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Ep.24 蛇に睨まれた蛙(後)≪晴れのち曇り≫
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◇
リレーの決勝開始までのあいだに、俺は青の用具係の仕事でコースロープの張り直しと、観客席のゴミ袋交換を終えた。雲の流れが速い。風が抜けるたびに、旗が一斉に鳴って色に音がつく。掌の汗に石灰が粉を吹き、指先の感覚が少し曖昧になる。作業に集中していれば、胸の奥のざらつきも沈んでいられる——はずだ。
競技が続くグラウンドの外で、ゴミ袋を縛って持ち上げたところを、体育の先生に呼び止められた。
「雨宮、ちょうど良かった。予備のラインテープとバトン、それから旗用のロープ。体育倉庫から頼めるか?今ちょっと人手足りなくて」
頼まれると断れないのは、たぶん性分だ。
「分かりました」
グラウンドの端まで歩くと、歓声の尾が少し遅れてついてくる。半分だけ開いた倉庫の扉を押すと、土と石灰と油の匂いがひやりと顔を撫でた。コンクリの床に白い粉、金属ラック、縄跳びの束、積み上がったコーン。大綱の太い麻縄が壁ぎわで眠っている。
遠くの歓声が壁越しに聞こえる。外の熱気が引くと、心拍も半拍だけ落ちた。朝から沢山の音に晒されていたから、こういう静けさは呼吸を落ち着かせてくれる。
ラックのタグに「ロープ」「コーン」「杭」とある。タグを辿って屈み、バトンの箱を引き寄せる。ラベルの端が剥げて、指に粉がつく。白い筒がいくつも転がり、一本が足もとまで逃げていった。
拾おうとして腕を伸ばし、ロープの段ボールとの隙間へ手を差し入れる。耳元で紙がはらりと鳴り、触れた筒を手前に転がして——掴み損ねた。
「——雨宮」
扉の隙間で光が途切れ、影が入ってくる。足音はほとんどしないのに、空気の密度が先に届く。
神代 怜。ざわりと皮膚が先に反応するの、やめてほしい。顔の半分が斜めの光で縁取られて、肩口には白い気配。いつも見える。見えるけど、見ないふりをしてきた。
「あ、……神代くん」
(見るな。見たら“持ってる”って、悟られる)
分かってるのに、目がうっかりそっちに流れる。喉の奥が冷える。
「用具の補充。杭と、安全柵のロープが足りなくて」
「……ああ、そこに」
声は普通に出た。出た気がした。段ボールの口を開ける。麻の匂い、指先のざらつき。ロープを引き出そうとしたとき、肩に視線が触れた。気づかないふりで、視線はロープの山に落としたまま指に力をこめる。
ラックの間に影が折れて、距離が縮む。彼が近づく気配に肩がこわばる。視界の隅で白い蛇がするりと覗き、光に溶けた。見ない。今は——見ないはずだった。
「ロープ、……これで——」
「……なんで、俺だけ見ないの?」
思っていたより近い距離だった。
ロープの束が手の中で一瞬止まり、心臓が不規則に跳ねる。俯いた視界に白い光が滲む。見られているのが分かるのに、目は上げられない。逃げ腰は、もう染みついて癖になっている。
『見んな。目、合わせんな、湊』
(わかってる。……見ない)
「別に……見ないとか、そういうんじゃ……」
「嘘」
息が止まった。短い音で逃げ場を消される。
ロープの端がすべって、床にやわらかい音を落とした。埃がふわりと舞い、光の筋で細かく光る。
神代の声は低いけど、怒鳴らない。柔らかいのに、譲らない。静かな苛立ちと静かな寂しさが混ざるその響きが、胸の奥を刺す。悪いことをしている自覚が、言葉より先に体に来る。
「ずっと逃げてる」
じゃり、と神代が一歩さらに距離を詰める。光がずれて、顔のもう半分が現れる。白い蛇が肩からするりと首を伸ばす。細い鱗、光と影の間の色。俺はロープをたぐるふりをしながら、視線を落とす。
「……」
