蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.30 見つけられたあと(前)≪曇り≫

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 黒板の文字を写しているのに、目は文字を追っていなかった。
 昨日のことが、まだ体のどこかに残っている。
 手首のあたり——あの指の感触。熱でも痛みでもないのに、そこだけ皮膚が他人のものみたいに敏感だ。

 窓の外は曇っていて、風が少し白く見える。雨は止んだのに、空気の中だけがまだ濡れている。
 教室のざわめきが遠く感じるのは、きっと耳じゃなくて心の問題だ。自分が薄い膜の内側にいるみたいで、世界の音がどこか曇って聞こえる。
 ノートに定規で線を引きながら、思考の端で同じ言葉が回る。

 ——やっと見えた。君の全部 

(バレた。ついに見られた。あれは夢じゃない) 
(神代の目も、蛇の声も、ぜんぶ現実だった)
(白河や朱里に言うべき? ……いや、駄目だ。これは全部、俺ひとりの問題だから) 

 誰にも見せられない感覚が、皮膚の裏でざわついていた。胸の奥で、昨日の温度がまだ燻っている。 
 記憶の中で何度も“あの目”が点滅するたび、体の奥がわずかに熱を持つ。

 動けなかった足、勝手に乱れた呼吸、あの——一瞬だけ体の奥で灯った“安堵”の正体。
 体育倉庫で動けなかった時は、本能が悲鳴を上げていただけだ。蛇に丸呑みにされる寸前の蛙みたいに、恐怖で身体が縮んでしまった。

 なのに——昨日は違った。

 怖かったのもあるけど、体が勝手に止まった感じがした。誰かに“止められた”みたいな、静かな圧が全身に乗ってきて、“空気”そのものに動きを奪われたような。
(……あんなのおかしい。普通じゃない)
 怖いのに、どこかで“安心しかけた”。
 恐怖を一瞬だけ忘れそうになった。
 胸の奥に流れ込んできた“安堵”。
 自分の感情じゃないみたいな温度で、あの一瞬だけ、逃げなくてもいいんじゃないか、って錯覚した。
 気のせいかもしれない。気が動転していただけかもしれない。
 けれど——

(……あれ、何だったんだ)

『湊、あん時さ……お前、半分“飲まれかけてた”ぞ』
 机の下から聞こえるケロスケの声は、いつもより静かだった。
(飲まれ……? 蛇に?)
『断言はしねぇよ。けど……昨日のあれ、雰囲気が変だったろ。オレには“押されてた”ように見えた。お前自身の恐怖で固まった部分と、もう一つ——外からかかった別の重さが混じってた気がする』
 外からの重さ。昨日、気づかれた瞬間に感じた空気の圧が、背中に蘇る。
(つまり……能力ってこと? あいつの?)
『“そうかも”って話だ。単にお前が勝手にビビっただけって線もある。……けど、守護生物ってのは、人の心と体の“境目”に手ぇ伸ばせるからな』
(……神代の蛇か)
 考えたくない答えが、喉の奥で苦味をおびて広がる。

『断定はしねぇぞ。オレが感じたのは“可能性”だけだ。けど、お前が一瞬だけ安心したのは……お前の感情じゃねぇ匂いがしてた。少なくとも、……ちょっと普通じゃなかった。そこだけは言える』
 普通じゃなかった。その言葉が、ノートの上に重石みたいに落ちる。
 怖いのに、確かにあの一瞬、逃げる理由が溶けた。

(嫌だな。怖いのに、全部“怖い”で片づかないのが)
『本能半分、相手半分。そんなところじゃねぇかな』
 その言葉で、胸の奥に沈んでいた違和感が、曖昧なまま輪郭だけを持った。その曖昧さが逆に、世界の輪郭を変えてしまいそうだった。

 授業の声が遠くなる。
 どちらにせよ、図書館のあれは“ただの恐怖”の範囲を少し超えていた。
(じゃあ……俺は、ほんとに昨日……)
 指先が震える。ペン先が紙を跳ね、細い線がずれた。
『あれは“お前が弱かったから”じゃねぇ。相手が強かったんだ』
(……フォローのつもりか?)
『当たり前だろ。お前は蛙。相手は蛇。スタート地点からして分が悪いんだよ』
 苦笑が喉の奥でつぶれた。
 
