蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.29 蛇の目、閉じられない(後)≪雨≫

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 ◇

『湊。……来たぞ』
(何が——)

 その瞬間、書架の隙間から見えたのは白い袖口。制服の裾から、雨の粒がぽたりと落ちる。髪は雨に濡れて少しだけ色を濃くして、額に張りついていた。呼吸は落ち着いているのに、持ち込まれた外気だけが冷たい。

 神代 怜が、そこに立っていた。

「……雨宮」

 声は図書館の温度と同じで、静かだった。けれどその静けさの奥で、微かな熱が揺れていた。
 髪の先から落ちた水滴が白いシャツの襟に吸い込まれて、布が肌に張りつく。真っ白なはずのシャツは、濡れた部分だけ微かに透けて、雨の形を浮かべていた。濃くなるというより、薄くなる。雨の冷たさが、そのまま色に出ているみたいだった。

(……なんで、ここに)

「先生に頼まれて、資料確認に来たんだけど。閉館まで、まだ時間ある?」
 神代はクリアファイルを持っていた。中の紙が湿気を吸って、少し反っている。

「あと二十分……くらい」
 ただの会話のはずなのに、言葉と次の言葉の間に、妙な間ができた。声が響くたびに、空気が密になっていくようで指先に思わず力がこもる。
 俺は返却本を抱えたまま、少し距離を取った。
 けれど、その距離はあっという間に意味をなくす。

 目についた、倒れかけの本に手を伸ばす。
 その瞬間――棚を挟んだ“向こう側”から、まったく同じタイミングで神代の指先が伸びてきた。背表紙の細い影の上で触れたのは、本ではなくて、神代の指だった。
 紙をめくるように、かすかに触れるだけの軽さ。それなのに、触れた瞬間、互いの動きがぴたりと止まった。

 ぱたん、と本が倒れる。

 倒れたのは、ちょうど二人の指先が触れた、その一冊だった。小さな乾いた音なのに、図書館の広い空間の真ん中で、やけに大きく反響する。
 空気がすっと引く。雨の音さえ一瞬だけかき消えた。

 ——その拍子に、倒れた本の隙間から視線がぶつかる。
 棚越しの四角い隙間。濡れた前髪の奥、光を集めたみたいな瞳が、こちらを真っ直ぐに捉えていた。

(……いけない)
 本能がそう告げる。

 視線を外す。外した瞬間、忘れかけていた呼吸がやっと戻ってくる。
 そのまま棚から離れようと身体を引いたとき、向こう側で、神代のクリアファイルが棚に静かに置かれる音がした。資料確認に来たと言っていた。
 そのはずなのに、目が合った途端、彼の優先順位が音もなく切り替わったように見えた。“これだけは置いていく”という整った動作が、逆に怖かった。

 その時、腕の力が一瞬ふっと抜けた。抱えていた返却本が、胸元から滑り落ちかける。慌てて掴み直そうとしたが、指先がもつれ、結局その場の棚に雑に押しつけるように置いてしまった。
 落として本を傷つけるよりはまし——そう思ったのか、咄嗟に身体が勝手にそう動いていた。
 もう本どころじゃなかった。
 距離を取るように踵を返す。焦りより先に身体が動いていた。

 ◇

 図書館はいびつな五角形の建築物で、その通路はところどころ迷路みたいに緩く折れ曲がっている。
 棚の配置が少しずつずれていて、歩くたびに幅が変わる。普段なら無意識に身体がその“癖”を計算して動くのに、いまはただ早く離れたくて、足だけが前へ急ぐ。
 気づけば広い通路を外れていた。逃げ急いだ足が、“狭い方”へ自然と逸れていたのだ。二つの棚が斜めに噛み合って、視界が細くなる一角。

(……なんでこっちに)

 そこは、ちょうど図書館の奥へ向かう細い通路だった。いつも少し暗くて、すれ違うときは自然と横に避けないと肩が触れる場所だ。

 ——なのに。
 角を曲がった先、そのいちばん幅のない場所に、神代がいた。
 まるで、最初からそこを選んで立っていたみたいに。
 光と影の境目で、通路の真ん中を静かにふさぐ形で。

 足が止まる。止まらざるを得なかった。
 あと少し進めば肩が触れる。触れないために止まったのに、その停止が追い詰められた形になった。
 息の温度さえ分かりそうな距離で、神代はまっすぐこちらを見ていた。
 逃げ道を、ただ立っているだけで塞いでいた。

