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Ep.31 見つけられたあと(中)≪曇り≫
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◇
午後の合同体育は屋外だった。グラウンドの砂はもう乾いているのに、匂いだけがまだ“雨上がり”を引きずっている。曇り空の下、湿気を含んだ初夏の風が、ぬるく頬にまとわりついた。太陽は出ていないのに、空気だけが妙に明るい。
ピピーッと笛が鳴って、号令がかかる。A組とB組の男子が混ざって並ぶと、先生が前で点呼を取りながら、気楽な声で言った。
「ペアは、好きに組んでいいぞー」
その一言の“隙間”に、すっと声が落ちてくる。
「雨宮、一緒にやろう」
神代の声だった。
一瞬だけ、周囲の空気が止まる。
(……なんで名指し)
後ろから、朱里がほんの小さな声で「……楽しそうだな、神代」と呟く。
神代は、癖のないきれいな笑顔で返した。
「楽しみだよ」
(いや、俺はそこまで楽しみじゃない……)
足元の砂が、踏みしめるたびにざくっと沈む。逃げ場を探すように肩を回してみるけど、腕の動きが自分でも分かるくらいぎこちなかった。
ストレッチが始まると、それぞれ二人一組で向き合い、互いの腕を取って引きあう。
神代の手が、俺の腕を取った。たったそれだけなのに、背筋がこわばる。
力は強くない。むしろ驚くほど加減されているのに、指先がちょうど脈の上に触れた。そこから鼓動を数えられている気がして、死ぬほど恥ずかしい。
神代の手の動きは、静かで、柔らかくて、迷いがない。その落ち着きが、逆に自分の“落ち着かなさ”を浮かび上がらせる。
——最近、こういうのが増えた気がする。
ほんの些細な場面でも、気づけば神代が日常のどこかに入り込んできている。
昨日“見られた”せいなのか、それとももっと前からなのか。
傘を拾って渡したあの日から、少しずつ、自分の“普通”の範囲が、彼の影で塗り替えられている感じがする。
それが何なのか、まだうまく言葉にできない。ただ、知らないうちに“距離”が変わっていた。
「力、抜いて」
斜め上から落ちてくる声は低くて、柔らかくて、芯がある。
「……ぬ、抜いてる」
「嘘」
即答だった。
冗談っぽく笑っているのに、その声には誤魔化しの逃げ場がない。
昨日みたいな圧とは違う。
ただ、日常のどこかにあった“後ろ向きの逃げ道”を、いつの間にか塞がれていく感覚だけが残る。
息を整えるふりをして、視線を地面へ落とした。
砂の粒の間に、昨日の雨の跡がまだ薄く残っている。
その模様が、図書館の空気を連れてくる。
息の詰まる距離。手首を掴まれた感触。
——逃げなかったんじゃなくて、逃げられなかった自分。
神代の手が、今度は背中に添えられた。
ゆっくりと圧がかかる。押しつけるでもなく、強く支えるでもない、本当に“触れているだけ”みたいな軽さ。
それなのに、背中越しに伝わる手のひらの大きさと体温が、昨日の“手首”の記憶をじわじわと掘り起こしてくる。
昨日感じた温度が、背中の皮膚の下で反響する。
今触れられているのはここなのに、思い出すのは別の場所にあった指の位置。
記憶と現在が変なふうに重なって、呼吸だけが勝手に乱れた。
距離は、昨日ほど近くない。
——のに、心臓が忙しすぎる。
圧が少し動くだけで、身体が反射的に強ばる。
それを悟られたくなくて、息を整えるふりをしながら、何度も校舎の時計へ視線を逃がした。
針の進みが遅い。
見ていると、ひと目盛り動くたびに、その音が聞こえてきそうで、今のこの時間から一秒でも早く抜け出したくなる。
『心拍数、上昇。お前、まだ走ってもないのに』
(……やかましい)
