蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.22 蛇に睨まれた蛙(前)≪晴れのち曇り≫

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 午後になると、陰っていた雲が薄くほぐれて、光が縫い目からこぼれるみたいにグラウンドの上を撫でていった。砂の上に熱の膜が薄く重なり、スピーカーのしゃがれたBGMが遠くで跳ね返る。観覧席の色が、午前よりも少しだけ濃い。

 午後一発目の応援合戦は、まるで色の温度比べだった。赤は太鼓で地面ごと揺らし、黄は笑顔で空気を明るく染める。白は指先まで揃っていて、空気に筋道を引くみたいに美しい。青は静かに始まり、最後に波の音みたいな手拍子で締める。
 音の高さも力強さもバラバラなのに、熱と静けさが同じ空気に同居していた。砂の匂い、石灰、日焼け止めの匂い。薄い雲の向こうの光が、砂にやわらかく跳ね返る。

 その時、空気の温度が一段跳ね上がった。アカツキが青席の最前列で尻尾をひと振り。応援の波がもう一段高くふくらみ、グラウンド上に見えない熱の膜が薄く広がっていく。応援の熱が“良い熱”の限界を半歩だけ越えた。
 最初はただ盛り上がっただけだと思った。けれど、笑い声の質が少し変わった。冗談に返す声の温度が上がりすぎて、言葉の意味より勢いのほうが強くなる。観客席の端で「おい、言い過ぎだろ」と誰かが言って、隣の誰かが「冗談だって」と笑い混じりに返す。でも、その“冗談”にもう笑いが混ざらない。空気が乾き、ちょっとしたきっかけで火花が散りそうな気配が漂い始める。

 朱里が前列で旗を振る手を崩さないまま、わずかに眉を寄せた。アカツキの熱が“盛りすぎて”いるのに気づいたらしい。尾の火が風をあおって、ほんの一瞬、応援席の上の空気がゆらいで見えた。
 次の瞬間、誰かの肩が誰かの腕にぶつかり、小さなざわめきが波紋みたいに広がっていく。

 ちょうどその頃、俺は用具係の作業でロープの残りを運びながら、青と黄の観覧席の間を抜けていた。すると砂を踏む靴底の下でパキリ、と小さな欠片でも踏んだような感覚が走り、思わず足が止まる。
 ケロスケがポケットの中でぴくりと動いた。
『熱、偏ってる。ちょっと嫌な流れだな』
(嫌な、って何が)
 靴の下には何もない。気のせいか。足元を確かめながら首を傾げる俺に、ケロスケが急に小声で言った。
『湊、一歩下がって、後ろ』
(は? なに——)
 意味も分からず言われたとおりに足を引く。視界の端で、砂埃がふわりと舞い上がる。
 ケロスケが続けた。
『三つ数えて、両手を斜めに上げろ』
(何それ……)
 訳も分からないまま、言われた通りに構える。
 ——一、二。
 その瞬間、空気が湿る。風の流れがわずかにねじれ、前方のざわめきが膨らむ音。何かがぶつかる音がして、黄色の団旗が支柱ごと、ぐらりと傾いた。
  ——三。
 上げた両掌に、旗竿の先端がそのまま落ちてきた。金属の荷重が腕にのしかかり、肩ががくりと沈む。偶然にしては出来すぎだ。反射で掴んだが、不意打ち過ぎて、重。……一人じゃ、支えきれない。

「——貸して」
 横から伸びた神代の腕が、中ほどを支えた。視線を向ける間もなく、旗の重みが分散して安定する。二人で支えた旗は、ゆっくりと元の角度に戻った。
 傾いた支柱の先には、すぐ近くにいた女子生徒がしゃがみこんでいた。もう少し遅ければ、彼女の肩に直撃していたかもしれない。そんな想像が一瞬遅れて肝を冷やした。支えた手に伝わる振動が、まだ脈みたいに残っている。

