蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.21 開幕の音(後)≪薄曇りのち晴れ≫

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 ◇
 
 昼休憩の時間。青チームの休憩スペースの端に、レジャーシートを広げる。
 木製の弁当箱。卵焼き、ひじき、鶏の照り焼き。それと、昨夜の残りのポテサラ。見慣れた中身。けれど、外の音と風がいつもと違うだけで、味まで少し変わって感じる。

「お前、今日も自作?」

 黄スペースから抜けて並んだ白河が弁当の蓋を開けている。

「いつもと変わらないよ」

「いただき」

 朱里が迷いなく卵焼きを摘んでいく。

「うんまっ……! これ店出せる」
「ふ、普通。家庭の味です」
「出た、“普通”」
「“普通”言うたび罰金制にしようぜ」

 白河が笑う。スイが『はんこ押すよ』と言わんばかりに羽先で空気をつつく。ケロスケが弁当箱の影で指を折って数えた。

『累計八回。罰として一口分け与えよ』
「……食べ物で懲罰するな」

 朱里がフォークを差し出す。

「はい、罰。湊はこういうのが効く」

 受け取らないのも失礼だし、受け取るのも恥ずかしい。視界の端でアカツキが「ふふ」と笑う気配。仕方なく口を開けると味はやっぱりいつもと同じなのに、体温で少し上がっている気がした。

「はい、贖罪完了——俺の独断で」

「……納得いかない」

 風が少し強まる。団旗が一斉に鳴り、雲が裂けて陽が差す。スイがふわっと浮かんで、空気のよどみを払った。
 朱里がスマホを掲げて旗を撮る。フレームの中の青が、昼の光で呼吸している。

「いい風。青が一番映える」
「……晴れてないのに、明るいな」

「あ、今笑った?」

「笑ってない」

 俺は顔を逸らすように水筒に口をつける。

「晴れてないのに気温上がってるな。主犯はこの二人」

 白河が俺と朱里、交互に指を突き付けて軽口を言う。

「はいはい、風係は黙って」
 

 アカツキの尻尾が火のきらめきみたいに揺れて、ケロスケがそれを羨ましそうに見た。

『尻尾、便利だな。表情筋より表現力ある』
(真似すんなよ)

『あー、平和。明日世界が滅んでも、俺は今の飯で満足だ』
「そんな不吉な感想いらない」

 朱里が顔を上げた。
 遠くから「伏見先輩ー! 一緒に撮ってください!」と女子の声。

「はいはい、行く行く~!」

 手をひらひら振って立ち上がる。アカツキも尻尾を嬉しそうに振った。
 朱里がカメラの中心に入ると、後輩たちが左右に集まり、ピースやハートを作る。シャッター音のたびに笑い声が幾重も重なる。
 その光景を見ながら、白河が小さく笑う。

「人気者は忙しいな」

 (ほんとだよ)と返しかけて、水筒の蓋を回した。蓋をひねる音が、やけに乾いて聞こえた。

 やがて朱里が戻ってきて、スマホを片手に言った。

「俺らも撮ろうぜ。ほら、記念」

「は?」

「撮るぞ。はい、湊、真ん中な」
「俺が撮るんじゃなくて?」
「いいや、俺のスマホで撮る。ほら」

 強引にスマホを渡され、半ばあきらめて両手を構える。
 朱里が右、白河が左。二人がぐっと前に寄ってきて、肩が触れた。近い。思ってたより、ずっと近い。
 笑え、と言われた気がして、息を一つのみ込む。口角を上げる——けど少し、遅れた。

 シャッター音。

 シャッターの後、スマホを朱里に返した。
 画面には、左右で完璧に笑う二人と、真ん中でぎこちない俺。目は半分閉じかけ、口元は笑い損ねた中途半端な形だ。

「ちょ、撮り直させて」
「ダメ。初回限定が一番いいから却下」
「いや、顔やばいって……」
「それが“湊クオリティ”。——はい、保存完了」

 そのまま保存のマークが灯る。
 朱里が満足そうに笑ってスマホをしまう。白河は腹を抱えて笑い転げた。
 アカツキが「うまく撮れたじゃん」と尻尾を揺らし、ケロスケが『構図バランス、◎』と実況する。

