コンロの小さな火の音を、耳の奥が勝手に思い描いた。
『なぁ湊。びっくりしたか?』
(……した。でも、逃げなかった)
『えらい』
(ありがとう)
バケツを持ち上げる。水面が小さく揺れて、蛍光灯の光が波打った。その揺れは、まだ心臓の奥で続いている鼓動と似ていた。
(……誰かに名前、呼ばれたの、久しぶりだったな)
肩の上で、ケロスケが小さく『けろ』と鳴く。
(初めて、“名前で呼ぶ友達”が出来たのかもしれない。……いや、まだ“友達”って言っていいのか分かんないけど)
水の中の光が、さっきの“火”と少し似ている気がした。怖い。でも、温かい。心の奥に残るその矛盾が、妙に心地良い。そんなふうに思えた。
「……雨、じゃないのに」
ケロスケがもう一度『けろ』と短く鳴いた。
帰り道、歩幅をひとつだけ広げてみようと思う。火は怖い。でも、光でもある。
――そんなふうに思えた、連休明けの夕方だった。
黒板の端を拭き終えたとき、拭き跡に粉の筋が薄く残っていたので指で払う。静けさに呼吸が馴染みかけた、その時——背後で、誰かが息を吸うような小さな気配がして、声が落ちた。
「なあ、雨宮、そっちもう終わった?」
「——あ、もう少しで」
反射的に返事をして振り返る。
けれど、教室の後ろにいた伏見は、怪訝そうに眉を寄せていた。
「ん?……今、俺はなんも言ってないけど?」
(……え?)
嫌な予感に、おそるおそる視線を落とす。
教卓の影から、尻尾を左右にゆらして狐が姿を現した。——伏見の守護。
橙の毛並みが夕陽をすくい、目尻が愉快そうに細まる。
『反応早いね。やった!声真似、大成功~』
(やば——)
血の気が、足の先から引いていく。
次の瞬間、肩の上でケロスケの“同化”がほどけて、するりと表に出た。小さな体が重力を取り戻して、教卓に「ぺた」と貼りつく。
『やべ、表出ちまった! 湊!』
乾いた音に、伏見の視線が動いた。驚いたように目が丸くなり、それでもすぐに焦点が定まる。
「……マジか。“持ち”だったんだ」
言い方は軽いのに、瞳の奥は冗談じゃなかった。俺の喉は乾いて、言葉がうまく並ばない。
『狐のくせに、タチ悪ぃ真似すんな!』
ケロスケが抗議すると、狐は前足をそろえて、肩をすくめるように尻尾を揺らした。
『悪気はないよ、蛙くん。ちょっとした遊び心さ。……でもさ、反応したの、君じゃなくて“ご主人”だろ?オレは好きだよ、正直なの』
口調は軽くても、声の芯に熱がある。視線が一度、俺の方に流れて、すぐに消えた。
「ごめん。こいつが悪ノリした」
伏見が、俺に頭を下げた。さらりとした謝り方で、けれど、その一礼は誠実だった。狐は『えー』と伸ばし、笑うのをやめる。それでも尻尾は、ゆっくり横に揺れていた。
「……秘密にしてほしい」
やっと出た声は、自分でも驚くほど小さかった。喉の奥がひりつく。けれど、それでも言えた。
「言うわけないだろ。俺も“持ち”だし」
伏見はほうきを逆さにして立てかけた。机の角を指で軽く叩きながら、穏やかに続けた。
「今まで隠してたってことは、雨宮なりの事情があるってことだろ。俺はそれ、壊すつもりないよ。“持ち”だからって、全部見せなきゃいけないわけでもないし、な」
「……ありがとう」
『狐のくせに、いいこと言う』
『褒め言葉として受け取っておくよ、蛙くん。アカツキって呼んでもいいよ』
アカツキとケロスケが向かい合うと、大きさの差は歴然だった。アカツキは机の上に座って余裕の目線、ケロスケは教卓の陰で「ぺた」と身を平らにしている。
火と水。熱と湿度。互いに交わらないはずのものが、不思議と反発せず、ただそこに在る。
伏見は少しだけ笑って、窓の外を見た。陽の傾きが教室の中に斜めの線を落としている。
その光がアカツキの毛に反射して、教室が少しだけ明るくなったような気がした。
(……よかった。見られても、変わらないままでいられる)
そう思えた瞬間、指先の力がようやく抜けた。
