蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

文字の大きさ
17 / 46

Ep.17 青の波紋(前)≪曇り一時雨≫

しおりを挟む
 体育館脇、美術室前の廊下にブルーシートが敷かれる。広げた青い布は、海の地図みたいだ。窓の光は白く浅い。熱の芯だけ抜かれたみたいに、足裏は冷え、指先にだけ熱が集まる。
 背後でローラーが転がる。水入れからチャプッと雫が跳ねた。養生テープがちぎれる小さな破裂音。チームの笑い声に紛れて、床のワックスがきらりと応える——そんな音の粒が、廊下に薄く散った。

 中央に塗られた白い下地を、手のひらでそっと撫でる。乾きは八割くらいだろうか、塗膜とまくの匂いが薄く立ちのぼる。織り目は思ったより粗く、絵の具をよく飲みそうだ。そろそろいける。

『本番仕様の集中モード入りました』
(実況いらない)

 ケロスケを胸の奥でいなし、息を吸って薄い青を筆に含ませる。
 布に触れた瞬間、空気が一度だけ止まった。音も立てずに線が伸びる。筆先は淀みがない。集中できている気配だけが耳に触れた。考えるより早く、手が整えてくれる。そういう作業が、好きだ。
 青は濃いところから薄いところへ。真ん中の滴から外へ、波紋を広げる。色を置くたび、胸の奥の雑音が一粒ずつ沈んでいくようだった。

「水でもうちょい薄める?」

 隣で朱里が、黄色い水入れを抱えたまま覗き込む。声が軽い。でも、ただの軽さじゃない。隣の班とも自然に話をつなげ、冗談を飛ばしながら作業全体のリズムを整えていく。朱里の声が通るたび、みんなの手がそろう。笑いの温度も、空気の明るさも、中心で彼が呼吸を決めている。
 水入れの中で青が静かに溶けていく。その手つきのせいか、布の上の色まで少し柔らかく見えた。
 
「湊、筆運び、きれいだな。これ見てるとこっちの手が止まる」
「ちょ、……プレッシャー」

 褒められると、指先に余計な力が入る。筆先がほんの少し重くなるのが、自分でも分かった。

「はいはい、黙る。職人のリズム、乱すと怒られるからな」

 こうして笑いながら言う声まで、全体をまとめる指揮者のように自然だ。誰にでも同じ距離で声をかけ、場を明るくして、しかも慕われる。そういう人間、本当にいるんだなと思う。けれど、“誰にでも”という響きが、どこか胸に刺さった。わずかに目線が低く落ちる。

 朱里の隣で、細い尻尾がふわりと揺れた。アカツキが朱里の膝に顎をのせ、橙の目を細くする。 

『監督権限で進行見守り中だよ。……霧は、まだ要らないね』

 朱里の指が膝の上で“静かに”の合図を作る。アカツキは尻尾で〇を描いて従った。ちょっと人間くさくて、笑いそうになる。胸ポケットの奥から、待ってましたとばかりに、ビー玉みたいな目が二つ、そっとのぞく。

『湿度、適正』
(潜伏中にしゃべるな)
ささやきモードだし』

 アカツキが尻尾の先でねぇねぇ、と霧吹きのトリガーをつつくふり。朱里が気づいて、わざとらしく人差し指を立てる。

「ダメだ。まだ“Goサイン”待ち」
『はーい。霧——じゃなくて情熱、吹く準備OK』
(ふつうに水出して)

 朱里は笑って、水入れの縁を俺の方へ寄せる。筆を軽くすすいで、もう一度、線を滑らせた。

『筆圧、安定。いいゾーン入ってるよ~』
『水の配分、良好。相性チェックAランクだな』
(コラボ実況やめろ)

 短く息を吐いて、集中が戻る。

『職人の背中、好きなんだよなぁ』
『蛙くん、熱上げすぎ。蒸発するよ』
『そん時はアカツキが霧で補水』
『任せてよ。連携、完璧だね』

(……うるさいな。お前ら仲いいの?)

『ただのビジネスパートナーだ』
『でも、悪くない相性。嫌いじゃないよ』

 窓の外では、グラウンドで掛け声が飛び交っている。予行に向けてトラックの白線を引き直しの最中だ。晴れていないのに、世界が少し明るい。曖昧な空の色が、青布の上でやけに落ち着いて見えた。
 滴を真ん中に、外に広がる円を重ねる。にじみ過ぎないように、でも乾かし過ぎないように。布が吸う分と筆が置く分、その色の折り合いを濃淡で感覚的に測る。

「順調、順調。湊、いいペース」

 その声の走った方向へ、ローラーの音が小さく揃う。朱里の声が通り抜けると、近くの班まで安心させる。火の気配、というやつだ。熱くはないのに、不安や緊張といったマイナス温度を上げてくれる。

 アカツキの尻尾が軽く揺れる。動くたび、空気の粒がざわっと共鳴して、人の笑い声が連鎖する。朱里の感情が、そのまま温かな場の温度になる。——守護生物には、それぞれ主の気配を外へ伝える力がある。風を整える者、水を鎮める者、そしてこの狐は、場をあたためる。

『ちょうど、いい温度』
『水もご機嫌。霧と泡のハーモニーだな』
『タイトル“青の共鳴”』

(勝手に合作にすんな)

 朱里は笑って、全体の指示を軽く飛ばす。
「ローラー、布目に沿って。端の方、押さえるときは手、汚れんの注意ね」
 声に合わせて場の空気がゆるみ、作業の温度がひとつに溶けた。背後で転がるローラー、ビニール手袋の擦れる音。日差しはないのに、廊下の白が光を拾って明るい。