『それよりお前、言わなくてもバレるタイプの顔してるぞ』
 机の下からケロスケの声。
(どんな顔だよ)
『“バレた顔”。シンプル・イズ・バレ』
(捻りひとつないな……)
 ため息が小さく漏れた。今日は静かに過ごそう。誰にも何も気づかれずに、一日を終わらせる。
 そう思って机の角を指でなぞる。その滑らかさが、唯一“普通”の手触りに思えた。
 
 でも現実は、そういう日に限って面倒を連れてくる。
 
「え、合同?」
 休み時間になると、白河がプリントを手にひょいと顔を出した。
「そう。体育、しばらくA組と一緒だってさ。教員が一人、入院したらしい」
 朱里が眉をひそめる。「よりによって体育かよ」
(よりによって……A組かよ)

 教科書を閉じる手が止まる。俺の脳裏に浮かんだのは、白い光と蛇の目。長年染みついた恐怖心をそう簡単に克服できるものではない。
 静かに呼吸を整えながら、天井を見上げる。雨は止んだのに、俺の中ではまだ降っている。 
 胸の奥がずっしり沈む。ケロスケが机の中で俺の溜め息を真似た。
『運命って、空気読まないな』
 ほんと、それ。
 笑い方まで、まだ取り戻せていなかった。

 ◇

 昼休みの食堂は人のざわめきと匂いで満ちていた。カレーの匂いと、揚げたてのコロッケの音。誰かの笑い声があちこちから響く。
 曇り空がガラスに薄く映り込み、照明の光がそれを二重に見せている。外の光も中の光も混ざり合い、境界線が曖昧に溶けて見えた。
 
 白河と朱里が購買へ行ったので、俺はひとり先に窓際の席を取って待っていた。
 弁当箱の蓋を開けると、卵焼きと照り焼きの甘い匂いにほっとする。自分の作る弁当の匂いには、いつも“帰れる場所”みたいな安心がある。こういう時間は、静かに食べて、静かに終えたい。何も起きない、それが一番いい。
 ——そう思っていたのに。

「空いてる?」

 静かな声が降ってきた。
 顔を上げると、神代 怜がトレイを持って立っていた。スープの湯気が白く揺れて、肩口の白いニットの縁まで柔らかく照らす。
 昨日とはまるで別人だった。
 雨に濡れて影を落としていた顔じゃなく、いつも通りの“整った副会長”の顔。前髪はきれいに乾いていて、制服も皺ひとつなく、光の当たり方まで計算したみたいに整っている。まるで昨日とは別の人間だった。
 いつもの“神代 怜”。
 俺に向けたあの近すぎる熱の片鱗は、どこにもなかった。
 むしろ——
 昨日の記憶が俺の幻だったんじゃないかと錯覚するくらい、完璧に「いつも通り」だった。

「あ……はい」

 反射的に返していた。考えるより先に、口が勝手に動いてしまった。
(また出た、“はい病”)
 ケロスケが鞄の中で『お約束だな』とでも言うように泡を弾かせる。 
 神代は何のためらいもなく隣に腰を下ろした。金属脚が床を擦る小さな音が、やけに長く響く。
 弁当箱の中の卵焼きが、急に居心地悪そうに見えた。

 少し遅れて、白河が戻ってくる。
「お、神代? 珍しいな。食堂で見るの」
(なんでそんな普通にできるんだ、白河……)
 白河は俺の正面に座り、パンを齧る。
 神代のトレイが置かれる音が小さく響く。距離が近い。物理的に。
 朱里もパンを手に戻ってきた。神代を見て、ほんの一瞬だけ目を細める。
「おう」と短く挨拶した。笑っているのに何かを測るような静けさがある。
 俺はそれに気づかないふりをした。

「昨日、無事に帰れた?」
 神代の声は静かで落ち着いているのに、逃げ道を作らせない。でもその表情は昨日の出来事なんて、一切感じさせない穏やかな微笑があった。
 その落差に、胸の奥がじわっとざわついた。
「あ、……うん」
 それ以上、言葉が続かない。間を持たせるために飲んだお茶を、ごくりと飲み込む音がやけに大きく感じた。

