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Ep.32 見つけられたあと(後) ≪曇り≫
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◇
投げ損ねたボールが、指先をすり抜けて転がっていった。白い球は軽く跳ねながら、グラウンドの端へと進んでいく。数歩追いかけて、しゃがみ込んだ。
地面の砂は、ところどころ薄く湿っている。しゃがんだ拍子に、靴底から立ち上る匂いは、やっぱりまだ“昨日の雨”を含んでいた。
ボールに手を伸ばした、そのとき——。
風の向こうから、声がした。
人の声に似ているけれど、違う。耳じゃなくて、頭の奥に直接落ちてくる感じ。
顔を上げると、フェンスの陰、木の根元のあたりに淡い光がいくつか揺れていた。
青、白、朱、そして淡い桃色。
それぞれが小さな呼吸をしているみたいに、輪郭を揺らしている。
(あれは……ケロスケたちか?)
グラウンドの喧騒が、そこだけ切り取られたみたいに遠くなる。
耳に入るのは、光たちの“声”だけだった。
『……ったく、主は主で素直じゃないんだよな』
朱色の尾が、むっとしたように火の粉を散らす。アカツキの声だ。
『あいつ、本当はずーっと見てたくせに、……“余裕”みたいな顔しちゃってさ』
軽く言っているのに、言葉の端にちくっとした棘が混じる。
(誰の話だ……?)
『風が落ち着かないね』
桃色の羽がふわっと揺れる。スイの声は雨上がりの風みたいに柔らかい。
『あの二人、体育祭のとき。走る前に交わした言葉と、ゴールの後に残した言葉。どっちも、まだ空に漂ってる』
その瞬間、朱色が白の方へ、ぴしっと尾を向けた。
『でさ、蛇。主の言葉、聞いてたよな?“ビビらせんなよ”って、ちゃんと言われてたじゃん』
朱い光がぷいっと揺れて、ふてくされたように膨らむ。
『なのにずっと湊の方ばっか見てる』
(……今、普通に俺の名前出たよな)
白い光が、ぬるりと形を変えて揺れた。
鱗の縁が硬い光を返す。白い蛇。
『忠告は聞いた』
白蛇の声は静かで、深い水底みたいな温度だった。
『だが、興味は隠せない。雨宮は、主と似ている。あの時も、視線がまっすぐだった……なのに掴めない』
(掴めないって……いや、手首は思いっきり掴まれましたけど)
こちらを見ているわけでもないのに“見られている”感覚だけが皮膚を刺した。まるで図書館のあの瞬間のように。
『あーもう黙れって言ってんだよ、蛇』
青い光がふわっと膨らんで、ケロスケの声が割り込んだ。
『あいつにこれ以上絡んでくんな。急にヌルッと出てきて睨むの、マジやめろ』
聞き慣れた皮肉っぽい調子に、少しだけ力が抜ける。迫力はないけど、セリフだけはちょっと頼もしい。
『湊はまだ余裕ねぇんだよ』
(……ケロスケ)
『……主は言っていた。“怖がらせたいわけではない”と』
白がさらりと返す。どこか愉しんでいる響きが混じっていた。
『ふーん、言ってたね。確かに。だったらもうちょい約束守ってよ』
アカツキがわざとらしく火を揺らす。
『見つけたものを、ただ見ているだけだ』
白い蛇の影がゆらぎ、興味の熱だけをひと筋、深く落とした。
『もー! だから、そういう言い方がずるいっての。蛇……ほんと、ずるい』
アカツキの尾が、ぴしりと空気を打つ。声の奥には、拗ねたみたいな小さな棘があった。
……朱里とアカツキは、やっぱりどこか似てる。俺が怖がってることなんて、きっととっくにバレてる。そんな気がする。
『雨宮は面白い。まだ触れていない場所を、持っている』
執着とも好奇心ともつかない色。冷たいのに、どこか熱い声音。
(触れてない場所って……何の話だよ)
『……どっちにしても』
アカツキが小さくため息をついて、火をちろりと鳴らす。
『湊に近づくなら、主の前で正々堂々やってよ。こそこそ背中からさらってくみたいな真似、好きじゃないんだよね』
朱色の尻尾が、さりげなく俺のいる方を指した。口調は軽いのに、その奥にある感情は、ほんの少しだけ鋭い。
『狩りとは、そういうものだ』
白い光が、ごくわずかに細く笑った気がした。
(今、“狩り”って言ったよな)
『げっ……“狩り”って言うな!』
ケロスケが飛び上がって怒鳴る。泡がぱちんと弾けた。
『……あいつは、まだ息整えてる最中なんだよ』
『分かっている』
白い蛇の影が、また笑ったように揺れた。
『だから、急かさない。……ただ、見ているだけだ』
(できれば見ないで欲しいんだけど……ほんとに)
スイが、ふわっと羽を鳴らした。
『でもね。ほんとは三人とも気にしてるよ。気づいてないのは、本人たちだけ』
(……三人? 誰と誰と誰?)