『ところで蛙くん、今日の味噌汁、出汁の引き方が良かったね。昆布、弱火でしょ?』
『わかるのかよ』
『狐は食にうるさいのさ。人の心と胃袋は近い』
『屁理屈の匂い』
「あ、君も食べるんだ」
守護生物って食事は要らないはずなのに、食い意地の張った蛙と文鳥に狐の仲間が加わって、思わず吹き出した。緊張の隙間に入り込んだ笑い。それが自分の声だと気づくまで、少し時間がかかった。喉の奥がひくりと動いて、固まっていた空気がやっと外に出た。
笑いが静まるころ、伏見がふと窓の外を見た。雲の切れ間から光が滑り落ちて、机の上を淡く照らす。その横顔だけがやけに鮮明に見えた。
「俺、雨好きだよ」
「……え?」
唐突な言葉に、頭の中が一瞬だけ白くなる。
伏見は軽く笑って、肩をすくめた。
「蛙、見たからさ。なんとなく言いたくなっただけ」
アカツキが尻尾を揺らし、ケロスケをちらりと見る。ケロスケは小さく首を傾げ、『けろ』とだけ鳴いて黙った。
「変なこと言った?」
「い、いや……」
否定しかけた言葉が喉の途中で引っかかる。窓の外はまだ晴れきらず、光が薄い。まるで空が迷っているみたいな明るさだった。
(俺もたぶん、いまこんな顔してる)
ふと、伏見がこちらを見た。目が合うと、笑みがひとつ柔らかくなる。
そういう自然な笑い方ができる人は、たぶん生き方の基準が“他人”じゃない。俺みたいに、空気を読むことでしか存在を保てない人間とは、どこか根っこの温度が違う。
「で、さ。さっきの“押しつけ掃除”、ああいうの、無理なら無理って言っていいと思う」
言われた瞬間、心臓が小さく跳ねた。軽く言った言葉なのに、図星みたいに響いて、ちょっと痛い。でも優しさであって、正しさだと分かる。
「無理って言うの、むずい」
「じゃ、練習してみる?“今日は無理です”って俺に言ってみて」
「え?いや、でもっ……」
「ほら、練習だから」
「ええっ……今日、あの、無理……です」
「はい、よくできました」
茶化すようで、笑いが残らない。言葉の奥が静かに温かかった。からかいじゃなくて、“本当にそう思ってる”声。心の奥の固まった場所を、柔らかい指先で撫でられた気がした。
(“見てみる”って、白河にも言われたしな。逃げないで、まず目を上げる)
「……あのさ」
自分でも驚くほど小さい声が出た。
「狐って、怖い?」
伏見が一瞬だけ目を見開き、それから静かに笑った。
「たぶん、怖がらせる生き物、だな。でも、怖がらせることが目的なわけじゃないと思う。アカツキは……火、だから。火って、怖いけど、光でもあるだろ」
『名言出たぞ』
『照れるねぇ、朱里くん』
ケロスケの声を無視しながら、指先が少し動いた。止めようと思ったのに、動いてしまった。
その小さな勇気を、言葉にするしかなかった。
「……触っても、いい?」
伏見の眉がわずかに動く。けれど、拒絶の影はなかった。彼は少し顎を引いて、「大丈夫。噛まないよ、こいつは」と言った。
アカツキは尻尾の先で小さく空気を払ってから、机の縁まで静かに歩み出る。橙の目が細くなり、前足をそろえて頭を下げた。光が毛並みの間で溶けて、息をするみたいに揺れている。
『礼儀正しい子は、好きだよ。ここ』
「ありがとう」と言って、そっと毛並みに触れる。
思っていたより柔らかいのに、指の腹のところで薄い熱の膜みたいな、僅かな温度の差を感じた。静電気の直前で止まったような、触れそうで触れない温度——確かに“生きている熱”。
『やけどすんなよ、湊』
(しないよ……あったかい)
胸の鼓動が一度、深く落ち着く。怖い、の中に“光”が確かに混ざっている感じで、それは“信じてもいいかもしれない”という感情に、よく似ていた。
「平気?」
「うん。……あったかい」
「だろ。火の気、あるから」
アカツキは満足そうに瞬きをして、音も立てずに身を引く。触れていた指先をそっと握り締めると、指先に残った温度が、ゆっくりと肌の内側へ沈んでいくようだった。