ケロスケの声が、肩の上で泡みたいに弾けた。
それに突っ込めるくらいには、まだ余裕がある——はずなんだけど。
◇
本当なら、パス練なんてただの単純作業だ。
向かい合って、ボールを投げて、受けて、また投げる。その繰り返し。
なのに今日は、向かい合う位置に立った瞬間から、意識のどこかが変な方向に引っ張られていく。
ボールを受け取って顔を上げる。
目が合う。
俺の視線が逃げようとするより早く、神代の目が追ってくる。
次の瞬間には、また視線が絡んでいる。
反射で目を逸らしても、その“逸らした隙”ごと読まれているような気がして、手の中のボールが、不意に重く感じられた。
思わず、持ち直す。掌の位置を変えるふりをしながら、その場しのぎの逃げ道を作る。
「集中、してる?」
「……してる」
「本当?」
「……たぶん」
会話としては終わってる。
それなのに、神代はふっと笑った。優しすぎる笑い方だった。
その優しさに安心できない自分がいて、余計に落ち着かなかった。
(あー……もう)
昨日は怖かったのに。今日は、こんな表情を見せる。
きっと神代には、俺の動揺なんて全部お見通しなんだと思う。俺がまだ、昨日のことを怖がっていることも。蛇に見られたときの感覚が、今も抜けていないことも。
——たぶん、とっくに分かってる。
だとしたら。
(それでも、どうしてそんな顔するんだよ)
怖がらせたいのか。それとも——。
胸の奥が、ふっと軽く浮いた。理由のない浮遊感。自分の感情なのに、自分のものじゃないみたいで、掴みどころがない。
背中に風が抜ける。汗が首筋を一筋だけ伝って、すぐ冷たくなった。
雨上がりの光は白くて、距離の感覚を狂わせる。その中で、神代の輪郭だけがやけに鮮明で、近い。
俺はまだろくに走ってもいないのに、どっと疲れていた。
頭の中で、心拍と呼吸が混線している。どっちが先でどっちが後か分からない。
本気で思う。体育なんて、嫌いだ。
体を動かすより、心を動かす方が、よっぽど疲れる。
◇
午後の合同体育は屋外だった。グラウンドの砂はもう乾いているのに、匂いだけがまだ“雨上がり”を引きずっている。曇り空の下、湿気を含んだ初夏の風が、ぬるく頬にまとわりついた。太陽は出ていないのに、空気だけが妙に明るい。
ピピーッと笛が鳴って、号令がかかる。A組とB組の男子が混ざって並ぶと、先生が前で点呼を取りながら、気楽な声で言った。
「ペアは、好きに組んでいいぞー」
その一言の“隙間”に、すっと声が落ちてくる。
「雨宮、一緒にやろう」
神代の声だった。
一瞬だけ、周囲の空気が止まる。
(……なんで名指し)
後ろから、朱里がほんの小さな声で「……楽しそうだな、神代」と呟く。
神代は、癖のないきれいな笑顔で返した。
「楽しみだよ」
(いや、俺はそこまで楽しみじゃない……)
足元の砂が、踏みしめるたびにざくっと沈む。逃げ場を探すように肩を回してみるけど、腕の動きが自分でも分かるくらいぎこちなかった。
ストレッチが始まると、それぞれ二人一組で向き合い、互いの腕を取って引きあう。
神代の手が、俺の腕を取った。たったそれだけなのに、背筋がこわばる。
力は強くない。むしろ驚くほど加減されているのに、指先がちょうど脈の上に触れた。そこから鼓動を数えられている気がして、死ぬほど恥ずかしい。
神代の手の動きは、静かで、柔らかくて、迷いがない。その落ち着きが、逆に自分の“落ち着かなさ”を浮かび上がらせる。
——最近、こういうのが増えた気がする。
ほんの些細な場面でも、気づけば神代が日常のどこかに入り込んできている。
昨日“見られた”せいなのか、それとももっと前からなのか。
傘を拾って渡したあの日から、少しずつ、自分の“普通”の範囲が、彼の影で塗り替えられている感じがする。