問いかけても、返事は来ない。
光たちは、互いの声に返事を重ねながら、風の中でゆらゆらと形を変えていく。
聞こえたり、聞こえなかったり。誰が誰に向けた言葉なのか、半分以上は分からない。
でも、その世界の温度だけが、皮膚の裏にじわりと残った。まるで、空気そのものが呼吸しているみたいだった。
(見ちゃいけないものを、見てる気がする)
ボールを握り直して、静かに立ち上がる。
足音を立てないように、そっと後ずさった瞬間——白の気配がすっとこちらを向いた気がした。
息が止まる。
あ、と心の中で声が出たと同時に、青い光が前に弾ける。ケロスケが線を断つみたいに、白と俺の間に割り込んだ。
『湊、戻れ』
胸の奥に響く声は、いつもより一段低い。
ちょうどその時。
「どうしたの、雨宮?」
神代の声が飛んできた。
顔を上げると、グラウンドの中央でこちらへ向かって手を上げている。
慌てて返事をして走り出す。
途中で振り返ったときには、さっきの光はきれいさっぱり消えていた。
(……今の、何だったんだ)
拾ったボールがひんやりしていて、手の内側まで冷えていく。
走り出すと、肩のあたりで空気がふっと揺れた。そこに“いる”のは分かる。他の誰にも見えないだけで、俺の肩だけ微かに重さが変わる。
『秘密、見たな』
耳元に近い場所で、泡の弾けるような声。返事が遅れたのは、走っているせいじゃない。
(見たくて見たわけじゃないし)
『でも、見た』
(……それは、まあ……)
自分でも驚くくらい、声にならない溜息が胸の奥でしぼむ。肩の上でケロスケが小さく身じろぎした気配がして、その振動が首筋へ伝わった。
『あれは“主たちの裏側”ってやつだ。ま、オレらもお前らの影響、結構受けてんのさ』
(影響、ね……)
さっきの四匹の揺れ方を思い出す。
持ち主のことを話すときだけ、声の温度が少し変わっていた気がする。
守護生物が俺たちに影響を与えているみたいに、向こうもまた、少しずつ持ち主の影響を受けて変わっていくのかもしれない。
——気のせいかもしれないけど。
守護生物たちが集まって話すなんて、初めて見た。普通の人間の目には映らない、もう一つの世界。
その世界を少しだけ覗いてしまったような気がして、胸の奥で不安と好奇心が静かに交じった。
ちょっとだけ息をつくと、自分の中の緊張がほんのわずかに緩んだ。
ボールを持ち直して走り出す。その白が、曇り空の光を一瞬だけ強く跳ね返した。
◇
笛が鳴って、授業が終わる。
周りからいっせいに声が戻ってくる。誰かが笑い、水筒の氷がカランと鳴る。
なのに、自分だけまだ別の時間に取り残されている気がした。
神代はタオルで汗を拭きながら、何気ない顔でこっちを見た。その目は、昨日図書館で見た光と同じ色をしている。
蛇の目。でも今は、人間の形をしている。笑っているのに、どこか底が見えない瞳。
どっちが本当の“神代 怜”なんだろう。
風が吹いて、砂が軽く舞った。それでも、彼の輪郭だけは崩れない。
俺の中の水面も、同じようにざらついた。
静けさそのものより、一度破れたあとに戻ってくる静寂のほうが、ずっと怖い。
——その目は、まだ俺を見ていた。
◇
放課後になると、窓の外の曇り空は、夕方の光を少しだけ吸って、端の方がうっすらオレンジを帯びていた。
朱里が俺の机の端に腰をかけ、プリントで扇ぎながら言う。
「今日のお前、いつもと違うな」
「そう?」
「ああ。目が泳いでた。……距離のとり方、下手になってる」
「俺、もともと下手だよ」
口ではそう返したけど、声がほんの少し遅れて出た。
朱里は笑う。けれど、その笑いの奥に、静かな警戒の火が見えた。確かめるように。でも、責めるような温度じゃない。
俺が何かを言えないでいることに、たぶん気づいてる。
その視線を避けるように、窓の外へ目を向けた。
自分でも、今日の自分が“間合い”を見失っていた自覚はあった。だからこそ、朱里の言葉が変に真っ直ぐ刺さった。
校門を出ていく神代が見える。白い傘を持って、ゆっくりと歩いていた。肩口のあたりで、光がひとつ、瞬いた気がする。
その瞬間だけ、こちらを向かれたような感覚があって、思わず息を止めた。
(……また、見てる)
『お前も見てるけどな』
(……うっ。黙れって)
胸の奥でケロスケの声が泡みたいに弾ける。その音が、笑いと動揺の境目をぐちゃっと曖昧にした。
目を閉じて、ひとつ深呼吸をしてみる。肺に入った空気は冷たいのに、どこかで引っかかる。笑えるのに、怖い。
その中間の温度を抱えたまま、窓を静かに閉めた。
雲は、晴れそうで晴れない色をしたままだ。