(“晴れてないのに明るい”って、こういうことか)

 筆を持ち替える。真ん中の滴の外周を、白で輪郭を細く立ち上げてから、微妙に滲ませる。呼吸をひとつ低くして、手の力を抜いた。

『よし、湊。波紋、きてる』
(うるさいけど、同感)

 ◇
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

とある金持ち学園に通う脇役の日常~フラグより飯をくれ~

無月陸兎
BL
山奥にある全寮制男子校、桜白峰学園。食べ物目当てで入学した主人公は、学園の権力者『REGAL4』の一人、一条貴春の不興を買い、学園中からハブられることに。美味しい食事さえ楽しめれば問題ないと気にせず過ごしてたが、転入生の扇谷時雨がやってきたことで、彼の日常は波乱に満ちたものとなる──。 自分の親友となった時雨が学園の人気者たちに迫られるのを横目で見つつ、主人公は巻き込まれて恋人のフリをしたり、ゆるく立ちそうな恋愛フラグを避けようと奮闘する物語です。

病んでる愛はゲームの世界で充分です!

書鈴 夏(ショベルカー)
BL
ヤンデレゲームが好きな平凡男子高校生、田山直也。 幼馴染の一条翔に呆れられながらも、今日もゲームに勤しんでいた。 席替えで隣になった大人しい目隠れ生徒との交流を始め、周りの生徒たちから重い愛を現実でも向けられるようになってしまう。 田山の明日はどっちだ!! ヤンデレ大好き普通の男子高校生、田山直也がなんやかんやあってヤンデレ男子たちに執着される話です。 BL大賞参加作品です。よろしくお願いします。 11/21 本編一旦完結になります。小話ができ次第追加していきます。

愛だの恋だの馬鹿馬鹿しい!

蘇鉄
BL
「俺は誰とも関わりたくないんだけどなあ、おかしいなあ?」 『回答。ユーザー様の行動が微妙に裏目に出ています。シミュレーション通りにならず当システムは困惑しております( ゚Д゚)』 平和な学生生活を手に入れるために生活サポートAIシュレディンガーと共に色々と先回りして行動していたらいつの間にか風紀委員やら生徒会やらに追い回される羽目になっていた物部戯藍。 街を牛耳る二大不良チームも加わる中、執着される理由がわからず困惑しつつも彼は平穏な生活の為に逃げ回る。 彼は愛も恋も信じない。それはとても不確かなものだから。バカバカしいまやかしだと決めつけて。 ※ 不定期更新です

俺の“推し”が隣の席に引っ越してきた

雪兎
BL
僕の推しは、画面の向こうにいるはずだった。 地味で控えめなBLアイドルグループのメンバー・ユウト。彼の微笑みと、時折見せる照れた横顔に救われてきた僕の、たった一つの“秘密”だった。 それなのに、新学期。クラスに転校してきた男子を見て、僕は思わず息をのむ。 だって、推しが…僕の隣に座ったんだ。 「やっと気づいてくれた。長かった〜」 ――まさか、推しの方が“僕”を見ていたなんて。 推し×オタクの、すれ違いと奇跡が交差する、ひとくち青春BLショート。

キスの仕方がわかりません

慶野るちる
BL
全寮制男子校に入学した市原はクラス委員長になったため書類を提出しに生徒会室に行くと、そこに一人いた、初対面の副会長の近藤に襲われてしまう。  混乱するも相部屋の同級生・松川に助けられて元気を取り戻したある日、生徒会長の桜野から仕事を手伝って欲しいと依頼される。  最初は近藤に無視されていたが手伝う中で近藤から告白され、近藤への印象が少しずつ変わっていく市原だが。 表紙:Photo by Markus Spiske on Unsplash / powered by かんたん表紙メーカー様

兄貴同士でキスしたら、何か問題でも?

perari
BL
挑戦として、イヤホンをつけたまま、相手の口の動きだけで会話を理解し、電話に答える――そんな遊びをしていた時のことだ。 その最中、俺の親友である理光が、なぜか俺の彼女に電話をかけた。 彼は俺のすぐそばに身を寄せ、薄い唇をわずかに結び、ひと言つぶやいた。 ……その瞬間、俺の頭は真っ白になった。 口の動きで読み取った言葉は、間違いなくこうだった。 ――「光希、俺はお前が好きだ。」 次の瞬間、電話の向こう側で彼女の怒りが炸裂したのだ。

聞いてた話と何か違う!

きのこのこのこ
BL
春、新しい出会いに胸が高鳴る中、千紘はすべてを思い出した。俺様生徒会長、腹黒副会長、チャラ男会計にワンコな書記、庶務は双子の愉快な生徒会メンバーと送るドキドキな日常――前世で大人気だったBLゲームを。そしてそのゲームの舞台こそ、千紘が今日入学した名門鷹耀学院であった。 生徒会メンバーは変態ばかり!?ゲームには登場しない人気グループ!? 聞いてた話と何か違うんですけど! ※主人公総受けで過激な描写もありますが、固定カプで着地します。 他のサイトにも投稿しています。

30歳まで独身だったので男と結婚することになった

あかべこ
BL
※未完 4年前、酒の席で学生時代からの友人のオリヴァーと「30歳まで独身だったら結婚するか?」と持ちかけた冒険者のエドウィン。そして4年後のオリヴァーの誕生日、エドウィンはその約束の履行を求められてしまう。 キラキラしくて頭いいイケメン貴族×ちょっと薄暗い過去持ち平凡冒険者

処理中です...