足が半歩、勝手に後ろへ下がる。背中にラックが触れて、慌てて違う角度へもう半歩。踵が段ボールの角に当たり、上の箱がカタン、と傾いた。頭上で積み上げた箱が揺れる。
その瞬間、手首を掴まれた。
下がった一歩分を、引き戻される。冷たくない。驚くほど普通の体温。——普通じゃないのは、今の俺のほうだ。指の圧が脈に触れ、拍がそこだけ大きく響く。傾いた段ボールが落ち着き、空気が小さく揺れた。
顔が近い。計算をミスったような距離。息が頬をかすめる。神代の肩口から伸びた白蛇が、真っ白の鱗の輪郭でこちらを覗き込む。縦の線が走る瞳に、俺が映る。
視線が、合った。
神代の黒目に、白い縦の線——蛇の目。
蛇だ。
蛇に睨まれた蛙。言葉通りに、どこかのスイッチが「停止」に入る。音が薄れ、冷たさが縦に走り抜けた。喉の奥の細い管がきゅっと閉じる。
怖い。怖いのに——逸らせない。
『息止めろ、見んな!』
(分かってる。でも視線が逃げられない)
胸の奥がざわっと泡立つ。
ケロスケが飛び出しそうに暴れて、布の内側で輪郭がふくらむ。
『やばい、出る! 湊、落ち着け!』
擬態がほどけかける。青白い光が喉まで上がってくる感覚に焦りが差す。
白蛇が首をわずかに傾けた。
——見られたか?背筋が跳ねる。
神代の目がごく小さく揺れ、感情の電流が一瞬だけ露わになって止まる。
神代とまともに目を合わせたのは、たぶん初めて。しかも、こんな近い距離で。動け。逃げろ。そう思うのに体が遅れる。怖い。だから離れろ。なのに、そこに縫い留められる。足に力を入れ直す——そのとき。
「湊ー? バトン、見つかったかー?」
外から朱里の声。空気が破裂して、現実が戻る。
神代の手が離れ、瞳から白い縦線が消える。音が戻るのに、弾む心拍だけが整わない。息を吐く音もうまく出ないまま、何も言えなかった。
神代は一拍黙ってから、「……ごめん」とだけ言った。温度はいつもの副会長の声。それでも、さっきの静かな声が耳の内側にこびりついて離れない。
ロープを拾い上げる指は静かで、扉の隙間から出ていく足音は相変わらず残らない。扉がひときわ明るくなって、また半開きの状態に戻る。
鉄と麻縄の匂いだけが、細く長く尾を引いた。
音が完全に消えたあとも、俺はしばらく動けなかった。やがて膝の裏から力が抜けて、棚の支柱に手をつく。冷たい金属の感触が、やっと現実の温度をくれる。
肺の奥にたまっていた空気を、一気に吐き出す。全身で脈打つ心臓を落ち着かせたかった。焼けるように熱い喉から漏れる荒い息が、自分のものではないみたいに聞こえて、少し笑ってしまう。笑ってる場合じゃないのに。
(……何だったんだ、今の)
怖かった。確かに。
けれど邪魔をする感覚がある。
——“見られたかもしれない”。それが一番の恐怖だ。
普通でいるために積み上げてきた“見ないふり”が、効かなくなる予感。喉の奥で言葉が迷子になる。
手首の赤みを見た瞬間、頬の内側がぎゅっと疼く。掴まれたことより、掴まれた手を振りほどけなかった事実が痛い。
嫌いなわけじゃない。だからこそ避けることに罪悪感が混ざる——それでも、逃げないと。今は。
(あぶなかった……)
棚にもたれて、天井を仰ぐ。鉄の梁を抜ける光が、さっきの瞳の縦線に重なる。瞼の裏に、白い鱗の輪郭が焼きついて、瞬きしても消えない。怖い。
でも、それだけじゃない。もっと厄介な何かが混ざっている。知りたくないそれを、俺は吐き出すように何度か深呼吸した。
床の白い粉を足で払って、落ちたバトンを拾う。指が微かに震えて、筒がコツ、と小さな音を立てた。
喉はまだ少し震えが残るけど、声は出る。……たぶん。
「バトン、あった。ロープも」
外に向かって言う。声は自分のものに聞こえた。胸の奥では、さっきの泡がまだ消えずに灯っている。
(まだ見られてはない。けど、気づかれたかも)