「悪い、大丈夫か!」
 ぶつかった男子が頭を下げ、周囲の生徒たちがほっと安堵の笑いを漏らす。誰も怪我はないようだ。
「ストップ!ストップ! 深呼吸ー、いったんクールダウン!」
 すぐに朱里の声がその場に届いた。
 アカツキは耳を伏せ、尻尾を下げる。空気の波が鎮まるのに合わせ、スイが観覧席上をひと巡り。風が一斉に流れを取り戻す。熱が剥がれるみたいに、空気が一気に軽くなる。
 先生が駆け寄ってきた頃には、もう誰も騒いでいなかった。
 神代は支柱を元の位置に戻し、「助かった」とだけ言って手を離す。俺は手に残った振動を確かめる。さっき掴んだ部分だけ、少しだけ濡れている気がした。

『な? 三つでちょうどだろ』
(……また、出た?)
『お守りモードだ。触れる前に“厄”をはじいた』
(勝手に出すなよ)
『反射みたいなもんさ。お前が“嫌な空気”を感じた時、勝手に出る。今回は軽いやつだし、問題なし』
(“今回は”ね。……俺、傘差すタイミングも選べないのか)
『安全第一。お祓い代はタダだしな』
 ケロスケの声が少し得意げで、指先に残る水気がそれに合わせてぬるく感じた。
 これがケロスケのもう一つの能力——触れる前に厄を逸らす“祓い”。見えないのに、ちゃんとそこにいた証拠みたいで、少しだけ心強い。
 
「……俺も。助かった」
 言葉が口から出た瞬間、自分でも少し照れくさい。神代は短く視線を寄越して、「無事ならそれでいい」とだけ答えた。穏やかな声だった。「声は穏やかだった。のに、目の奥の光だけが一瞬、冷たかった。
 俺はロープの束を持ち直す。朱里がこちらを見て、アカツキの頭を撫でた。あいつの笑顔が「セーフ!」とでも言うみたいで、俺もそれでようやく安心できたように肩の力が抜ける。
 風が通り抜け、旗がいつもの音で鳴った。何事もなかったみたいに、空気の温度が戻る。
 でも、手のひらの温度だけは、少しだけ高いままだった。

 ◇
 
 騎馬戦の砂煙が風に舞う。その向こう、次の短距離走の出場列に神代がいた。白いユニフォームの袖を一折りして、スターティングブロックに指を添えている。その姿を、何人かの女子がスマホ越しに追っていた。黄色い囁きが、風に乗って届く。横顔は、いつも通り整っている。けれど、校舎の中よりも“生きて”見えた。風の中で、呼吸している感じ。
 見ないようにしていたのに、目が勝手に追う。やめろと思うのにピントが合う。旗の布越しに、光と影が混ざる。眩しさの輪郭をぼかすように、風が吹いた。
『蛇、人気者だな。観客も沸いてる』
(知ってる)

 スタートの号砲で空気が弾けるように震える。神代の身体が砂を蹴って、一直線に伸びた。フォームに無駄がない。追い風を味方につけたみたいに滑らかで、速い。
 観覧席が「怜先輩!」「かっこいい!」と一段高く揺れる。歓声の波が遠くから押し寄せてきて、俺の足元で波打つ砂の音に変わった。
 俺は支柱の角度を直すふりをして、視野の端でだけ追った。怖いなら、見なければいい。けれど、目の奥には、白いユニフォームの残像がまだ残ったまま消えない。 
 ゴールの瞬間、白が先着。わー、とも、きゃー、ともつかない白席の歓声が大きく空に跳ねて、青の旗もつられて大きく鳴った。俺は支柱を握り直すと、木のささくれが指に触れた。そのチクリとした痛みが、現実を思い出させる。

 ふと顔を上げた時、神代がこちらの方を見た気がした。距離があるのに、目の奥の温度だけが妙に届く。だが、次の瞬間にはもう前を向いていて、光の方へ走り抜けていった。
 その背中の向こうは、まるで別の季節みたいに眩しかった。
 
(住む世界が違う、ってこういうのを言うんだろうな)
 少し強い風が吹き抜けて、青い旗が波打つ。その音が遅れて胸に届いた。俺のいる場所の光は、どこか淡い。同じフレームにいるのに、焦点の合う距離が違う。
 揺れる青の陰が足もとを撫でて、そこだけ少し冷たかった。
 
 ◇
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