日常と非日常の境界線は、相変わらず曖昧なまま。 俺の中でも同じように、どこまでが“普通”で、どこからが“異常”なのか——その境目は、もうはっきりとは分からなくなっていた。
投げ損ねたボールが、指先をすり抜けて転がっていった。白い球は軽く跳ねながら、グラウンドの端へと進んでいく。数歩追いかけて、しゃがみ込んだ。
地面の砂は、ところどころ薄く湿っている。しゃがんだ拍子に、靴底から立ち上る匂いは、やっぱりまだ“昨日の雨”を含んでいた。
ボールに手を伸ばした、そのとき——。
風の向こうから、声がした。
人の声に似ているけれど、違う。耳じゃなくて、頭の奥に直接落ちてくる感じ。
顔を上げると、フェンスの陰、木の根元のあたりに淡い光がいくつか揺れていた。
青、白、朱、そして淡い桃色。
それぞれが小さな呼吸をしているみたいに、輪郭を揺らしている。
(あれは……ケロスケたちか?)
グラウンドの喧騒が、そこだけ切り取られたみたいに遠くなる。
耳に入るのは、光たちの“声”だけだった。
『……ったく、主は主で素直じゃないんだよな』
朱色の尾が、むっとしたように火の粉を散らす。アカツキの声だ。
『あいつ、本当はずーっと見てたくせに、……“余裕”みたいな顔しちゃってさ』
軽く言っているのに、言葉の端にちくっとした棘が混じる。
(誰の話だ……?)
『風が落ち着かないね』
桃色の羽がふわっと揺れる。スイの声は雨上がりの風みたいに柔らかい。
『あの二人、体育祭のとき。走る前に交わした言葉と、ゴールの後に残した言葉。どっちも、まだ空に漂ってる』
その瞬間、朱色が白の方へ、ぴしっと尾を向けた。
『でさ、蛇。主の言葉、聞いてたよな?“ビビらせんなよ”って、ちゃんと言われてたじゃん』
朱い光がぷいっと揺れて、ふてくされたように膨らむ。
『なのにずっと湊の方ばっか見てる』
(……今、普通に俺の名前出たよな)
白い光が、ぬるりと形を変えて揺れた。
鱗の縁が硬い光を返す。白い蛇。
『忠告は聞いた』
白蛇の声は静かで、深い水底みたいな温度だった。
『だが、興味は隠せない。雨宮は、主と似ている。あの時も、視線がまっすぐだった……なのに掴めない』
(掴めないって……いや、手首は思いっきり掴まれましたけど)
こちらを見ているわけでもないのに“見られている”感覚だけが皮膚を刺した。まるで図書館のあの瞬間のように。
『あーもう黙れって言ってんだよ、蛇』
青い光がふわっと膨らんで、ケロスケの声が割り込んだ。
『あいつにこれ以上絡んでくんな。急にヌルッと出てきて睨むの、マジやめろ』
聞き慣れた皮肉っぽい調子に、少しだけ力が抜ける。迫力はないけど、セリフだけはちょっと頼もしい。
『湊はまだ余裕ねぇんだよ』
(……ケロスケ)
『……主は言っていた。“怖がらせたいわけではない”と』
白がさらりと返す。どこか愉しんでいる響きが混じっていた。
『ふーん、言ってたね。確かに。だったらもうちょい約束守ってよ』
アカツキがわざとらしく火を揺らす。
『見つけたものを、ただ見ているだけだ』
白い蛇の影がゆらぎ、興味の熱だけをひと筋、深く落とした。
『もー! だから、そういう言い方がずるいっての。蛇……ほんと、ずるい』
アカツキの尾が、ぴしりと空気を打つ。声の奥には、拗ねたみたいな小さな棘があった。
……朱里とアカツキは、やっぱりどこか似てる。俺が怖がってることなんて、きっととっくにバレてる。そんな気がする。
『雨宮は面白い。まだ触れていない場所を、持っている』
執着とも好奇心ともつかない色。冷たいのに、どこか熱い声音。
(触れてない場所って……何の話だよ)
『……どっちにしても』
アカツキが小さくため息をついて、火をちろりと鳴らす。
『湊に近づくなら、主の前で正々堂々やってよ。こそこそ背中からさらってくみたいな真似、好きじゃないんだよね』
朱色の尻尾が、さりげなく俺のいる方を指した。口調は軽いのに、その奥にある感情は、ほんの少しだけ鋭い。
『狩りとは、そういうものだ』
白い光が、ごくわずかに細く笑った気がした。
(今、“狩り”って言ったよな)
『げっ……“狩り”って言うな!』
ケロスケが飛び上がって怒鳴る。泡がぱちんと弾けた。
『……あいつは、まだ息整えてる最中なんだよ』
『分かっている』
白い蛇の影が、また笑ったように揺れた。
『だから、急かさない。……ただ、見ているだけだ』
(できれば見ないで欲しいんだけど……ほんとに)
スイが、ふわっと羽を鳴らした。
『でもね。ほんとは三人とも気にしてるよ。気づいてないのは、本人たちだけ』
(……三人? 誰と誰と誰?)