「また……逃げるの?」

 静かな声だった。
 でも、その静けさが今は一番怖い。音じゃなくて、圧で届く声。喉に返事が貼りついて出てこなかった。背中の皮膚が氷を滑らせたみたいに冷える。
 その冷たさに呼応するみたいに、逃げなきゃ、という衝動が反射で足の裏へ走る。

 目を合わせないようにして、一歩横へ。けれど、彼の足音も同じ方向に動いた。避けたはずの距離が、また埋まる。逃げ道を探して視線が揺れる。書架の通路は、思った以上に狭い。
(どうして、ここまで)
 紙の匂いと、湿った布の匂いが混ざる。体育倉庫の空気が蘇ってくるようで、息が吸いづらい。気づけば唇を噛み締めていた。
 
『湊、落ち着け。……来るぞ』
(分かってる。でも、今は——)
 逃げたい。なのに、脚の裏が固まって、言うことをきかない。
 踏み出そうとした足に、自分じゃない誰かの重さが乗ってるみたいで、膝の関節が動こうとしてかすかに震えるのに前へ進まない。腰のあたりだけ妙に冷たくて、足首から下だけが床に貼りついたみたいだった。
 息を吸うたび、胸の奥が縮んで、身体の内側だけがゆっくりと重くなる。動けない理由が分からないまま、体だけが勝手に“停止”に入っていく。
(なんで……動けない)
 ポケットの奥がじんわり熱を持つ。ケロスケが鼓動と同じ速さで泡立っている。こいつも、たぶん焦ってる。
 蛍光灯の光が一瞬だけチリッと瞬く。空気の密度が上がるたび、青い泡が浮いた。
 
 神代の目の奥に、白い縦の線が走る。肩口から白い気配が滑り出た。硬質の光を持った鱗の縁。——白い蛇。
 見えている。ずっと見えていた。
 けれど、見ないふりを続けてきた。
 今日は、そいつが自分から視界の真ん中に入ってくる。
 見たくない。けど、見た。
 もう遅い。
 目が合った瞬間、脳のどこかでスイッチが落ちた。

『——見つけた』
 
 初めてその声を聞いた。冷たいのに低くて綺麗な声。それだけで、背骨の奥がざわっと震えた。
 喉がきゅっとすぼまり、ケロスケが胸の内でぷつ、と泡立つ。

『だめだ、目を合わせるな——』

 見ないふりの限界は、向こうが焦点を合わせた瞬間だった。冷たい息が頬を撫で、金属を溶かしたみたいな白蛇の瞳がまっすぐ俺を射抜く。避けようとした視線が、どこかでつまずいて滑り込み、そのまま――絡んだ。
(やば——)
 後ろに下がろうとした。けれど、なぜか俺の意志に身体は付いてこない。背中の棚がギッと木の板を軋ませる。逃げようと押した力が、そのまま板に吸い込まれたみたいだった。

 その音に重なるように、白い袖が視界の端を裂いた。驚いて視線を横にずらすと、神代の掌が俺の顔のすぐ横へ滑り込んでいた。速い。触れていないのに、指先の風が頬を撫でる。書架に当たった掌が乾いた音を立て、左側の逃げ道が一瞬で塞がれる。
(……左は無理)
 反射的に正面を見る。神代が……近い。距離が近すぎて、呼吸が触れ合う。
 背中は棚。左は彼の腕が、逃げるなと言っている。
 残りは、右——そこしかない。なかった。
 ほんのわずか、意識がそちらへ向いた。視線が逃げ筋を探すように通路の右手へ滑る。

 その瞬間。

 遅れて、反対の手が俺の右手首を掴んだ。
 掴まれた瞬間、息が止まる。“行けるかもしれない”と脳に浮かぶのとほぼ同時に、温度が落ちてきた。迷いの欠片もない掴み方で、脈の上に指が正確に食い込む。
 ——体育倉庫の熱が蘇る。
 反応する暇がなかった。強くはないのに、絶妙に抜けられない。脈に触れる指先が熱を持って、皮膚の内側を溶かすように広がった。

 近い。距離が、一息ぶんしかない。至近距離で見る神代は、普段よりずっと輪郭が鋭い。濡れた前髪から落ちる雫が頬を伝い、雨を吸った睫毛が長く影を落とす。整いすぎた顔立ちを、細い光の筋が淡く縁取っていた。
 視線は高い位置からまっすぐ落ちてきて、逃げ場を作ってくれない。その目――冷えた琥珀の瞳に、蛇のように縦の白が細く揺れる。落ち着いた光なのに、ひとつ見返すだけで肺がすぼまる。きれいで、怖い。怖いのに、目が離せない。
 逃げれば掴まる。踏みとどまれば、もっと深く踏み込まれる。
 その二択の境界に、俺は押し込まれていた。心臓の音が、相手の呼吸に触れるたび跳ね返る。