箱の蓋を閉める音が、倉庫の薄い影にコトンと響いた。
扉を押して外に出ると、音が一気に戻る。歓声、マイク、太鼓、砂を踏む靴。世界の音が急に近くなって、少し眩しい。
扉が背中で閉まる瞬間、内側の空気が切り取られていくのに、不安だけがしっかりついてきた。
「お、見つかったか。助かった」
探しに来ていたらしい朱里が、テントの陰で手を振る。いつもの調子だ。受け取るように笑って、俺の腕の荷物を一瞥する。ほんの一瞬、視線が顔で止まった気がしたが、開きかけた口を閉じ、すぐに運営テントの方へ向き直る。
「先生が『急ぎで』って」
「ああ、今持ってく。……ありがと」
歩き出すと、風が向きを変えた。さっきまで乾いていた空気の端に、水の匂いが混ざる。旗の布が低い音で鳴って、色が少しだけ暗く見えた。
『湿度、上がってきた』
(閉会まで降らなきゃいいけど……)
物資を引き継いで届けにいく朱里の背を見送りながら、視線が勝手にグラウンドの白い屋根へ流れる。神代の姿が視界の端をかすめた——見えたのか、思い出したのか、自分でも分からない。
手首には、まだ掴まれた形の記憶が残る。そこに重なるのは、見られたかもしれないという恐怖と、避けてしまっていることへの罪悪感。ふたつが同時に喉を塞ぐ。
空はさっきより低い。雲の縫い目がゆっくり閉じていくみたいに光が弱まり、スピーカーのハウリングが湿気を帯びる。観覧席のビニール袋が、内側にふっと吸いついた。
アナウンスが鳴る。
「このあとは、代表者リレーです」
旗が一斉に鳴いた。青い波紋が、薄い陽をかろうじて跳ね返す。
手のひらに残った埃を払って、三拍で呼吸をそろえた。
(見ないふりは、もう効かないかもしれない……それでも)
風がさっきより冷たい。青い布が大きく揺れ、支柱のささくれが指に触れる。現実の手触りだけが確かに残る。雲はさらに寄って、グラウンドの影がじわじわと濃くなった。遠くと近くの音が重なり、午後の笛が鳴る。
——雨の匂い。
指先の小さな棘は、まだ抜けない。
リレーの決勝開始までのあいだに、俺は青の用具係の仕事でコースロープの張り直しと、観客席のゴミ袋交換を終えた。雲の流れが速い。風が抜けるたびに、旗が一斉に鳴って色に音がつく。掌の汗に石灰が粉を吹き、指先の感覚が少し曖昧になる。作業に集中していれば、胸の奥のざらつきも沈んでいられる——はずだ。
競技が続くグラウンドの外で、ゴミ袋を縛って持ち上げたところを、体育の先生に呼び止められた。
「雨宮、ちょうど良かった。予備のラインテープとバトン、それから旗用のロープ。体育倉庫から頼めるか?今ちょっと人手足りなくて」
頼まれると断れないのは、たぶん性分だ。
「分かりました」
グラウンドの端まで歩くと、歓声の尾が少し遅れてついてくる。半分だけ開いた倉庫の扉を押すと、土と石灰と油の匂いがひやりと顔を撫でた。コンクリの床に白い粉、金属ラック、縄跳びの束、積み上がったコーン。大綱の太い麻縄が壁ぎわで眠っている。
遠くの歓声が壁越しに聞こえる。外の熱気が引くと、心拍も半拍だけ落ちた。朝から沢山の音に晒されていたから、こういう静けさは呼吸を落ち着かせてくれる。
ラックのタグに「ロープ」「コーン」「杭」とある。タグを辿って屈み、バトンの箱を引き寄せる。ラベルの端が剥げて、指に粉がつく。白い筒がいくつも転がり、一本が足もとまで逃げていった。
拾おうとして腕を伸ばし、ロープの段ボールとの隙間へ手を差し入れる。耳元で紙がはらりと鳴り、触れた筒を手前に転がして——掴み損ねた。
「——雨宮」
扉の隙間で光が途切れ、影が入ってくる。足音はほとんどしないのに、空気の密度が先に届く。
神代 怜。ざわりと皮膚が先に反応するの、やめてほしい。顔の半分が斜めの光で縁取られて、肩口には白い気配。いつも見える。見えるけど、見ないふりをしてきた。
