蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.12 昼下がりのスクリーンライト(後)≪曇り≫

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 ◇
 
 両手いっぱいにノート束を抱えると、紙が重さの割に音を立てず、腕の中の静けさだけが増えていく。
 放課後の北館廊下は人が少ない。ワックスの光沢が細い帯になって床を滑り、窓ガラスの向こうでは曇り空が広がって、グラウンドの砂が鈍く光っていた。
 
(朱里と名前を呼び合うようになった。でも、それだけで何か変わったのか?)

 白河に「やわらかくなった」と言われて嬉しかった。けど、“嬉しい”ってたぶん、目立つの反対側にある感情だ。明るい側に立つほど、俺はちょっと不安になる。
 成長した気がする瞬間ほど、足元はおぼつかない。できる人と話しただけで、急に自分まで何かできるみたいな顔をしちゃいけない。浮かれないように、落ち着け。歩幅はいつも通り——。

「……お、重い」

 ようやくたどり着いた生物準備室の扉の前で止まる。ノブは右。両手は塞がっている。片腕に持ち替えようとして、ノートの角が少しずり落ちた。肘の内側に紙縁の角が当たって、ちくりと痛む。

(あー、やっぱこういうとき不器用でほんと嫌になる)


「ほら」

 背中の方から声がした。軽い靴音がキュッと鳴って、ノブが内側へ回される。扉が小さく開いた。先に見えたのは手の甲で、次に顔。朱里が、当然みたいな顔で立っていた。準備室の中から、アルコールと理科薬品の薄い匂いが流れてくる。

「相変わらず“お人好し”だな」

『嫌いじゃないけど、ね』と、肩の上の狐——アカツキが目だけ笑う。尻尾の先が、空気の温度を探るみたいにふわりと揺れた。

「……ありがとう」
「半分持つ。落とすと先生の逆鱗だぞ」

 配慮の速さが、笑いの速さと同じだ。重さが半分になって、腕にじわっと血が戻ってくる。助かった安堵と気恥ずかしさが、喉の奥でほろ苦く混ざる。

『タイミング良すぎ。もはや狐の嗅覚』とケロスケ。

 準備室の中はひんやりとして、金属棚とホルマリンの匂いが漂っている。ノートを置いて扉を閉めると、さっきより廊下の光が薄く見えた。雲が重なり、ガラス越しの輪郭が少し落ちる。

「そういやさ」

 朱里がスマホを片手に持ち直す。画面の光が夕方の陽に反射し、指先を透かした。

「連絡先、まだ聞いてなかった。教えて」
「……あ、うん」

 断る理由はない。なのに、スマホを取り出す手が、自分のものじゃないみたいにぎこちない。ポケットの内側で少し滑って落としそうになる。“何でもない顔”を作るのに、顔の筋肉への意識が全て注がれていく感じ。

 画面に廊下の白が映り込み、指紋が淡く伸びる。QRコードを出して、朱里が「ピッ」と読み込む。それだけの音が、やけに大きく響いた気がした。

「お、来た。——“雨宮 湊”って、フルネームのまま?」
「あ、普段あんま使わないから、そのままになってる」
「そっか。じゃ、俺、AKARIね」

 俺の画面に“AKARI”の文字と、アイコンは狐のイラスト。自分の表示名を慌てて直す。えっと、こういうのは——。

「“雨宮”で、いいかな」
「そっち? 苗字?」
「……うん。慣れてるから」
「了解、雨宮」
「下の名前の方が良かったかな?」
「慣れてないのは、徐々に、で」

 “登録完了”の小さな電子音が鳴って、それが胸の奥にまで響いた気がした。“湊”で呼ばれるのと、“雨宮”で表示されるのと。距離が似ているようで違うのが、ちょっとおかしい。光が揺れるたび、画面に映る自分の名前が、ほんの少し滲んで見えた。

『初心者、丸出し』とケロスケからは皮肉が飛ぶ。

「ほっといて。母親と白河と委員会連絡くらいでしか使ってないんだよ」

「こういうのはさ、用がなくても使っていいんだよ」

 朱里の親指が画面を弾く。すぐに俺のスマホが小さく震えた。

 《新着:“よろしく🦊”》

 通知音が、廊下の空気に小さく溶ける。
「誰かと繋がるって、悪くないっしょ」と朱里が画面から目線を上げて笑う。
 返事の言葉を探しながら指が彷徨う。

 ちょうどその時、廊下の奥で靴底が床を踏む規則正しい音が耳に届く。近づいて、すれ違って、遠ざかっていく。風がほんのわずかに背中を撫でた。視界に映ったのは通り過ぎていく足元だけ。顔は上げなかった。上げないのに、微かに残るのは新緑の香り。そして温度だけが一瞬変わった。
 隣で朱里がふっと顔を上げ、音の去っていった方へ視線を送る。目の端と口元が、ごく小さく揺らいだ。冗談の笑みじゃなくて、温度を測るみたいな、微かな表情の移ろい。