 ——逃げられない距離。
 
 光が白と青で混ざり合う。
 白は蛇の光。青は俺の内側のもの。
 空気が水みたいに重くなり、呼吸は浅いのに雨の匂いだけが濃くなる。

「……やっぱり」
 
 神代の声が、耳のすぐ近くで落ちた。低くて、熱が混じる。視線が下から上へ、ゆっくりと這い上がり、胸元で留まると僅かに目を細くした。その目の奥で、白い縦線が呼吸するように震えた。

「……まさか、見えて——」
「君の“影”」
 白蛇の声が、神代の声に重なった。 
『……蛙』
 心臓がひとつ跳ねて、思わず目を見開く。反射で掴まれた手首を引こうとした——けれど、まるで見えない糸が筋肉に絡まったみたいに、指一本すら動かない。  
 息だけが胸の奥で詰まり、逃げる合図だけが空回りする。

 白い首がゆっくりと近づいた。俺の肩に白の影が触れた感触がした。触れていないのに、触られたみたいな錯覚が走る。その冷たい感覚にぞくりと粟立った。 
『蛙。隠れていたな』
 静けさの底をひっくり返す一言で、奥歯がぎりっと鳴るほど力が入った。
 足を後ろに引こうとして——棚の角にぶつかった。逃げ道を作ろうとしているのに、神代の腕が動いて、本棚に“縫い留める”ように手首を固定される。
 もう動く場所がなかった。
 
「君はずっと、見ないふりをしてる——でも、やっとこっちを見た」
 神代の声が重なる。蛇と同じ音程で、少しだけ人間の熱が混じっている。冷たいのに、熱い。
「どうして隠してた。俺から」
「違う、俺は——」
「ずっと、逃げてただろ」
「それはっ……!」
 喉が震えて、声が形を作れない。逃げたい。けれど、視線だけはどうしても外せない。
 その瞬間、蛇の目に映る自分の輪郭が、いやにくっきりして見えた。
 怖い。けど、もう遅い。

『……みつけた。やっと』

 白い蛇の声が低く響く。神代の指先が、頬の輪郭をそっとなぞる。その動きは、触れるというより——触れていいか、確かめるみたいな手つきだった。その指先に、感じるのは微かな “安堵” 。まるで長い間行方を探していたものを、ようやく手の中に見つけた人の触れ方だった。

 その温度が、皮膚から胸の奥へまるで逆流するみたいに入り込んでくる。この安堵感は、明らかに俺のものじゃない。それでも胸の内側で熱がじんわり灯る。喉の奥がゆるみ、体の強張りが解けてしまいそうになる。
(——なんだ、これ)
 恐怖が消えかけて、一瞬、本気で安心しそうになった。逃げる理由すら忘れそうになった。 
 冷たいのに、そこだけ熱い。その温度の不自然な重なりが心臓のリズムを狂わせる。

 “見つかった”

 その五文字が脳に届いた途端、胸の奥で急ブレーキがかかった。  
 安堵なんて、ほんの錯覚だ。飲み込まれかけた自分に気づいて、背筋がざらりと逆立つ。
(……駄目だ。これ以上、近づいたら戻れなくなる)
 指先に力を込め、書架の角を掴む。爪の下が白くなるほど握る。自分の輪郭を取り戻すために。強制的に深呼吸をひとつ。肺がぎしっと鳴る。

 その刹那——肩口の白い影が微かに動いた。軽い振動にも似た“気配”が一瞬だけ揺れた。
 まるで、俺のささやかな抵抗に気づいて、どこか愉しんでいるみたいに。
 笑ったわけじゃない。声も出していない。
 けれど、空気の温度がひとつだけ“含み”を帯びた。

(……気づかれた)
 その直後だった。

 肩口の白い影が、ふっと濃くなった気がした。次の瞬間、空気が一段重くなる。圧が押し寄せるみたいに、息が浅くなる。
 通路の静けさが変わった。湿った空気がひりつき、書架の本の端が、微かな風で震えたように揺れる。
 図書館そのものが、声を潜めて様子を伺っているみたいだった。

『やめろ、蛇!』

 ケロスケの声が、初めて壁に反響した。胸の奥で何かがはじけ、擬態の膜が破れる感覚。  
 青い光が泡のように溢れて、空気の層を押し広げる。光は生き物みたいに脈を打ち、俺の胸元から外へと小さな体が飛び出した。
 青が、白に触れる。空気が、ひやりと音を立てた。

