蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.18 青の波紋(後)≪曇り一時雨≫

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 ◇
 
 午後の光は白く鈍り、窓の空が一段低く見えた。硝子に落ちた最初の一粒が、色を静かに変える。細い筋が斜めに走り、校舎のコンクリートが濡らされていく。鉄と土の匂いが、微かに立ち上がった。渡り廊下の屋根を叩く音が遅れて届き、空気がひやりと痩せる。この温度の変化だけで、胸の奥が少し縮こまった。
 
 各チーム作業場を、生徒会の腕章を付けた生徒たちが進捗確認で巡回してくる。チーム代表の三年生は当日の進行やテント設営を打ち合わせ中。俺は筆先を整えていると、列の最後に神代 怜が見えた。
 ドアをくぐる前、彼は傘の雫を一度だけ払う。袖口の一滴を指で拭い、何事もなかったように歩き出す。その仕草が、音もなく俺の神経に触れた。こちらへ向かう足音は静かで、すぐに雨音の層に溶ける。斜め後ろの死角ぎりぎり、進行表とチェックリストを持つ手と、灰色のカーディガンの気配。

「副会長だ」

 嬉々とした温度で誰かが囁く。その瞬間、自分の輪郭の空気だけがわずかに固くなった。
 足音はほとんどしないのに、その気配にだけは敏感で、筆先の震えだけが、先に緊張を漏らす。身体が勝手に恐怖を感じたように肩が上がり、呼吸が浅くなる。

『……凍ったな、湊』
(分かってる)

 その時、袖口が布の端に軽く触れた。指先がわずかに力を入れ損ね、筆が傾く。重力に逆らえず、筆の先から青の雫がふっと浮いた。『待って』と心のどこかが叫ぶ。けれど、もう遅かった。
 青の一滴が筆先から離れ、空気の膜をゆっくり割りながら——中央へ、ゆっくり落ちた。
 
 ぽとり。

 音はしなかった。なのに、胃の底でコップを置いたみたいな、鈍い音が鳴った気がした。青が白に触れて、じわ、とにじむ。触れば広がり、拭けば跡になる。逃げ場のない失敗。

(やった……最悪だ。なんで今、ここで。直せる? 無理だ。目立つ。すぐ乾く。広がる……)

 掌の中の血が全部、逆流したみたいに冷える。指先が自分のものじゃなくなって、腕の内側を、針先が何本も撫でていく感覚が走る。
 音が全部、吸い込まれていく。ローラーも、誰かの笑い声も、近くの息づかいも——薄い氷の下に沈んだみたいに、全部が止まった。冷たい視線が、音より先にこちらへ集まる。温度が一気に落ち、皮膚が外気に晒されたみたいに痛い。逃げ場がない——当たり前だ、俺のせいだから。

「あーあ、……やっぱりな」

 誰かの声が雨に吸われて消えた。そのひと言だけで、胸の奥がずしんと沈む。

 神代は少し離れた場所で黙って見ている。何も言わない。目の線が、俺の手でほんの一秒止まる——“無”。
 感情の温度が乗らない視線は、逆に痛い。見られているというより、見透かされているみたいで、喉の奥が、きゅっと狭まる。

『蛇、こえぇな』
 返事が出ない。

「……ごめ——」

 言葉が出かかった瞬間、朱里の指がふっと上がった。笑顔のまま、短い「待て」の合図。
 それだけで、空気が少しだけ揺れる。硬く凍っていた世界が、ひとつ呼吸した。

「待った。そのまんまでいい。むしろ——いい」

 朱里は霧吹きを取ると、落ちた点の外周だけを軽く湿らせ、キッチンペーパーで中心を触らず周辺を押さえる。青の輪郭がほどけ、柔らかい波紋になる。濃い点が核になって、淡い環が生まれた。

