蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.28 蛇の目、閉じられない(前)≪雨≫

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 体育祭から数日経つと、日常は音量をすこし絞っただけで元の位置に戻っていた。

 二年B組の放課後はいつも音が多い。課題の紙が擦れる音、椅子の脚が床を引っかく音、それより少し大きな笑い声。窓の外は鈍色で、空気はぬるい。
 そんな日こそ静けさが恋しくなる。にぎやかさの中にいると、自分の輪郭が少し曖昧になっていく。それも悪くないけど、今は少し沈んでいたかった。音のない方へ。

 朱里が男子の輪の中心で、どうでもいい勝敗について真顔で論じている。白河はスイを指先に止まらせ、羽の縁をくすぐっては『ぴ』と鳴かせて遊ぶ。
 俺はそんな日常の風景から少し離れた席でノートの端をそろえ、角の丸まりを親指でならした。紙の手触りが、胸の中の乱れを少しずつ均していく。そういう無意識の“整える動作”を体が勝手にやってくれるのはありがたい。——何も考えずに済む時間って、案外貴重だ。

『人間、平常運転モード復帰~。でもお前はまだ乱れてるぞ』
(データ取るな)
 俺の肩でケロスケがくぐもった笑いを漏らす。指先ほどの泡が教室の空気に弾けて消えた。

 チャイムが鳴って教室の空気がゆるむ。席を立つやつ、荷物をまとめるやつ、あちこちで椅子の脚がずれる音がする。
 その流れで、帰り支度を終えた白河と朱里が自然と俺の席の方へ寄ってきた。スイが白河の肩の上でふわりと浮き、朱里は手にしたプリントをぱらりと整える。

「お前らのチーム、いい線いってたな」
 白河が俺の机に手をつき、笑いながら身を乗り出す。
「まあ、最後は“蛇の一噛み”だったけどな」
「……その表現やめろって」
 俺の苦々しい声に隣でくつくつと笑い、朱里の指先が俺の机を軽く叩いた。
「湊、今日は図書の当番だろ? 無理すんなよ」
「平気」

 そう答えた声が、自分でも少し硬いなと分かった。胸の奥ではまだ、水面が静かに揺れている。時間が経っても、完全には乾かない場所がある。あの瞬間だけが、まだ現実と混ざらない。

 ◇

 廊下を抜けると湿った風が頬を撫でた。中庭の向こう、空が低く垂れこめている。いつの間にか雨が降り始めていたらしい。石畳の上に細かな波紋がいくつも重なっていた。

 生徒会棟を抜ける渡り廊下もあるけれど、あの棟の空気はまだちょっと苦手だ。というか敷居が高い。だから、俺はいつものように中庭を通る。
 噴水の水音と雨の音が混じって、境目が分からない。植え込みの葉が濡れて、土の匂いが濃くなっていた。緑の中に沈んでいくような感覚。息を吸うたび、胸のざわめきが少しずつ整っていく気がした。

『この匂い、落ち着くな。お前の“巣”みたいなもんだな』
(巣って言うな)
 ケロスケがポケットから顔をぴょこっと出した。声の響きまで湿っていて、まるでこの空気の一部みたいだ。

 中庭を抜けると、図書館のガラス壁が雨で白く曇っていた。自動ドアが静かに開くと、内側の空気がひんやりと肌を撫でる。紙とインク、それに布張り装丁の綿の匂い。外のぬるい空気とは違う、空調で整えられた深い冷たさ。半地下のせいか、光が柔らかく、静けさが濃い。
 傘をたたむ音がひとつ響いて、ようやく気づく。——今、ここにいるのは俺ひとりだ。

 外の雨音が屋根を伝って、ゆっくりと館内に染み込む。それが今日の空の“心拍”みたいに感じられた。

(……やっぱり、ここが一番落ち着く)

 でも、落ち着くという言葉の奥に、まだ“沈む”に近い重さがあった。そして静けさは、安らぎと同じ顔で孤独も連れてくる。
 そのことを、ようやく分かり始めていた。

 ◇

「職員会議入るから、あとはお願いね」
 司書の先生が伝票を束ねながら言った。
 閉館三十分前。鍵の束が手の中で軽く鳴る。施錠の手順を復唱すると、先生は「頼んだわね」とだけ残して、ゆっくりとドアが閉まった。金属の音が遠ざかり、図書館の音がまるごと沈む。

 残ったのは雨と紙の匂い。空調が静かに息をして、ページの端が小さくめくれた。音の少なさが、逆に全身を包む。
(貸し切りの図書館って、世界で一番贅沢かもしれない)

 そう思った瞬間、胸の奥がふわりと浮いた。照明の光は白く柔らかく、棚のガラスに淡く跳ね返っている。外の雨が濁っている分、ここだけが乾いた明るさで満たされていた。その温度が、妙に心地いい。まるで、自分がきちんとした形を持てる場所みたいで。

『静かすぎるな。人の気配ゼロ』
「いいじゃん、貸し切り最高」

 返却本のバーコードを読み取って、背表紙をなぞる。分類番号を目で追いながら所定の棚に戻していく。こういう単純で規則性のある作業が好きだ。誰にも触れず、考えを並べ替えられる時間は、心のノイズが静かになっていく。

 窓の外では、雨粒が蛍光灯の光を受けて銀色に跳ねた。静けさの中では、音も光も、すべての輪郭がくっきりする。その澄んだ空気の中で、自分もその一部になったような錯覚さえ感じてくる。
(ここが、俺の“ホーム”だ)

 そう思った瞬間、雨脚が少し強くなった。
『鼓動、上がってる。雨とリンクしてるぞ』
「だから、観測すんなって」
 冗談めかして言い返すけれど、図星だった。
 落ち着いてるつもりで、たぶん、落ち着こうとしているだけ。

 背表紙の上を滑る指先が、布と紙の境目をゆっくりなぞる。紙の乾いた手触りが、現実を繋ぎ止めてくれている気がした。

 この空間の中では、何もかもが穏やかで、何も起こらない場所——そう思っていた。

 そのとき。

 自動ドアの開く音がした。

 閉まっていたはずの自動ドアが、静かに開く音。センサーの灯りが一瞬点いて、また消えた。
 雨のしずくを踏むような足音が、ゆっくり近づいてくる。棚の上の蛍光灯が、気配に反応したみたいに微かに瞬いた。
(……先生? それとも、誰か忘れ物?)
 呼びかける声も、咳払いのひとつもない。
 足音だけが、空気の層を割って進んでくる。
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