それが何なのか、まだうまく言葉にできない。ただ、知らないうちに“距離”が変わっていた。
「力、抜いて」
斜め上から落ちてくる声は低くて、柔らかくて、芯がある。
「……ぬ、抜いてる」
「嘘」
即答だった。
冗談っぽく笑っているのに、その声には誤魔化しの逃げ場がない。
昨日みたいな圧とは違う。
ただ、日常のどこかにあった“後ろ向きの逃げ道”を、いつの間にか塞がれていく感覚だけが残る。
息を整えるふりをして、視線を地面へ落とした。
砂の粒の間に、昨日の雨の跡がまだ薄く残っている。
その模様が、図書館の空気を連れてくる。
息の詰まる距離。手首を掴まれた感触。
——逃げなかったんじゃなくて、逃げられなかった自分。
神代の手が、今度は背中に添えられた。
ゆっくりと圧がかかる。押しつけるでもなく、強く支えるでもない、本当に“触れているだけ”みたいな軽さ。
それなのに、背中越しに伝わる手のひらの大きさと体温が、昨日の“手首”の記憶をじわじわと掘り起こしてくる。
昨日感じた温度が、背中の皮膚の下で反響する。
今触れられているのはここなのに、思い出すのは別の場所にあった指の位置。
記憶と現在が変なふうに重なって、呼吸だけが勝手に乱れた。
距離は、昨日ほど近くない。
——のに、心臓が忙しすぎる。
圧が少し動くだけで、身体が反射的に強ばる。
それを悟られたくなくて、息を整えるふりをしながら、何度も校舎の時計へ視線を逃がした。
針の進みが遅い。
見ていると、ひと目盛り動くたびに、その音が聞こえてきそうで、今のこの時間から一秒でも早く抜け出したくなる。
『心拍数、上昇。お前、まだ走ってもないのに』
(……やかましい)
ケロスケの声が、肩の上で泡みたいに弾けた。
それに突っ込めるくらいには、まだ余裕がある——はずなんだけど。
◇
本当なら、パス練なんてただの単純作業だ。
向かい合って、ボールを投げて、受けて、また投げる。その繰り返し。
なのに今日は、向かい合う位置に立った瞬間から、意識のどこかが変な方向に引っ張られていく。
ボールを受け取って顔を上げる。
目が合う。
俺の視線が逃げようとするより早く、神代の目が追ってくる。
次の瞬間には、また視線が絡んでいる。
反射で目を逸らしても、その“逸らした隙”ごと読まれているような気がして、手の中のボールが、不意に重く感じられた。
思わず、持ち直す。掌の位置を変えるふりをしながら、その場しのぎの逃げ道を作る。
「集中、してる?」
「……してる」
「本当?」
「……たぶん」
会話としては終わってる。
それなのに、神代はふっと笑った。優しすぎる笑い方だった。
その優しさに安心できない自分がいて、余計に落ち着かなかった。
(あー……もう)
昨日は怖かったのに。今日は、こんな表情を見せる。
きっと神代には、俺の動揺なんて全部お見通しなんだと思う。俺がまだ、昨日のことを怖がっていることも。蛇に見られたときの感覚が、今も抜けていないことも。
——たぶん、とっくに分かってる。
だとしたら。
(それでも、どうしてそんな顔するんだよ)
怖がらせたいのか。それとも——。
胸の奥が、ふっと軽く浮いた。理由のない浮遊感。自分の感情なのに、自分のものじゃないみたいで、掴みどころがない。
背中に風が抜ける。汗が首筋を一筋だけ伝って、すぐ冷たくなった。
雨上がりの光は白くて、距離の感覚を狂わせる。その中で、神代の輪郭だけがやけに鮮明で、近い。
俺はまだろくに走ってもいないのに、どっと疲れていた。
頭の中で、心拍と呼吸が混線している。どっちが先でどっちが後か分からない。
本気で思う。体育なんて、嫌いだ。
体を動かすより、心を動かす方が、よっぽど疲れる。
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