『蛙、逃がさない』
 白い舌先の気配が、目には見えない層を撫でていく。
 肌がぞわりと粟立って、思わずケロスケを胸に引き寄せた。守るというより、覆い隠すために。もう手遅れだと分かっていても、身体が先に動いた。

 神代の眉がわずかに動いた。光を受けた睫毛の影が頬に落ちる。
「……もう、隠せないな」
 その言葉に、空気が沈んだ。表情が、いつもの均等な温度から半歩だけ崩れる。副会長の仮面の奥に、“神代 怜”としての顔が現れる。目の奥に人間の熱が灯っていて、その熱がまっすぐ俺を射抜いた。
 怖いはずなのに、その熱は痛みより先に沁みた。

「やっと見えた。君の全部」
「……見えたなら、もう——」
「俺も、君にだけなら見せられるかも」

 意味がすぐには掴めなかった。けれど、掴んでしまったような手触りが、なぜか残る。
 “触れてはいけない場所”に、指が触れたような感覚。
 以前思った——“知らないままでよかった”という言葉が、いまやまるで防壁の跡に思えた。
 もうそれより前には戻れない。
 
 神代はようやく手を放し、一歩下がった。その動作の遅さが、まるで何かを惜しむようで、息が止まった。

 ポタ、と小さな音がした。
 神代の前髪から落ちた一滴が、床に静かに弾けたのだと気づく。
 彼はその水滴を一瞥した。
 拾えるものでもないのに、まるで“何かをそっと置き直す”みたいに、呼吸をひとつ整える。その仕草が、この空間にまだ残っていた熱を丁寧に畳んでいく。音は小さいのに、ひどく静かだった。

 雨音が戻ってきて、世界が“現実”の形を取り戻す。
 でも、自分の中の一部だけは、まだ柔らかく崩れたままだった。
 思い出したようにひとつ大きく息を吸った。けれど、肺が浅い。ケロスケが胸の内で、警戒というより焦りのような泡を立てている。
(焦ってるのは、俺もだよ)
 
「……ごめん。怖がらせた」
 謝る声は、倉庫で聞いた温度に近くて、それでもあのときより深い熱が声の端に残っていた。謝罪の響き方が優しすぎて、余計に息が詰まる。そんなふうに言われたら、怖さという逃げ道がなくなる。
「……」
 声にならない。何を返せばいいか分からない。返事の代わりに、胸ポケットを押さえた。ケロスケの輪郭を確かめるみたいに。
 “怖い”でもなく、“大丈夫”でもない。そのどちらを言っても嘘になりそうだった。
 
「でも、もう嘘は要らない」

 背を向けた神代の肩に、白い蛇が静かに戻っていく。歩き出す足音は、やっぱり音を残さない。書架の影がゆらぎ、白が雨の光に溶けていく。
 ——嵐の中心ほど、静かだと思った。


 動けなかった。
 膝の力が抜けて、そこに根が生えたみたいだった。ただ彼の背中を追っている。
 さっきまで塞がれていた場所。棚板の木が、きしんだ音をまだ覚えている。その音を心の奥でもう一度鳴らした。

『湊。蛇の目に、もうしっかり映っちまったな』
「……そうだな」
 声がかすれて、自分のものじゃないみたいだった。喉の奥で言葉が震える。 
『逃げる?』
「……逃げる。いまは。でも、もう目、閉じられない気がする」
 口角だけ上げてみた。けれど、うまく笑えなかった。
 ケロスケが胸の中で泡をひとつ立て、それが“わかってる”という返事になった。泡が弾けた瞬間、胸が少しだけ軽くなる。
 
『……覚悟、決めろ』

「……うん」
 
 短く返しただけなのに、肺の空気が熱い。息を吸うたび、胸の奥で“現実”がうごめく。
 
 雨音が強くなる。水の線が斜めに揺れて、蛇の鱗みたいな模様を描いては消える。ガラスを伝う一筋の滴が、外の光を抱きながら落ちていく。
 
 カウンターへ戻り、鍵を確認する。震える手のひらに残る熱を確かめるように握り直した。
 “触れた”という事実だけが、皮膚の中で何度も繰り返されている。目を閉じてみても、白と青の残像が離れない。

 蛇に睨まれた蛙。
 ——いや、きっともう違う。
 もう、“見つけられた蛙”だ。
 
 雨はやまない。窓を叩く音に呼吸を合わせる。
 三拍で吸って、四拍目で何故かいつも少し崩れる。その崩れ方が、今日はやけに正直だった。
 
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