あれはたぶん、ただの熱じゃない。 “人に触れてもらう”という感覚を、思い出させる熱だ。俺が忘れていたもの。
「あ、……朱里って呼んでいい?」
気づけば口が勝手に動いていた。距離を測るのが苦手なくせに、一歩踏み出すみたいに。
伏見は少し驚いて、それから笑った。
「いいよ。じゃ、俺は湊って呼んでいい?」
「……うん」
“湊”と呼ばれる感触は、“雨宮”より柔らかくて近い。背骨の真ん中に刺さらず、肩のうしろで受け止められる感じだ。誰かに名前を正しく呼ばれるだけで、心ってこんなふうに体温を持つんだ。
『湊、成長』
(やめろ実況)
ケロスケが小さく笑って、アカツキが尻尾を一振りする。その瞬間、教室の光がひときわ明るく見えた。
火と水。陽と陰。
違うはずのものが、いまだけ同じ温度で呼吸している。——そのことが、妙に心地よかった。
◇
掃除は、二人でやればすぐ終わった。ゴミ袋の口を縛って、校舎裏の集積所へ運ぶ。
戻ってきた教室は、もう薄暗い。夕陽がガラスに跳ね返って、机の天板に細い光の帯が並んでいる。
「——で、さ。アカツキ」
朱里が小声で呼ぶと、狐は机からひらりと降り、足音もなく廊下へ出た。
『先に行ってる。君らの空気、少し湿っぽいからね』
『余計なお世話だ』
『嫌いじゃないよ?』
ケロスケが小さく『ふん』と鼻を鳴らした。でも、吸盤の指先はさっきより軽い。
静かになった教室に、外の風の音だけが入ってくる。朱里がモップを用具入れに立てかけながら、ぽつりと言った。
「……なんか、静かだな」
「アカツキがいないからじゃない?」
「そうかもな。あいつ、しゃべると空気が騒がしいんだ」
朱里が笑う。その笑い声が机の並びに反射して、少しだけ柔らかい光みたいに広がった。
「でも、たまにはこういうのも悪くない」
その“こういうの”の意味を測りかけて、結局、頷くだけにした。言葉よりも黙っていた方が、今はうまく伝わる気がしたから。
朱里が窓際を見上げ、わずかに目を細める。外の空は、夕方の光を抱えたまま色を失いかけていた。
「明日、曇りだと思う」
「へえ。なんか、それっぽい空だな」
軽く交わしただけの言葉なのに、不思議と長く残る。窓の外の灰色が、二人の間の沈黙までやさしく包んでいくようだった。
朱里は鞄を肩に掛け、振り返る。
「じゃ、またな、湊。俺、今日コンビニ寄って帰る」
「うん。……ありがと、手伝い」
「礼はいいって。俺も掃除、嫌いじゃないし」
ドアの前で振り返って、朱里は片手を上げた。その後ろで、アカツキの尻尾が薄闇にオレンジの揺れを残して消えた。
また、教室にひとりになる。
雑巾をバケツに戻すと、ちゃぷりと円が広がった。窓を少し開けると、曇り空の向こうから温い風が入り込む。湿度はそれほど高くない。雨の匂いもない。
けれど、どこかで夕飯の準備が始まった気配と、コンロの小さな火の音を、耳の奥が勝手に思い描いた。
『なぁ湊。びっくりしたか?』
(……した。でも、逃げなかった)
『えらい』
(ありがとう)
バケツを持ち上げる。水面が小さく揺れて、蛍光灯の光が波打った。その揺れは、まだ心臓の奥で続いている鼓動と似ていた。
(……誰かに名前、呼ばれたの、久しぶりだったな)
肩の上で、ケロスケが小さく『けろ』と鳴く。
(初めて、“名前で呼ぶ友達”が出来たのかもしれない。……いや、まだ“友達”って言っていいのか分かんないけど)
水の中の光が、さっきの“火”と少し似ている気がした。怖い。でも、温かい。心の奥に残るその矛盾が、妙に心地良い。そんなふうに思えた。
「……雨、じゃないのに」
ケロスケがもう一度『けろ』と短く鳴いた。
帰り道、歩幅をひとつだけ広げてみようと思う。火は怖い。でも、光でもある。
――そんなふうに思えた、連休明けの夕方だった。
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