「波紋の起点、ライブで作れた。筆より水で作れたからリアルだ」
「……リアル」
「このまま外へ広げよう。水は閉じ込めない方が綺麗だよ」

 偶然に落ちた滴の輪郭が、意図のある波紋に変わっていく。予定していた構図よりも、ずっと“水”の顔をしていた。
 
「すげ……」
「逆にアリ」
「綺麗、写真撮っていい?」

 冷たい膜は笑いと声の温度に溶け、小さな歓声で破れた。ナイスミス、なんて声も飛ぶ。胸の中で、波が落ち着くみたいに、音が戻ってきた。

『芸術点、満点』
(……点数化するな)

 朱里がさっと視線を巡らし、全体のテンポを落とさないまま俺の前にしゃがむ。布の擦れる小さな音、正面から目の高さが合う。その距離の近さに少し息が詰まった——けれど、次の瞬間、肺の奥に空気が入り直った。

「大丈夫。“事故”じゃなくて、偶然のラッキーだな。水がやりたい形になっただけ」

 “大丈夫”が耳に触れた場所から、氷を溶かしていくように温かさが内側に広がる。ケロスケも珍しく黙る。

「……うん」

 笑いながら霧吹きを渡される。掌に触れたプラスチックの軽さが、現実の重さを正しく戻す。

「この濃い核、いいよ。ここから薄くなるように、外に“呼吸”させて」
「……呼吸」
「そう。水面の息。波紋」

 霧をひと吹き、ペーパーを一押し。輪郭が緩むと、青が水を吸ってやわらかくにじむ。“普通”に戻したいのに、戻した先が今までと同じとは限らない——そんな感覚が、波紋みたいにじわりと広がった。

 筆をいったん置いて、指先で布の端を軽くなぞる。絵の具が肌の温度をもらって溶けていくように優しく広がる。筆よりも不器用な線なのにぬくもりが残る。それだけで胸の奥のこわばりが一枚、内側でほどけた。
 朱里が隣でそれを見て目を細める。声は出さず、ただ小さく頷いて視線で「いいね」と言った。
 言葉がいらない瞬間。二人の動きが、水面の呼吸みたいに重なる。

 にじみの縁に触れる指先がほんのり青を帯び、光を受けて微かに透けた。青が広がるたび、“やってしまった”が、少しずつ“進んでいる”に書き換わっていく。
 短い言葉しか出せないのが悔しい。けれど、短い言葉で足りる瞬間もある。
 
 神代はずっと見ていた。穏やかな微笑のまま——だが、わずかに首を傾げる。視線が朱里の指先でとどまり、ほんの半拍遅れて俺の方に戻る。その刹那だけ、口元がかすかに崩れた。見間違いかもしれない程度の揺らぎ。
 すぐに目の奥が整い、“王子”の顔へ。その切り替えが速すぎて、逆に静けさを残した。

「進捗、問題なさそうだね。作業、続けて」

 それだけ言い、神代は進行表を持ち直す。仕事の声へ戻るのが、いつも通りに速い。けれど、その言葉の下に小さな波が隠れているのを、空気だけが知っていた。
 足音はやっぱり静かで、音を残さないのに、さっきの“揺れ”の残像が薄く残る。彼が去ったあとも、どこかで進行表の紙が擦れるような音が聞こえた気がした。

 ◇

 夕方までに、中央から外周へ三つの環を描いた。青の層が曇りの光を受けて、静かに呼吸している。朱里の機転で、止まった空気がもう一度、動き出した。
 窓の外では、正午過ぎから降っていた雨が上がったらしい。濡れた窓に残る雫が、夕陽で綺麗にきらめいている。最後の一筆を置く前に、朱里がスマホを構えた。

「進捗、撮っとく。——手元だけね」

 レンズは俺の手元だけを切り取る。顔は入れない。朱里は当たり前のようにフレームを手元だけに切った。
 フレームの端に青い指、筆、波紋。配慮の仕方が“分かっている”人のそれで、息が楽になる。

『持ちのマナー、合格』
(言い方)

