蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.20 開幕の音(中)≪薄曇りのち晴れ≫

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 ◇

 開会式が、いよいよ始まった。
 太陽がようやく雲を抜いて、光の角度が変わる。入場行進の音楽が軽快に流れ、各色のプラカード一斉に上がる。青の団旗は朝の光の中で、昨日描いた波紋を静かに呼吸させながら風を掴んでいた。俺は青列の脇で支柱を持ちながら、できるだけ目立たない位置に立つ。
 黄の列の先頭付近に白河がいる。あっちも気づいて軽く手を上げた。スイが白河の肩でふわりと膨らむ。羽が光を弾いて、一瞬だけ周囲が柔らかく見えた。

 放送席から朱里の声が響き渡る。

「ただいまより、白鷹学園はくようがくえん高等部・体育祭を開始します——」

 その声に合わせて、ざわめきが一段落ちた。静まった空気の中で、抑え込まれた熱が列の間を縫って立ちのぼる。言葉の温度で空気が動く——これが“火の声”。
 選手宣誓の声が校舎の壁に当たり、薄く反射して戻る。四色の旗は同じ風を受けて揺れるのに、なぜか青だけ静かに見えた。

 スイが空をくるりと巡る。ケロスケは俺の頭の上に飛び乗り、同じ空を見上げた。

『風、合格。発色も良し』

(くもりの空に、青がいちばんきれいに見える)

『お前の波紋、公式デビューだな』
(ちょっと! 今の情緒返して)

 肩が少し緩む。笑いが喉の奥に残った。
 
 ◇

 午前の競技が始まった。最初の種目は障害物競走。黄のレーンに白河が出る。
 スタート前にこちらを見た白河へ、口の形で「がんばれ」と送った。
 スタート合図で白河が飛ぶ。ハードルの影がグラウンドに小さく跳ねる。スイが背中で一度だけ風を押した。

『追い風一割、実力九割~』
(その数字、適当だろ)

 思わず苦笑いして、肩の力が抜けた。
 陸上部で培った脚力は圧倒的だ。白河が一位でゴールすると、黄の席がわっと沸いた。
 
 一種目目が終わると、グラウンドの熱が一気に上がった。
 トラックでは徒競走、隣のコートでは大縄。跳び終えた女子たちが抱き合って笑い、男子がハイタッチしては肩を組む。砂の匂いと日焼け止めの甘い匂いが混ざって、風が少しだけ甘ったるい。

 スピーカーから、朱里の声が弾む。

「次は二人三脚~! 息合わせて倒れんなよ~!」

 声だけで空気の温度を変えられるタイプだ。放送席の上、朱里がマイクを片手に笑う姿が見えた。
 その隣で、マイクスタンドに座ったアカツキの尻尾が小さく火花みたいに揺れる。

『火の狐、今日も絶好調』
 ケロスケが胸ポケットの中でつぶやく。

(実況、二人いらないって)

 大縄の向こうではスプーンリレーが始まっていた。落としたピンポン玉を追いかけて転んだ一年が、笑いながら立ち上がる。観覧席から拍手と歓声。熱と風が混ざって、世界が一瞬白くなる。
「がんばれ~!」「いけー!」
 声の波の中に、朱里の名前を呼ぶ声も混ざってる。
 放送席の朱里が手を振って応えると、女子の一団が「きゃー!」と叫んでいた。
 入場門の脇で誰かが『怜先輩ー!』と叫ぶ。白の観覧席が一拍高く揺れて、すぐに波が引く。

(あれがファンサってやつか。……人気者って、大変だな)

 スイが白河の肩の上を一瞬通り過ぎ、風をひと押し。白河がこちらを見てニヤッと笑う。

「おい雨宮、見てるだけだと青春終わるぞー!」
「始めた覚えもないって」

 笑い声が歓声に溶ける。砂埃の中で、旗の色が何度も揺れた。赤が跳ね、黄が弾け、白が舞って、青が静かに波打つ。

 ふと、放送席の方を見ると、朱里がこちらを見ていた。
 目が合った——気がした。
 一瞬だけ、朱里の口元がゆるむ。笑ったというより、『見つけた』とでも言うような。 
 その瞬間少しだけ、周りの歓声が遠くなる。音は消えたのに、鼓動だけが一歩先へ走る。
 気のせいか、と思った、その瞬間、青い旗が風を受けてぱっと鳴った。タイミングが良すぎて、ちょっと笑ってしまう。

 ——晴れてないのに、明るい。
 そんな言葉が、ふと頭に浮かんだ。笑った理由は、たぶん、それだけじゃなかった。
 
 ◇

 パン食い競争の出番が来る。白線の上で靴底を鳴らすと、湿った砂がわずかに沈んだ。

「行ってこい。普通に走って飛べばいい」

 白河が横から声を投げる。やっぱり便利な言葉だな、普通。けれど白河の「普通」は、俺にとっては少し背伸びの普通だ。
 俺はスタートラインに並ぶ。頭上でパンがゆらゆら揺れている。紐の結び目がやけに強そうだ。風の匂いが粉の甘さを運んできた。

 ピストルが鳴って、走り出す。砂を蹴る音と心臓の音が、ほとんど同じリズムになる。
 吊るされたパンは思ったより高く、思ったより遠い。息が上がる。パンに噛みつこうと顎を上げた瞬間、放送席から声が飛んだ。

「青組、いいペース!——湊、いけ!」

(呼ぶな……放送で呼ぶな……!)

『実況に名前入り、昇格だな』
(やめろ、心臓にわるい)

 恥ずかしさを振り切るように、速度を上げた。顎先でパンをひっかけて、反動でタイミングを作って噛みつく。「おおー」というどよめき。口の端に粉がつく。

「青組、湊——朝飯抜いてきたのか、ナイス噛み!」


 


 観覧席が笑って、俺の心拍だけがオーバーレブ。そのままゴールテープだけを見て走り抜けた。
 青の席がわっと沸いて拍手が鳴り、その中に俺の名前が混ざる。胸の内側で、何かがちょっとだけ外へ開いた。

 競技と競技の合間、青テント前で水を飲んでいると、放送席の朱里が、水のボトルを口にあてて笑っているのが目についた。アカツキに何か囁かれて、目尻が柔らかく光る。遠目でも分かる。声が空気を撫でて、曇りを一枚剥がすみたいだ。
 
 午前の部の締め、トラックでは短距離走予選が行われていた。その傍ら、神代が進行表を手に、動線のチェックをしている。進行表をめくる度に、紙の音が小さく鳴る。足音は相変わらず静かだ。視線がこちらに一度触れ、すぐに離れた。何も言わないのに、温度だけが残る。
 ロープの張りを指で確かめて、青い布の波紋を見上げる。風が一度抜けて、薄曇りでも布は光を返す。自分が描いた“滴”が、風に呼吸している。

 午前が終わる頃、空はすこし雲が増えていた。涼しいというより、温度が曇る感じ。風が回って、旗が一斉に鳴る。パタ、パタ、と四色の音が連鎖して、それがまるで空が息をしているみたいに聞こえた。

(……風も、普通って言えるうちは、平和だな)

 胸の奥の水面が、ゆっくりと静まる。
 パンの甘い匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
 
 ◇
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