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Ep.19 開幕の音(前)≪薄曇りのち晴れ≫
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朝のグラウンドは、音で満ちていた。
テントパイプがぶつかる金属音、杭を打つハンマーの重さ、養生テープがちぎれる緊張感、マイクの「ツー、ツー」という呼吸まで混ざって、ひとつの層に溶けていく。
空は薄曇り。湿った風が校舎の壁に当たって、少し遅れて戻ってくる。熱はまだ降りてこないのに、肌だけがうっすらと温かい。
青チームの旗の支柱を支え、係の先輩の指示を待つ。昨日ついた絵の具の青が、まだ爪の脇に残っていた。爪をこすると、ロープを結ぶたびに指先から絵の具の匂いが立つ。
『気温二十二度、湿度やや高め! 水分確保~!』
ジャージのポケットから、きょろきょろと小さな目がのぞく。ケロスケ。実況をやめる気は、今日もない。
(お前、保健係か天気予報か、どっちかにして)
『両方。両生類だけにな』
(上手くない。……語呂で押すな)
「ケロスケ、俺にも水分補給頼むわ」
白河が笑いながら肩を回す。スパイクが乾いた砂を軽く刺す音。白河の肩のスイが『ぴ』と短く鳴く。羽の先で空気を撫でると、グラウンドのざわめきが半歩だけ遠のいた気がした。
『風、いい方向』
スイがささやく。旗が小さく鳴って、音だけで色が分かるみたいだった。
やがて各色の旗が順に揚がる。赤は大きな筆で描いた炎のモチーフ。布の端がほつれていて、それすら勢いに見える。黄は陽射しを描いたデザインで、笑顔のマークが中央にある。見ただけで元気が伝わる。白は翼と雲。清潔で整っていて、デザインごとにきちんと計算が行き届いている。そして青は——波紋。真ん中の滴から広がる円が、風に合わせて息をする。
四色が同じ風を奪い合い、交じり合う。赤は火花、黄は陽射し、白は吐息、青は水面。——グラウンド全体もまた、色で息をしているように見えた。
校舎脇の放送テントから、朱里の声がする。
「マイクチェック、オーケー。——聞こえますか、青組?」
マイク越しなのに笑いが透けている。テントの中では、アカツキがマイクスタンドに前足をかけて尻尾を一度だけ振った。火の気配。空気の温度が一度、上がったように感じる。
支柱が固定できたところで、青チームの用具を運ぶ。バトン、スタートピストルのケース、玉入れのかご。放送ブースの前を通ったとき、黒い延長ケーブルが人の流れを横切っているのが見えた。その位置が、去年と同じ——嫌な予感が喉にかかる。
(あの位置、またか。去年ここで……)
「この線、去年と同じ位置か?」
後ろからの声に振り向くと、腕章をつけた神代 怜がブースの配置図を手に、音響機器の裏側を覗き込みながら足を止めていた。照らし合わせるよう配線図に滑らせる指先の仕草が、無駄なくきれいだ。
「はい、たぶん」
「……違う。ここ、人の動線が交差するから。ポール沿いに回して、上から結束。足元はカバーしよう」
指示を受けて、放送部員がすぐ動く。結束バンドがカチリと音を立てた。少し離れたところで顧問の先生が小さく言う。
「去年のままなら危なかったな。踏まれて断線してたかも」
胸の奥で、何かがひとつ、深く鳴った。
——四月の終わりに渡した“安全マニュアル”。ちゃんと目を通してくれていたんだ。あの時の手の震えを思い出す。ファイルの紙の感触まで。
「——雨宮」
名前を呼ばれて一瞬、肩が小さく跳ねた。神代の視線が、まっすぐこちらを射抜く。
「ここ、君の“マニュアル”で指摘されていた箇所だ。……助かった。ありがとう」
「俺はべつに何も……」
『素直に受けろ』
(……無理)
声はそれ以上、喉からうまく出なかった。
神代の目の端が、わずかにほどける。笑顔というより、曇り空の切れ間に光が差すような変化。いつも均一な温度の“王子”から、半歩だけ外れる。——それを自分でも気づいたように、彼はすぐ戻した。
「じゃあ」と短く言って歩き出す。切り替えの速さが、流石だな。
放送席のビニール幕がふわりとめくれ、朱里が顔を出す。
「おー、湊が副会長に感謝されてる。歴史的瞬間きた?」
「やめろ、実況するな」
思わず返すと、朱里は聞こえたのか聞こえてないのか、指をひらひらさせて笑った。
「サンキュ、湊」
今度は小声。アカツキが尻尾で空気を軽く払った。火の温度がわずかに上がる。
