蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.14 母の日の午後、雨のにおい(後)≪曇りのち雨≫

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 ◇

「……降ってきたね」

 神代が空を見上げる。つられて視線を上げると、雲の層がさらに重なり、湿った空気が肌にまとわりついた。十秒もしないうちに、ぽつ、と頬に当たる。つづけて二粒、三粒。生え際がひやりとして、袖口に丸い点が増えていく。

(……この感じ、覚えてる)

 生徒会棟の前で出会ったあの日と、同じ言葉。——同じ雨。
 
「——あっち、屋根ある」

 俺が言うより早く、神代が顎で示したのは、道路脇のバス停だった。小走りで駆けて、提げた花をひさしの内側に入れる。雨は近くの景色の輪郭をやわらげ、時刻表のアクリル板を細い糸が伝って落ち続ける。
 雨音が距離を埋める。バス停の下、半歩の間合い。足元に並ぶ水の点が、ぽつ、ぽつ、と一定の間隔で増えていく。会話より先に、雨が時間を数えていた。

「雨宮は、伏見と同じクラスだっけ」

「え? ……うん」

 クラスメイトの名前が急に出て、反応が一拍遅れる。声の調子は穏やかなのに、どこか違う気配。さり気ない会話の形をしているのに、奥にはかりの目盛りみたいな落ちつきがある。

「この前、廊下で見かけた。——楽しそうにしてたね」

「……え」

 心臓が跳ねた。廊下、スマホ、狐のスタンプ。あの瞬間が、雨の粒に混ざって立ち上がる。
『あの“気配”の主、やっぱこいつだな』ケロスケが小さく言う。

「普通に話してただけ」

 できるだけ平らに言ったつもりだ。でも、言葉に乗った“普通”の響きが、自分でも少し硬いのが分かる。その音を聞いた神代の視線が、ほんのわずかに揺らいだ。

「うん……“普通”、か」

 “普通”という言葉が、神代の口の中で一度だけ転がる。声のトーンが僅かに下がったような。気圧変化で耳の奥がきゅっとなる感じ。神代の返事は短かったけど、声の奥に、何かを確かめるみたいな温度があった。 
(……やっぱり、俺と朱里が一緒にいたら、神代にも“変”に見えるよな)

 壁の厚みを、やんわり指でなぞられた気がした。朱里は教室の真ん中で注目を集める側。俺は端で静かにしている側。その温度差は、誰だって無意識に感じる。棘なんてどこにもなかったのに、世間の目がひとつ増えたみたいに、胸のあたりが重く沈む。
 神代が小さく目を細める。言葉にはしない表情。雨音がふっと近くなり、それが会話の区切りみたいに聞こえた。俺はただ、頷く。

 静けさの中、花のセロファンが雫を弾いて小さく鳴った。トートからスマホを取り出そうとして、パスケースがつるりと落ちる。反射で手を伸ばす——より早く、神代の指が拾い上げた。

「——っ」

 返される瞬間、指先がふっと触れた。その瞬間、資料室で感じた“熱”が、皮膚の奥で記憶を起こした。視線を逸らしたいのに、一度だけ上がって、すぐ斜め下へ落ちる。地面の自分の影がわずかに揺れた。

『ビビらんでえらい。半歩は耐えた』
(違う。怖い。なんか動けなくなる。まだ、やっぱ怖い) 

 神代の手が、静かに離れる。

「……危なかったね」

「っ、ありがと」

 顔を上げると、目が合った。神代は笑っていなかった。確かめるような、静かな視線。逸れた瞬間、庇の縁から細い糸が幾筋も垂れ、地面に新しい円を広げていく。

「伏見、放送部だろ。行事でよく会うんだ」

「そうなんだ」

「伏見って明るいから、誰とでもすぐ仲良くなれて、そういうのちょっと羨ましい」

 朱里の明るさに憧れる気持ちは共感できた。神代も誰からも憧れられる存在なのに、嫌味なく“羨ましい”を口に出せる素直さが眩しい。
 でもその“誰とでも”の部分が、ほんの少しだけ長く響いた気がした。神代の視線が一瞬だけ、花束から俺の顔に戻る。軽い笑い方なのに、そこに体温がほとんどなかった。

「雨宮は仲いいの?」

「……別に、普通にクラスメイト」

 言いながら、自分の声が“逃げ道”を作る音に聞こえた。“普通”は、守りの札みたいな言葉だ。差をなかったことにするための盾。そのことが分かっているのに、他の言葉が出てこない。

「そっか」

 さっきより低い“そっか”だった。ただの相槌なのに、湿った風よりも冷たく感じる。雨が言葉の輪郭を曖昧にして、俺も曖昧に頷く。庇の下を抜ける風が、花の甘さを少しだけ運ぶ。

(……俺、言い方を間違えた?)

