蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.26 空のしずく、走る音(中)≪曇りのち雨≫

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 ◇

 アンカーの列が前へ出る。青と白が隣に立つ。
 同じ雨の下に立っているのに、見えている世界がきっと違う。
 朱里は髪を払って首筋を叩き、息を吐く。湿った空気の中で、その吐息だけが熱を帯びて揺れた。頬の筋肉がわずかに引き締まる。
 神代は視線を正面に据えたまま、肩の上で白い気配が細く揺れた。
 俺は見ないようにして、それでもやっぱり見ていた。
 
 ついにアンカーへとバトンが渡る。
 青が、ひと呼吸遅れて白を追う。朱里の足音は、雨に混じっても分かる。地面を“蹴る”音。神代の走りは“滑る”ように無駄がない。水の膜を裂くみたいに、二人のフォームが交差していく。
 どちら表情にも、もういつもの余裕がないように見えた。顔から力の抜けた笑いが消えて、純粋な熱だけが残っている。朱里の肩の筋肉が波打ち、神代の足の軌跡が水を弾く。走るというより、まるで何かを削り取るみたいな動きだった。

 胸が痛い。何も飾らず、ただ走ることだけで前に出られる人たちの中で、立ち止まっているのは俺だけだった。
 追いつけないと分かっているのに、目が離せない。速さの中にある“まっすぐさ”が、羨ましくて、まぶしくて、怖い。
 鼓動が強すぎて、痛みと区別がつかない。俺はただ見ているだけなのに、息が合わない。肺が縮むたび、世界の音が半歩遅れてくるようだった。——それでもまだ立ち尽くすしかできない自分は、ひどく見苦しい。
 
 コーナーで、朱里がインに入り込んだ瞬間、自分の拳が自然に握られていた。
 このとき、行け、と思ったのか。抜かれるな、と思ったのか分からない。
 どっちでもいい。ただ、どちらでも苦しかった。
 
 水たまりが軽く跳ねて、脛に冷たさが刺さる。
 二人の影が、雨の膜の向こうで少しずつ大きくなる。
 水を跳ね上げて走る姿に、もう“いつもの”明るさはない。整ったフォームも、余裕の笑みも剥がれ落ちて、本気の熱だけが残っていた。
 髪もユニフォームも雨に濡れ、土を蹴り上げながら走る二人は、ただ真っ直ぐで、痛いほど格好よかった。呼吸の合間に、それだけが胸に突き刺さる。勝ちたいとか負けたくないとか、そういう次元の前にある“生きている”動きだった。
 
(こんな顔、知らない。……見たことない)
 
 心臓が全身で鳴っている。なんで、こんなに苦しい。俺はただ、見てるだけなのに。勝敗じゃない。置いていかれるような怖さ。
 そのくせ、見逃せない。目を逸らしたら、何かが終わる気がして。
 気づけば、足が勝手に前へ出ていた。テントの外、雨の境界に靴の先が触れる。冷たい水が滲んでも、それすら感じない。
 
 雨脚が強まって、他の音がすべて遠くに沈む。
 世界の低音だけが残って、足音と心臓の鼓動だけが、前へ出た。
 視界の縁が白く滲む。
 雨が、二人以外の輪郭を削っていく。
 
 目の奥に、かすかに浮かぶ声があった。
(突然降る雨が……輪郭が霞むの、好きだって——)
 
 神代の声が、記憶の底から浮かぶ。“世界が整理されて、落ち着く”と言っていた。
 あの時は意味が分からなかったけれど、今は分かる。見たいものだけが、残り、見たくないものほど、くっきりと浮かぶ。
 それきり忘れたはずの台詞が、今、雨粒の間を抜けてきた。

 ゴール前、二人の肩が並んだ。白い靴と青い靴。雨の粒が二人の間を走って、境界を消していく。
 瞬きの間に、白と青が同時にテープを切った。

 会場中が固唾をのんで見守る、呼吸の止まる一拍。審判が旗を交差させてから、白を上げる。
 歓声が爆ぜて、地面が震えた。
 それでも俺の耳には、雨と心臓の音だけしか入ってこない。

 朱里が肩で息をしている。神代も同じように呼吸を荒げていた。ほんの一瞬、二人の視線が絡んで、何かを言った。けれど雨音がその言葉をさらっていく。
 代わりに流れたのは、もっと濃いもの——勝敗ではなく、互いを知ってしまった者同士の、戻れない熱。
 
 拍手がその熱を塗りつぶす。
 俺はその輪の外で手を叩いた。誰よりも遅く、誰よりも長く。
 掌の真ん中が冷えていくのを感じながら。
 
(……遠いな)

 だから、届かない距離で叩き続けた。
 近づきたいのか、遠ざかりたいのか、自分でも分からない。ただ、立ち尽くす。
 心臓の熱が掌に届く前に、雨がそれを冷ましていった。

 ◇
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