今の“ありがとう”は、嘘じゃない響きを持っていた。
◇
テントパイプがぶつかる金属音、杭を打つハンマーの重さ、養生テープがちぎれる緊張感、マイクの「ツー、ツー」という呼吸まで混ざって、ひとつの層に溶けていく。
空は薄曇り。湿った風が校舎の壁に当たって、少し遅れて戻ってくる。熱はまだ降りてこないのに、肌だけがうっすらと温かい。
青チームの旗の支柱を支え、係の先輩の指示を待つ。昨日ついた絵の具の青が、まだ爪の脇に残っていた。爪をこすると、ロープを結ぶたびに指先から絵の具の匂いが立つ。
『気温二十二度、湿度やや高め! 水分確保~!』
ジャージのポケットから、きょろきょろと小さな目がのぞく。ケロスケ。実況をやめる気は、今日もない。
(お前、保健係か天気予報か、どっちかにして)
『両方。両生類だけにな』
(上手くない。……語呂で押すな)
「ケロスケ、俺にも水分補給頼むわ」
白河が笑いながら肩を回す。スパイクが乾いた砂を軽く刺す音。白河の肩のスイが『ぴ』と短く鳴く。羽の先で空気を撫でると、グラウンドのざわめきが半歩だけ遠のいた気がした。
『風、いい方向』
スイがささやく。旗が小さく鳴って、音だけで色が分かるみたいだった。
やがて各色の旗が順に揚がる。赤は大きな筆で描いた炎のモチーフ。布の端がほつれていて、それすら勢いに見える。黄は陽射しを描いたデザインで、笑顔のマークが中央にある。見ただけで元気が伝わる。白は翼と雲。清潔で整っていて、デザインごとにきちんと計算が行き届いている。そして青は——波紋。真ん中の滴から広がる円が、風に合わせて息をする。
四色が同じ風を奪い合い、交じり合う。赤は火花、黄は陽射し、白は吐息、青は水面。——グラウンド全体もまた、色で息をしているように見えた。
校舎脇の放送テントから、朱里の声がする。
「マイクチェック、オーケー。——聞こえますか、青組?」
マイク越しなのに笑いが透けている。テントの中では、アカツキがマイクスタンドに前足をかけて尻尾を一度だけ振った。火の気配。空気の温度が一度、上がったように感じる。
支柱が固定できたところで、青チームの用具を運ぶ。バトン、スタートピストルのケース、玉入れのかご。放送ブースの前を通ったとき、黒い延長ケーブルが人の流れを横切っているのが見えた。その位置が、去年と同じ——嫌な予感が喉にかかる。
(あの位置、またか。去年ここで……)
「この線、去年と同じ位置か?」
後ろからの声に振り向くと、腕章をつけた神代 怜がブースの配置図を手に、音響機器の裏側を覗き込みながら足を止めていた。照らし合わせるよう配線図に滑らせる指先の仕草が、無駄なくきれいだ。
「はい、たぶん」
「……違う。ここ、人の動線が交差するから。ポール沿いに回して、上から結束。足元はカバーしよう」
指示を受けて、放送部員がすぐ動く。結束バンドがカチリと音を立てた。少し離れたところで顧問の先生が小さく言う。
「去年のままなら危なかったな。踏まれて断線してたかも」
胸の奥で、何かがひとつ、深く鳴った。
——四月の終わりに渡した“安全マニュアル”。ちゃんと目を通してくれていたんだ。あの時の手の震えを思い出す。ファイルの紙の感触まで。
「——雨宮」
名前を呼ばれて一瞬、肩が小さく跳ねた。神代の視線が、まっすぐこちらを射抜く。
「ここ、君の“マニュアル”で指摘されていた箇所だ。……助かった。ありがとう」
「俺はべつに何も……」
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(……無理)
声はそれ以上、喉からうまく出なかった。
神代の目の端が、わずかにほどける。笑顔というより、曇り空の切れ間に光が差すような変化。いつも均一な温度の“王子”から、半歩だけ外れる。——それを自分でも気づいたように、彼はすぐ戻した。
「じゃあ」と短く言って歩き出す。切り替えの速さが、流石だな。
放送席のビニール幕がふわりとめくれ、朱里が顔を出す。
「おー、湊が副会長に感謝されてる。歴史的瞬間きた?」
「やめろ、実況するな」
思わず返すと、朱里は聞こえたのか聞こえてないのか、指をひらひらさせて笑った。
「サンキュ、湊」
今度は小声。アカツキが尻尾で空気を軽く払った。火の温度がわずかに上がる。
今の“ありがとう”は、嘘じゃない響きを持っていた。
◇
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