蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.23 蛇に睨まれた蛙(中)≪晴れのち曇り≫

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 ◇

「続いての競技は——借り物競走。今年は“人”も可となってます!」
 スピーカーから流れた声に、青の観覧席が一段高く沸いた。出走者リストに「伏見」の文字。
『ぴっ』
 スイが白河の肩で短く鳴く。白河が「お、来たな」と笑った。
 進行役の三年生が箱の中をがさがさとかき回しながら、「ちゃんと最後まで手に持ってゴールしないと無効なー」と言うと、会場に砂の音と笑いが広がる。
 走って、途中でカードを引き、お題に合う“モノ”や“人”を連れてゴールするあれだ。
 青の一走は、伏見 朱里。
「ふっしー!ファイト!」「朱里、行ってこーい!」
 観覧席から飛ぶ声援に、アカツキが『まかせて』とでも言うみたいに尻尾を左右に振り、朱里はスタートラインに立つ。肩から腰の線まで、無駄のないスタイルの良さが目立ち、立っているだけで視線を集めていた。 
『青狐、発進』
(アニメ見過ぎだろ。……勝手に命名するな)

 スタート地点の朱里は手首をほぐしながら、こちらに向かってわざとらしく片目をつぶった。その仕草に、周囲の女子が「きゃー」と一斉に黄色い歓声を上げる。
 (ああ、ファンサか)
 そう思うと、朱里との立つ場所の温度差をしみじみと感じて、そしてちょっと可笑しかった。あいつの視力には届かないと思いながらも、どこかで“見られた”気がしてしまったのは気のせいだ。

 ピストルの音と共に、朱里が走り出す。最初のポイントで立ち止まり、カードを一枚引いた。
 掲げられたお題は——「字が綺麗な人」。
 各レーンで次々と掲げられていくお題に、観覧席がわーっと一斉にざわめく。わりとまともなお題だな、と思っていると、「私!」「こっちこっち!」と周囲で次々に手が挙がる中、朱里は首を一度だけ傾けて、迷いなく俺を見た。その目がまっすぐに刺さって、思考が止まる。
 
「湊、貸せ」
「えっ」
(いや、他にもいるだろ)
「“字が綺麗な人”、行くぞ」
「いや、俺いま旗の——」
 そのまま手を取られた。断るより早く、身体が引っ張られる。観覧席から「おおー」と笑いと歓声が後ろから押し寄せる。朱里の手は、想像よりもずっと熱かった。その熱が、手首を伝って体の奥にじんわり届く。
『はい、ヒロイン強制召集~!』
(誰がだよ⋯⋯)
「急げ。タイム競ってる」
「わ、分かってるけど——」

 判定員にお題札を見せる。「OK!」のサイン。
 朱里はそのまま手を離さず、次の地点へ走る。息が合わなくても、歩幅が自然に揃うのが腹立たしい。
 次のお題は——「落ち着く人」。
 朱里がカードを見て、また俺を見る。
「……“落ち着く人”」
 ほんの一瞬、目が合う。その瞬間の朱里の笑いは、挑発でも冗談でもなく、何かを確かめるように穏やかだった。
 頷き方に迷いなくて、ずるいと思った。
「うん。じゃ、続投な。声が落ち着く」
(落ち着いてないけど)
 朱里の指に少しだけ力が込められた気がして、喉がひりつく。心臓はさっきから忙しい——走ってるせいだと思いたい。
 観覧席から「同一人物でもいいのかー!」と笑いが起こり、係の先輩が「該当ならセーフでーす!」と返す。笑いと拍手が重なって空気が熱を持った。
『字がきれいで落ち着く。はい、湊の称号、決定~』
(やめてくれ)
 
「行くぞ」と言った朱里の手が、また少しだけ強くなる。指が重なる。
 俺たちの影が白線の上でひとつに重なる。手を繋いだまま、ゴールテープはもう近い。
 
 観客席の音が遠のく。
 足音、呼吸、心臓の音。全部が混ざって、世界が少しスローモーションになる。
 ——触れてる。
 走る勢いのまま、手のひらの熱が心臓の鼓動と同期する。

 テープが胸に触れる瞬間、顔を上げた。
 視界の向こう、運営テントの下に神代 怜がいた。進行表を持ったまま、静かにこちらを見ている。遠いのに、視線が届く。
 その肩口で、白い影がわずかに動いた。蛇。
 ——あ。
 いつもの“見ないふり”が遅れた。
 刃の背で皮膚を撫でられたみたいに、背中が冷たくなる。呼吸が一拍抜けた。熱が冷水を浴びせられたように一気に冷やされる。
(外したいのに、外せない)
 
 歓声が波のように押してきて、その音でようやく身体の感覚が戻る。
 気づけば、まだ朱里の手を握っていた。肺が焼けるように熱いのに、心臓の奥は冷えている。
 テープの切れ端が風に揺れて、砂に落ちた。名前が呼ばれる前に、視線を足元へ落とす。
 砂。スパイク跡。白いライン。さっき見た“眼差し”の残像。違うもので視界を埋めても、そこへ意識が引き戻される。
 
「ナイス。“最速で二枚達成”はポイント高い」
 朱里が息を整えながら笑う。肩で上下する呼吸が、マイク越しじゃなく生の温度で響いた。
「……お前、ずるい」
「何が」
「お題の解釈」
「勝つ気で来てるからな」
 朱里の笑いが風に混ざる。優しいのに、少し遠い。そんな声だった。
 その笑顔を見た瞬間、胸の奥がほんの少しだけ柔らかくなって、それ以上文句を言えなくなった。
 
 繋いでいた手がようやく離れる。
 掌に残った熱が、粉砂糖みたいに指の間から落ちていく気がした。
 掛け声と足音と、砂の匂い。グラウンドには夏の手前が集められていて、空だけがまだ春のままだった。

 ◇
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