 朱里がパンの袋を開けかけたまま、目だけこちらを向ける。
 白河はストローの先を咥えたまま、ちらりと俺と神代を見比べた。
「いや、……その、図書館で資料を一緒に探してて」
 口が勝手に動いていた。
 昨日のことは俺の問題で、二人には関係ない。そう思った瞬間、言い訳めいた言葉が咄嗟に出た。自分でも分かる——誤魔化せてない声だった。
 神代は微笑を崩さず、ただ「そう」とだけ返した。
 
 朱里がパンを裂いて、何も言わずに口に運ぶ。
 けれど、その仕草の奥に「様子を見ている」気配がある。普段よく喋るやつの無言がいちばん怖い。
 
「今日は顔色、悪くないね」
(ち、近っ、近い、近い……)
 その落ち着き方が、昨日を知っている人間のものとは思えなかった。
 まるで俺だけ、別の温度の世界に置き去りにされたみたいだ。周りはいつも通りなのに、俺だけ呼吸の仕方を思い出せない。
 肩越しに白蛇の光沢が見えた“気がした”だけで、背筋が固まる。喉の奥で音がひとつも生まれない。

『逃げるの、もう無理っぽいな』
(しーっ)
 ケロスケの声が泡の中で小さく笑う。
 その“普通”な調子が、いまの俺には一番遠かった。

「食わねぇの?」
 白河の声に我に返り、「食う!」と反射で声を張る。
 箸を掴もうとして、一本がテーブルの上を転がっていく。神代の指がすっと伸びて、それを拾い上げると、流れるように元に戻した。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 たったそれだけのやり取りなのに、心臓が忙しい。触れた箸の先に微かな温度が残っている気がして、思わず持ち方を忘れそうになる。彼の笑みが柔らかすぎて、どこまでが本音か分からない。
 なにかを試そうとしているなら、俺の負けでいいから本当に勘弁してほしい。
 
 神代が興味深そうに弁当を覗き込む。
「手作り? 綺麗に詰めてるね」
「て、……適当だよ」
「もしかして雨宮が作ってるの?」
「あ、うん……」
「雨宮の家事スキルはパない」白河が頷きながら笑う。
「へぇ、そうなんだ。あ、この煮物、いい匂い」
「こら神代、こいつの弁当に手出し禁止」
 朱里が間に割り込むように、俺の弁当を覗き込んだ。
「お、アスパラベーコン。うまそう」指で摘まんで口に放り込む。
「それ俺の——」
「俺の」
「……君の?」
「そ。“分けてもらう前提”で作ってもらってるから」
(いや初耳だ)
 朱里の言葉は軽いけど、目が笑っていない。
 神代は何も言わずスープを一口すする。その喉の動きがやけに静かに見えた。そして、穏やかに笑う。
「そう。じゃあ次は、俺のも分けようか」
「遠慮しとく」
 朱里の返しは柔らかいのに、間の空気がなんだか妙に冷たい。
 白河はパンを齧りながら、目だけで状況を測っていた。たぶん、俺の心臓の音が聞こえる距離にいたら笑われてたんだろうと思うと、ひどく居心地が悪かった。
 
(弁当の味が、しない)
 ケロスケが肩の上でひと泡。
『まー、人気者でいいじゃねぇか』
(弁当の中身がな)

 周囲は賑やかなのに、俺たちの席だけ温度が違う。笑い声や食器の音が遠くで鳴っているのに、音が全部、遠くに追いやられていく。
 息を吸うたび、何かの匂いが混ざる。スープと弁当と、わずかな雨の残り香。それを神代の肩越しに感じて、また呼吸を忘れそうになる。
 頬の内側にじわりと熱がこもる。胸の奥では、恐怖と焦りがごちゃまぜになって波を立てていた。

 ——まだ怖い。でも、目に入ってくる。
 昨日のあの白い光が、まだまぶたの裏に張りついている。俺は“見られた”側なのに、今度は、俺が“見てしまってる”。どうして……。
 
 ほんの十五分かそこらなのに、やけに長く感じた昼休みだった。何もしていないのに、体のどこかが疲れている。
 食堂を出るとき、白河が肩を叩いた。
「なんか今日、神代と波長合ってたな」
(いや、全然合ってなかっただろ)
 喉の奥で言葉を飲み込みながら、俺は曇った窓の向こうを見た。
 雨は上がっても、空気の方が俺たちより先に、何かを知っているみたいだった。
 
 ◇
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