 問いは喉まで来て、結局、飲み込む。
 
 あの日と同じ雨だけど、胸の奥の重さは、もうあの時ほど単純じゃなかった。怖さと、罪悪感と、“見られている”気配。どれも少しずつ残っている。
 
 ◇

 やがて雨脚が細くなった。庇から滴る雫が途切れ途切れになり、地面の水紋も浅くなっていく。神代が空をちらりと見上げた。

「もう少しで、上がる」
「……だね」
「じゃあ、また」
「うん」

 “また”の響きが、バス停の下の空気に不思議と長く残った。その言葉が消える前に、神代は短く会釈して歩き出す。紙袋の角に、雫がひと粒だけ取り残されていた。

 俺も反対側へ歩き出す。花は無事だ。道端の植え込みが水を飲みきったように深い緑で、葉の縁から水滴がぽとりと落ちる。外は明るくなるのに、胸の中ではまだ降ったりやんだりしていた。

 ◇

 家の前の路面はまだ、ところどころで薄い空を映している。二階の窓には、人の気配。玄関を開けると、乾いた匂いに、ほんの少しだけ雨の余韻が混ざる。階段を上がるたび、木の段板が軽く鳴って、その音が家の中の静けさに溶けていく。
 
「……これ、母の日の」

 キッチンから顔を出した母が、ぱっと表情を明るくした。エプロンの紐を片手で押さえながら、手の中の包みに目を細める。

「わぁ、きれい。ありがとう」
「遅くなってごめん」
「全然。おかえり」
「ただいま。俺が選んだんだけど」
「うん、湊らしい」

 花瓶を取り出し、水を張る。茎を少し切ると、ハサミの乾いた音が台所に響く。茎が水に沈むと、ガラス越しに気泡がひとつ、ふたつとのぼって、“こぽ”っと低い音を立てた。水面がゆるやかに揺れて、花を受け入れるように広がる。母の口元がやわらかく綻んだ。

『ポイント加算』
(やめろ、採点)

 リビングのテーブルに置かれた花瓶の水が、窓からの白い光を返す。母が照れたように笑いながら、花瓶の位置をほんの少しだけ窓寄りに動かした。午後の光でも、赤とピンクはちゃんと見える。花の色が部屋の空気をやわらかく染めて、そこに静かな晴れ間ができた。

 ◇

 自室に戻ってスマホを起こす。文字の欄に、指が迷わず動く。
 《渡せた。喜んでた》
 すぐに既読。三つの点が数秒灯って、狐のスタンプと一言。
 《よかったな🦊》
 画面の白が部屋を一瞬だけ照らす。

(“怖くない光”、たぶん、こういうのだ)

 ベランダの手すりに、最後の雨粒が一つだけ残っていた。落ちるか残るか、まるで迷っているみたいに、ゆっくりと形を変えている。
 ふいに、さっきのバス停の距離が頭に戻る。神代の「仲いいの?」の響き、そして俺の「普通」。乾き切らない二つの言葉が胸に居座る。
 
「……降ったりやんだり」
『でもびしょ濡れじゃない』
「うん」
『ま、今日は逃げ切ったな』
「……逃げてないし」

 ケロスケが机の端で足をぶらぶらさせた。
 
 スマホに新しい通知が入る。白河からだ。

 《体育祭チーム分け、明日だって》

 《了解》と返して立ち上がる。エプロンを手に廊下を抜ける。テーブルの花瓶の水が、夕方の灯りをほどいて揺れた。そこだけ薄く晴れ間。窓の外は、まだ曇り上がり。

(怖いのに、見てしまう。目を逸らせないのは、たぶん——“普通”でいたい自分と、“そうじゃない”自分の、境目に立っているからだ)

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