「今日の分はここまでにしよ。乾かして」

 朱里の合図で周りも片付けに入る。水入れの水を流し、筆を洗う。手のひらに残った青が、石鹸の匂いと混ざってなかなか落ちない。落ちないのが、むしろ悪くないと思った。

 片付けを終えるころ、グラウンドに一本だけ斜めの光が差した。雨上がりの匂い。
 テープの端を指でなぞって剥がれ具合を確認していると、朱里が肩で狐を揺らしながら言った。

「明日、外周の薄い層を仕上げるよ。——なあ、湊」

「うん?」

「いい“滴”だった」

 言葉が、俺の中の変なところに当たって跳ねた。
 「ありがとう」が喉の手前で裏返る。間の悪い俺の代わりに、ケロスケが『はい、拍手~』と小声で茶化す。

(やめろ)
 
「明日はレタリング任せた」

「うん……任された」

 不器用な笑いが一つだけこぼれた。
 ほんの少しだけ、笑い方を思い出した。
 
 ◇

 帰宅後、外に目をやると、曇った空は午後に雨が降った濡れ色で、アスファルトの微かな反射が窓の下に集まっていた。
 キッチンに買い物袋を置いて、手を洗う。青が爪の脇にうっすら残って、アクリルの匂いが指に染みついている。

(落ちないの、なんか悪くない)

『その青、残しとけ。今日の勝ち点だ』
「勝ち点って……でも、うん」

 自室の椅子に腰を下ろす。伏せていたスマホが、小さく震えた。
 “AKARI”。

 《青の団旗ベストデザイン賞に決まりだな🦊》
 《偶然》
 《偶然ってのは、狙って出せないから価値あるんだよ》

 ふ、と思わず笑ってしまう。肩の力が抜けて、喉の奥に残っていた硬さがやわらぐ。
 
『今日のミス、昇格したな』
「“失敗”のまま終わらなかっただけ。……優しさの、おかげ」
『お前も逃げなかった。それも“成長”って言うんだよ』

 朱里の「大丈夫」が、まだ頭の奥で残っている。助けられたのに、ちゃんと「ありがとう」を言っていない気がする。指が勝手に動いた。

 《ありがとう》
 送信。

 既読がつく前に画面を伏せる。既読の小さな音が、今日は少しだけ怖い。
 でも、送れた。

 青チームのスレッドには「青、いい」「波紋きれい」「写真映えする」の文字。
 嬉しい。けれど、借り物の光じゃないか、と心の奥で思う。借りは負債じゃないと分かっていても、返し方が分からないうちは、胸の内では利子がつく。ざわつきと嬉しさが同居して、どちらも強くはないのに、確かに同時にあった。

 ふと、あのときの神代の視線を思い出す。表情はいつも通りの微笑み。けれど、あれは——。
 言葉にする前に、心の中で“でも”が生まれる。

(……気のせい、か)

 息を沈める。それでも胸の奥に残るわずかな引っかかりは消えない。
 神代の視線には“光”があった。けれど、その光には温度がなかった気がする。青い滲みの冷たさに、少し似ていた。
 
『深呼吸。三秒吸って、三秒止めて、三秒吐く』
「教官かよ」
『保健係だからな』

 呼吸が、いつものリズムに戻る。
 机の上のラフスケッチ。真ん中の滴。今日の“ミス”がそこに重なって、輪がひとつ増えたように見えた。

 窓の外、雨はもう上がっている。ベランダの手すりに一滴だけ残った雫が、街灯の光を返した。指先に残った青は乾いても、触れるたびにまた滲む気がする。

(——あの滴の青は、失敗じゃない。跡だ。歩いたあとに残るやつ)

 スマホが一度、微かに鳴る。
 《どういたしまして》の文字と、ちいさな狐のスタンプ。画面の白い光が、部屋を一瞬だけ照らした。

 外はまだ曇り。
 けれど、布の上の波紋は確かに広がっている。胸の中でも、同じように。
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