「あ、……神代くん」
(見るな。見たら“持ってる”って、悟られる)
分かってるのに、目がうっかりそっちに流れる。喉の奥が冷える。
「用具の補充。杭と、安全柵のロープが足りなくて」
「……ああ、そこに」
声は普通に出た。出た気がした。段ボールの口を開ける。麻の匂い、指先のざらつき。ロープを引き出そうとしたとき、肩に視線が触れた。気づかないふりで、視線はロープの山に落としたまま指に力をこめる。
ラックの間に影が折れて、距離が縮む。彼が近づく気配に肩がこわばる。視界の隅で白い蛇がするりと覗き、光に溶けた。見ない。今は——見ないはずだった。
「ロープ、……これで——」
「……なんで、俺だけ見ないの?」
思っていたより近い距離だった。
ロープの束が手の中で一瞬止まり、心臓が不規則に跳ねる。俯いた視界に白い光が滲む。見られているのが分かるのに、目は上げられない。逃げ腰は、もう染みついて癖になっている。
『見んな。目、合わせんな、湊』
(わかってる。……見ない)
「別に……見ないとか、そういうんじゃ……」
「嘘」
息が止まった。短い音で逃げ場を消される。
ロープの端がすべって、床にやわらかい音を落とした。埃がふわりと舞い、光の筋で細かく光る。
神代の声は低いけど、怒鳴らない。柔らかいのに、譲らない。静かな苛立ちと静かな寂しさが混ざるその響きが、胸の奥を刺す。悪いことをしている自覚が、言葉より先に体に来る。
「ずっと逃げてる」
じゃり、と神代が一歩さらに距離を詰める。光がずれて、顔のもう半分が現れる。白い蛇が肩からするりと首を伸ばす。細い鱗、光と影の間の色。俺はロープをたぐるふりをしながら、視線を落とす。
「……」
足が半歩、勝手に後ろへ下がる。背中にラックが触れて、慌てて違う角度へもう半歩。踵が段ボールの角に当たり、上の箱がカタン、と傾いた。頭上で積み上げた箱が揺れる。
その瞬間、手首を掴まれた。
下がった一歩分を、引き戻される。冷たくない。驚くほど普通の体温。——普通じゃないのは、今の俺のほうだ。指の圧が脈に触れ、拍がそこだけ大きく響く。傾いた段ボールが落ち着き、空気が小さく揺れた。
顔が近い。計算をミスったような距離。息が頬をかすめる。神代の肩口から伸びた白蛇が、真っ白の鱗の輪郭でこちらを覗き込む。縦の線が走る瞳に、俺が映る。
視線が、合った。
神代の黒目に、白い縦の線——蛇の目。
蛇だ。
蛇に睨まれた蛙。言葉通りに、どこかのスイッチが「停止」に入る。音が薄れ、冷たさが縦に走り抜けた。喉の奥の細い管がきゅっと閉じる。
怖い。怖いのに——逸らせない。
『息止めろ、見んな!』
(分かってる。でも視線が逃げられない)
胸の奥がざわっと泡立つ。
ケロスケが飛び出しそうに暴れて、布の内側で輪郭がふくらむ。
『やばい、出る! 湊、落ち着け!』
擬態がほどけかける。青白い光が喉まで上がってくる感覚に焦りが差す。
白蛇が首をわずかに傾けた。
——見られたか?背筋が跳ねる。
神代の目がごく小さく揺れ、感情の電流が一瞬だけ露わになって止まる。
神代とまともに目を合わせたのは、たぶん初めて。しかも、こんな近い距離で。動け。逃げろ。そう思うのに体が遅れる。怖い。だから離れろ。なのに、そこに縫い留められる。足に力を入れ直す——そのとき。
「湊ー? バトン、見つかったかー?」
外から朱里の声。空気が破裂して、現実が戻る。
神代の手が離れ、瞳から白い縦線が消える。音が戻るのに、弾む心拍だけが整わない。息を吐く音もうまく出ないまま、何も言えなかった。
神代は一拍黙ってから、「……ごめん」とだけ言った。温度はいつもの副会長の声。それでも、さっきの静かな声が耳の内側にこびりついて離れない。
ロープを拾い上げる指は静かで、扉の隙間から出ていく足音は相変わらず残らない。扉がひときわ明るくなって、また半開きの状態に戻る。
