蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.13 母の日の午後、雨のにおい(前)≪曇りのち雨≫

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 昼のチャイムの余韻が、駅ビルの高い天井に薄く残っていた。
 タイムカードを押すと、スタンプの黒が紙に沈む音がやけに静かに響く。エプロンを外して畳み、ロッカーに収める。指先に紙の粉が少し残っていて、乾いた匂いがついている。カートの車輪がどこかで鳴って、時間がまた整う気がした。ここにいると、体の中の秒針が正しく戻っていく。

『おつかれ、職人』
「ありがと。……今日は寄り道する」

 ロッカーを閉め、フロアを抜けて一階へ向かう。吹き抜けの風は少し冷たく、昼のざわめきが肌を撫でていく。

 先週、見た花屋の前で足が止まった。透明ケースの内側に、細かい結露がきらめく。赤いカーネーションの群れが光を拾って、昼の色を少し柔らかくしていた。

『前にも見てただろ、ここ』
「うん。決めてきた」

 店内は“母の日”の札でいっぱいだ。ラッピング用紙のこすれる音、束ねた茎がバケツの水に触れる微かな音、花の青さと薄いワックス紙の匂いが混ざって、胸の奥までその瑞々しさが届くようだ。店員の指先がリボンをひねるたび、きゅっと花開くブーケの彩りが弾ける。

 スマホのメモを開いて、昨夜、眠気の端で打った走り書きに目を通す。
 ——赤:母への愛・感謝。
 ——ピンク:感謝・上品な美しさ。

 どちらも真っ直ぐで、どちらも外したくない。
 棚の手前で少し迷って、赤を主に、淡いピンクを添えた小さな花束に決めた。派手すぎない、でも言い訳はしない感じ。
 店員に「ラッピングは、シンプルでお願いします」とだけ伝える。店員の手が迷いなく動く。リボンは白にした。包みを受け取る掌に、茎の冷たさが短く刺さる。鼓動の熱と並んで、温度が一瞬きれいに二つに割れた。

(自分のバイト代で、誰かのために何かを買うのって、初めてだ)

 そう思った途端、胸の奥に小さな波が立った。ほんのわずかに誇らしくて、くすぐったい。財布の中の軽さが、不思議と嬉しい。この“買った”という行為が、何かを渡す前からもう少しだけ自分を大人にしている気がした。

『初・自腹感謝プロジェクト』
(言い方がなあ……)

 透明セロの内側で、細い水の粒が呼吸みたいに曇っては戻る。すこし照れくさい、けど。紙袋の持ち手が手のひらの熱で少しだけ柔らかくなって、その温度が、さっきの“冷たさ”と静かに混ざった。

(誰かのために選ぶのって、少し怖い。……でも、ちょっとだけ楽しい)

 包みの重さは軽いのに、鼓動だけは少し重たい。
 外へ出ると、空は薄い銀色で光が鈍い。ビルの縁を撫でる風が湿っていた。

 ◇

 駅ビルを出て歩き出すと、広場の風が紙袋の角を軽く押した。曇天の拡散光で、街の輪郭が少し低くなって見える。遠くのビルのガラスはぼんやりと曇り、まだ雨は降っていないのに、空の色だけが濡れている。
 横断歩道を渡り切ったところで、向かいのカフェの前に立つ人影に気づいた。

 神代 怜だ。淡グレーのカーディガンに白いTシャツ、黒いパンツがすらりとまっすぐ伸びる。片手に上品な薄い紙袋、もう片方の手でスマホを耳に当てて話している。通話が終わるタイミングで、ちょうど視線がぶつかった。
 一瞬だけ、神代の眉尻がかすかにゆるむ。驚いたような、けれどどこかで予想していたような、その曖昧な表情が目に残った。

 ほんの数秒の静止を、少し湿った風がゆるく撫でていく。アスファルトの足元から、まだ見えない“雨のにおい”だけが先に立ち上がる。心臓が一拍遅れて動いた。先週の“花屋の前”で交わした空気が、切れずに続いていたみたいな感覚。足が半歩だけ止まる。

 神代が軽く顎を引き、まっすぐにこちらを見る。その動作が、記憶の中の仕草と重なる。穏やかな笑み。でも、何故か「見つけた」と言われているような、そんなふうに見えたのは俺の気のせいだろうか。

「こんにちは」
「……こんにちは」

 口に出した瞬間、息がわずかに詰まる。声が届くまでの距離が、妙に遠くて近い。人混みの中で交わした挨拶なのに、周囲のざわめきが一瞬だけ削ぎ落とされたような、静かな間が生まれた。

 神代は少しだけ目許を緩めると、ゆったりとした歩幅でこちらへ数歩だけ近づいた。

「偶然、だね」

 その声のトーンが、“驚き”というより“確かめる”ように聞こえた。風がもう一度、二人のあいだを通り抜ける。

『逃げ道、右側』
 ケロスケが肩の上で小さく囁く。心拍が一段、上がるのが分かった。
(焦るから、ちょっと黙ってて)

 神代の目線が、俺の手元に落ちる。

「それ、今日の?」

「え?」

 紙袋の中の花を指していた。

「あ、うん。……母の日、だから」

「そっか。赤とピンク、やさしい色だね」

「……」

 言葉の選び方を探したけど、思考より先に喉が固まった。神代の目元が、ふっとやわらぐ。その穏やかさが視線の奥から届いて、反射みたいに顔を逸らした。
 風がまた湿る。遠くでタクシーのワイパーが一度だけ往復するのが目に映る。近くの金属看板に、最初の雨粒が丸い跡を作って消えた。初めの一滴。背筋がわずかに冷える。けれど、胸の奥では別の温度が上がっていく。

(偶然……だよな)

 言葉にはしない。言葉にした瞬間、何かが“始まってしまいそうだから”。

 ——「偶然も、重なるときは、不思議と重なるから」。

 前にそう言ってた神代の声が、どこかで微かに蘇った。思い出したくもないのに、耳の奥がその温度を覚えている。
 紙袋の持ち手を少し握り直す。指先に残った冷たさと鼓動の熱が、静かに溶け合っていった。

 ◇
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