 遅れて俺も廊下の奥を見る——もう、誰もいなかった。

「じゃ、またあとで。——あ、スタンプ押しといた」
「うん。……ありがとな、さっきの」
「どういたしまして」

 朱里が手をひらひらさせる。アカツキが尻尾で空気を払うと、二人の背中が角を曲がって消えた。
 小さな狐の“よろしく”が画面で笑っている。その下に、自分の指紋がぼんやり残っていた。

 ◇

 玄関を開けると、空気がいつもより乾いていた。
 二階建てのアパート。玄関は一階で、そこから二階へまっすぐ伸びる木の段板。手すりを掴んで上がるたび、足音が軽く鳴って、二階の小さなホールに抜けた。右にリビング、奥が浴室と洗面、左がそれぞれの洋室。二人暮らしの2LDKだ。

 買い物袋をカウンターに置くと、リビングのソファから「おかえり」と眠たげな声。母は夜勤明けでブランケットに半分埋もれている。電子レンジは「12:00」のまま。あ、朝にコンセント抜いたんだった——と気づく。

「ただいま。冷蔵庫入れとくね」
「ありがと。やっておくから着替えておいで」
「うん。後で下ごしらえだけしとく」

 袋からミネラルウォーターを一本抜いて、残りは母に託した。キャップをひねると乾いた音がして、水が喉を通っていく。その涼しさに、今日一日のざらつきが少し剥がれた気がした。

 自室は六畳。ドアを開けると、閉じ込められた一日の空気がふっと動いた。少しこもった紙と木の匂い。
 窓を開けると、宵の風がカーテンを膨らませて部屋を通り抜ける。昼の熱をがほどけて空気が入れ替わっていく。
 ベッドと小さな勉強机、本と教科書が積まれたスチール棚。ドアフックにはトートバッグ。白河にもらったケロスケの分身が、風に吹かれて小さく揺れた。

 ベッド端に腰を下ろすと、制服のポケットからスマホを出した。ペットボトルの水をもう一口、喉へ流し込む。肺の中の空気が新しくなる感覚が広がり、そのまま、深呼吸をひとつ。
 ようやく——家の空気に戻った気がした。学校で張っていた糸が、音を立てずにほどけていく。
 親指が、黒い画面の上で小さく止まる。

『成長ってのはさ、坂道みたいなもんだよ』
 ケロスケが机の端で肘(前脚)をつく。

『上がってる途中でちょっと滑るの、それって普通』

「……坂道、苦手なんだけど」

『じゃあ、カエルらしく跳ねろ』

 思わず笑う。少しだけ。親指をスライドさせて画面を起こす。

 《今日ありがとう。助かった》

 送信後、すぐに既読がつく。“……”が数秒灯り、小さな狐のスタンプと、《どういたしまして》が並んだ。画面の光が部屋を一瞬だけ照らす。
 怖くない光。目に痛くない火。次の通知が来ない沈黙も、ちょうどいい。

(“怖くない光”って、こういうのかもしれない。少しは変われるかな、俺も)

 窓の外はまだ降っていない。けれど、遠くの風が湿っている匂いがする。カーテンが小さく揺れた。 

『まず水分な』
「うるさい保健係だな」
『オレ、カエルだし』

 ハンガーに制服を掛けて、Tシャツに着替える。デスクの端にスマホを置いて、ミネラルウォーターをもうひと口含んだ。画面は暗いままだが、通知のない黒は嫌いじゃない。けど、今日はもう一度だけ、さっきの狐と「どういたしまして」を見てから、そっと伏せた。

 まだ降らない。けれど、窓の向こうのどこかで、小さな光がついたり消えたりしている気がした。

「……雨、じゃないのに」

 肩の上でケロスケが短く『けろ』と鳴く。エプロンがドアフックでゆらりと揺れた。
 シャワーにするか、下ごしらえを先にするか——そんな他愛もない選択の前で、呼吸は昨日よりほんの少しだけ、楽だった。
 

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