鉄と麻縄の匂いだけが、細く長く尾を引いた。
音が完全に消えたあとも、俺はしばらく動けなかった。やがて膝の裏から力が抜けて、棚の支柱に手をつく。冷たい金属の感触が、やっと現実の温度をくれる。
肺の奥にたまっていた空気を、一気に吐き出す。全身で脈打つ心臓を落ち着かせたかった。焼けるように熱い喉から漏れる荒い息が、自分のものではないみたいに聞こえて、少し笑ってしまう。笑ってる場合じゃないのに。
(……何だったんだ、今の)
怖かった。確かに。
けれど邪魔をする感覚がある。
——“見られたかもしれない”。それが一番の恐怖だ。
普通でいるために積み上げてきた“見ないふり”が、効かなくなる予感。喉の奥で言葉が迷子になる。
手首の赤みを見た瞬間、頬の内側がぎゅっと疼く。掴まれたことより、掴まれた手を振りほどけなかった事実が痛い。
嫌いなわけじゃない。だからこそ避けることに罪悪感が混ざる——それでも、逃げないと。今は。
(あぶなかった……)
棚にもたれて、天井を仰ぐ。鉄の梁を抜ける光が、さっきの瞳の縦線に重なる。瞼の裏に、白い鱗の輪郭が焼きついて、瞬きしても消えない。怖い。
でも、それだけじゃない。もっと厄介な何かが混ざっている。知りたくないそれを、俺は吐き出すように何度か深呼吸した。
床の白い粉を足で払って、落ちたバトンを拾う。指が微かに震えて、筒がコツ、と小さな音を立てた。
喉はまだ少し震えが残るけど、声は出る。……たぶん。
「バトン、あった。ロープも」
外に向かって言う。声は自分のものに聞こえた。胸の奥では、さっきの泡がまだ消えずに灯っている。
(まだ見られてはない。けど、気づかれたかも)
箱の蓋を閉める音が、倉庫の薄い影にコトンと響いた。
扉を押して外に出ると、音が一気に戻る。歓声、マイク、太鼓、砂を踏む靴。世界の音が急に近くなって、少し眩しい。
扉が背中で閉まる瞬間、内側の空気が切り取られていくのに、不安だけがしっかりついてきた。
「お、見つかったか。助かった」
探しに来ていたらしい朱里が、テントの陰で手を振る。いつもの調子だ。受け取るように笑って、俺の腕の荷物を一瞥する。ほんの一瞬、視線が顔で止まった気がしたが、開きかけた口を閉じ、すぐに運営テントの方へ向き直る。
「先生が『急ぎで』って」
「ああ、今持ってく。……ありがと」
歩き出すと、風が向きを変えた。さっきまで乾いていた空気の端に、水の匂いが混ざる。旗の布が低い音で鳴って、色が少しだけ暗く見えた。
『湿度、上がってきた』
(閉会まで降らなきゃいいけど……)
物資を引き継いで届けにいく朱里の背を見送りながら、視線が勝手にグラウンドの白い屋根へ流れる。神代の姿が視界の端をかすめた——見えたのか、思い出したのか、自分でも分からない。
手首には、まだ掴まれた形の記憶が残る。そこに重なるのは、見られたかもしれないという恐怖と、避けてしまっていることへの罪悪感。ふたつが同時に喉を塞ぐ。
空はさっきより低い。雲の縫い目がゆっくり閉じていくみたいに光が弱まり、スピーカーのハウリングが湿気を帯びる。観覧席のビニール袋が、内側にふっと吸いついた。
アナウンスが鳴る。
「このあとは、代表者リレーです」
旗が一斉に鳴いた。青い波紋が、薄い陽をかろうじて跳ね返す。
手のひらに残った埃を払って、三拍で呼吸をそろえた。
(見ないふりは、もう効かないかもしれない……それでも)
風がさっきより冷たい。青い布が大きく揺れ、支柱のささくれが指に触れる。現実の手触りだけが確かに残る。雲はさらに寄って、グラウンドの影がじわじわと濃くなった。遠くと近くの音が重なり、午後の笛が鳴る。
——雨の匂い。
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