蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.27 空のしずく、走る音(後) ≪曇りのち雨≫

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 ◇

 雨脚が一段強くなった。放送が「雨のため、閉会式を短縮します」と告げる。白い幕の下で教員たちが賞状の束をビニールで包み、動きだけが妙に現実的に戻ってくる。
 観覧席は傘の花で覆われ、歓声も笑いも雨音の膜に吸い込まれていった。青テントの屋根を叩く雨粒は規則正しく跳ね、音だけが呼吸のように残る。
 地面の水たまりは空を映す余裕を失い、ただ波紋だけが重なって、見たことのない模様を描き続けていた。

 テントに戻ってきた朱里にタオルを差し出すと、彼は笑って受け取った。その笑いはいつも通り明るいのに、喉の奥に言葉をひとつ隠しているようだった。
 言いかけて、やめた顔。飲み込んだ後味が、そのまま残って雨より重く残る。
 
「惜しかったな」
「勝たせたかったけどな。……まあ、次で取り返す」

 アカツキが尻尾の火を小さくして、タオルの水気に呼吸を合わせるみたいに揺らす。雨で火の匂いは薄れて、代わりに湿った土の匂いが強くなる。朱里は一瞬だけ外を見て、それから俺を見た。
「……変な雨だな」
「変な?」
「空の泣き方が、人間みたいだ」
 軽く笑って言う声が、冗談と本音のあいだで揺れる。そのまま朱里はもう一度、俺の顔を見た。

「顔、濡れてんの……それ、雨のせいだけか?」
「は?」
「なんか、泣いたみたいに見える」
 冗談にしては、声が静かすぎた。
 俺は返す言葉を探して、結局、笑うしかできなかった。笑えば、誤魔化せると思った。
 ——もし、この雨が俺のせいだったら。
 その言葉が喉の奥まで来て、そこで止まった。言ったら、朱里はどうするだろう。笑うか、引くか、怒るか。そんな想像をした瞬間、昔、笑い声といっしょに降ってきた、冷たい感情の断片が唐突に胸をかすめる。その記憶の温度だけで、言葉は喉の奥で固まった。
 ……言えるわけがない。
 だから、笑うしかなかった。
 
 朱里は「なんでもない」と言って、外へ顔を向ける。テントの縁から落ちた雫が、彼の肩をかすめて弾けた。
 その仕草ひとつが、やけに優しく見えた。
(——泣いてるみたい、か)
 胸の奥で、誰かが古い記憶を触った気がした。泣き方なんて、もう忘れていたのに。
 雨は、まだ止む気配を見せない。音が層になって、体育祭の熱を遠くへ押しやる。

 胸ポケットの内側で、泡立つ音。
 ケロスケが声を落とす。
『……もうすぐ、ばれるぞ。どっちにも』
(どっち?)

 答えは来ない。代わりに、いつもの忠告。
『蛇、まだ見てたぞ。目、合わせるなよ』
「なんかもう……見られてる気がする」
『気じゃない。あいつの白い方、完全にお前に焦点を合わせてる』
 笑ってみた。怖すぎて、声の調子が裏返る。出来の悪い冗談みたいな笑い。

「俺、そんなに目立たないタイプなんだけどな」
 返事の代わりに、雨が音を増やす。音が増えるたび、グラウンドの輪郭が削れていく。
 俺の声は、雨にまざってすぐ形を失った。
 
 残るのは、濡れた皮膚の感覚と、鼓動の音だけ。

 ◇

 閉会式は、雨の重さで押し流されるように簡潔に終わった。総合優勝の名前が読み上げられ、拍手が一斉に広がる。校長の声は雨音より遠く、誰の耳にも届いていない。生徒たちが列を組んで校舎へと引き上げていく。

 用具係が無言でコーンを集め、雨で張り付いたスタンドのゴミ袋を回収していく。俺もその中に混ざって動くのに、指先はまだ現実に触れきれない。ロープを巻く感覚が、さっきの体温を思い出させる。ひどく現実的な感覚。夢じゃないっていう証拠は、こういう形で残る。
 青の団旗は雨で重く垂れていた。布の端を摘まんで広げてみる。波紋は色を濃くして、息を止めて、それでも形を保っている。下へ、下へ。水は重力に従って落ちる。けれど、目の前の波紋は、まだ広がり続けていた。

「物資、回収終わった。撤収するぞー」
 先生の声で、俺はロープの結び目をほどき、旗の布を外した。雨を吸って、ずっしりと重さと冷たさが腕に乗る。
 朱里がテントの縁でタオルを絞っていた。絞られた水が、青い地面に落ちて、小さな水たまりをもうひとつ作る。

 ふと顔を上げると、雨の向こう、運営テントの白い屋根の下に、神代のシルエットが立っていた。距離がある。雨の膜もある。
 それでも、見ている——と、分かる。目が合わなくても、視線は届くのかもしれない。そんなふうに思う。怖いのに、確かめたくなる。確かめたくなるのに、足は動かない。

『雨宿り、しようぜ』
 ケロスケの声が、胸の奥の小石みたいに転がる。雨から、だけじゃないぞ、という意味で。

 俺は頷けなかった。代わりに旗の青をそっと抱えた。濡れた布が腕に張り付いて、冷たいのにすこし落ち着いた。
 目を閉じると、倉庫の匂いが遠くなる。目を開けると、雨の匂いが近づく。
(この雨、止んでほしいのに、止まってほしくない)

 矛盾ばかりが胸の真ん中で膨らんで、言葉の形にならない。雨の粒が、音だけで世界を満たしていく。
 あの二人みたいに、ちゃんと“動く”ことができたら、楽なのかもしれない。でも、動いたら戻れなくなる。壊れても戻る場所なんて、俺にはない。
 
 旗の波紋と水たまりの波紋が重なり、わずかにずれていく。
 青の波紋は、水の上でまた広がった。
 その広がりが、まるで自分以外のすべてが前に進んでいるように見えて——
 ほんの少し、息が詰まった。

 気づけば、足のつま先で濡れた地面に一本の線を引いていた。浅く、すぐに雨に消える線。けれど、その瞬間だけは確かに「ここにいる」と思えた。
 それが境界なのか、始まりなのか、自分でも分からないまま、線の先を見つめた。
 
 空の白は濃くなり、音はまだ続いている。
 顔を上げると、白い影はもういなかった。空だけが、まっすぐ降っていた。
 
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