(構図の問題じゃない……)

 けれど、画面の中の三人は確かに“晴れ”だった。





 背後の青い団旗が風を受けて波のように揺れ、その青が頬に薄く返る。
 朱里が小さくつぶやく。

「うん、悪くない。——ちゃんと“青”だ」

 その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
 俺の表情は失敗でも、この距離と空気だけは、たぶん正解だ。
 
 雲がもうひと切れ裂けて、陽が広がる。湿度の栓が抜けるみたいに、空気が軽くなった。ベンチ向こうで、別クラスの笑い声が弾ける。昼の匂いが低く広がり、校庭の影が短くなっていく。

(“普通”でいたいって、ずっと思ってた。けど——)

 旗を見上げる。青の波紋が、光を吸って呼吸している。
 午前中、名前を呼ばれて足がもつれたけど、いま“青”で呼ばれる感じは、悪くない。届く範囲が、少しだけ広がっただけ。
 ——それでも、違う。

 ポケットの中で、ケロスケが小さく指を鳴らす。

『午後は雲、ちょっと戻るぞ。気圧の谷、接近』
(天気予報かよ)

『お前の胸の気圧計、ピーピー鳴ってる』

 言い返そうとして、やめる。胸の中の針は、確かに少しだけ敏感だった。でも、いまは昼の光がそれを鈍らせてくれる。
 朱里が空にスマホをかざして、白河が笑い、スイが風を撫でる。アカツキが陽射しの形を切り取る。
 世界は、まだ明るい。

 水筒の蓋をひねる。冷たいお茶が喉を落ちていく。
 青い旗がもう一度、風に鳴った。午後の空は、少しだけ色を変えていた。けれど、波紋は、確かに広がっている。

 ◇

 食べ終わるころ、水筒の氷がひとつだけ鳴った。溶ける音に似て、少しだけ寂しい。
 旗を見上げると、青の波紋が、また光を返した。
 そのとき、真横から静かな声。

「——午前、いい動きだったね」

 神代が立っていた。いつの間に近づいていたのか分からない。白い陽が雲を透かし、彼の肩の線を淡く縁取る。

「朝の件、改めて助かった。あのマニュアルがなかったら、今ごろ何か起きてても不思議じゃない」

「……俺、ただ整理しただけで」

「雨宮の“気づき”で、“万が一”に備えられた。助かったよ」

 声の温度は一定。けれど、目の端だけが一瞬やわらぐ。白い影が、雲に入るみたいにかすかに揺れて、すぐ戻った。
 その一拍だけ、呼吸が細くなる。目を逸らす。視界の端で、白い光が滲んだ。どうしてか、心臓が水に沈んだように静かになる。

『来たな、蛇の目』
(黙ってて)

 言葉に出す代わりに、俺は唇を噛む。
 神代は進行表を胸の高さで整え、淡々と折り目をなぞった。その指先の動きが、やけに静かで目の奥に焼き付いた。
 
「副会長ー! 午後のリレー、打ち合わせ!」

 放送席の方から朱里の声。その明るさが、風を割る。
 神代は視線を外して「分かった」と短く返した。紙を持ち直す指が、また滑らかに動く。足音はやっぱり残らない。去ったあと、空気が一拍だけ冷えた。

 風が吹き抜けて、青い波紋が、ゆっくりと揺れる。
 午前が終わっただけなのに、胸の中の水面はもう、午後の風を待っていた。
 光が薄くなっても、空はまだ明るい。開幕の音は遠く続いている。

(……次の風が、どんな温度で来るかは、まだ分からない)

 そう思いながら、呼吸をひとつ整える。
 午後の合図を待つように。
 胸の奥で、小さな波がひとつだけ静かに跳ねた。
 
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