問いかけても、返事は来ない。
光たちは、互いの声に返事を重ねながら、風の中でゆらゆらと形を変えていく。
聞こえたり、聞こえなかったり。誰が誰に向けた言葉なのか、半分以上は分からない。
でも、その世界の温度だけが、皮膚の裏にじわりと残った。まるで、空気そのものが呼吸しているみたいだった。
(見ちゃいけないものを、見てる気がする)
ボールを握り直して、静かに立ち上がる。
足音を立てないように、そっと後ずさった瞬間——白の気配がすっとこちらを向いた気がした。
息が止まる。
あ、と心の中で声が出たと同時に、青い光が前に弾ける。ケロスケが線を断つみたいに、白と俺の間に割り込んだ。
『湊、戻れ』
胸の奥に響く声は、いつもより一段低い。
ちょうどその時。
「どうしたの、雨宮?」
神代の声が飛んできた。
顔を上げると、グラウンドの中央でこちらへ向かって手を上げている。
慌てて返事をして走り出す。
途中で振り返ったときには、さっきの光はきれいさっぱり消えていた。
(……今の、何だったんだ)
拾ったボールがひんやりしていて、手の内側まで冷えていく。
走り出すと、肩のあたりで空気がふっと揺れた。そこに“いる”のは分かる。他の誰にも見えないだけで、俺の肩だけ微かに重さが変わる。
『秘密、見たな』
耳元に近い場所で、泡の弾けるような声。返事が遅れたのは、走っているせいじゃない。
(見たくて見たわけじゃないし)
『でも、見た』
(……それは、まあ……)
自分でも驚くくらい、声にならない溜息が胸の奥でしぼむ。肩の上でケロスケが小さく身じろぎした気配がして、その振動が首筋へ伝わった。
『あれは“主たちの裏側”ってやつだ。ま、オレらもお前らの影響、結構受けてんのさ』
(影響、ね……)
さっきの四匹の揺れ方を思い出す。
持ち主のことを話すときだけ、声の温度が少し変わっていた気がする。
守護生物が俺たちに影響を与えているみたいに、向こうもまた、少しずつ持ち主の影響を受けて変わっていくのかもしれない。
——気のせいかもしれないけど。
守護生物たちが集まって話すなんて、初めて見た。普通の人間の目には映らない、もう一つの世界。
その世界を少しだけ覗いてしまったような気がして、胸の奥で不安と好奇心が静かに交じった。
ちょっとだけ息をつくと、自分の中の緊張がほんのわずかに緩んだ。
ボールを持ち直して走り出す。その白が、曇り空の光を一瞬だけ強く跳ね返した。
◇
笛が鳴って、授業が終わる。
周りからいっせいに声が戻ってくる。誰かが笑い、水筒の氷がカランと鳴る。
なのに、自分だけまだ別の時間に取り残されている気がした。
神代はタオルで汗を拭きながら、何気ない顔でこっちを見た。その目は、昨日図書館で見た光と同じ色をしている。
蛇の目。でも今は、人間の形をしている。笑っているのに、どこか底が見えない瞳。
どっちが本当の“神代 怜”なんだろう。
風が吹いて、砂が軽く舞った。それでも、彼の輪郭だけは崩れない。
俺の中の水面も、同じようにざらついた。
静けさそのものより、一度破れたあとに戻ってくる静寂のほうが、ずっと怖い。
——その目は、まだ俺を見ていた。
◇
放課後になると、窓の外の曇り空は、夕方の光を少しだけ吸って、端の方がうっすらオレンジを帯びていた。
朱里が俺の机の端に腰をかけ、プリントで扇ぎながら言う。
「今日のお前、いつもと違うな」
「そう?」
「ああ。目が泳いでた。……距離のとり方、下手になってる」
「俺、もともと下手だよ」
口ではそう返したけど、声がほんの少し遅れて出た。
朱里は笑う。けれど、その笑いの奥に、静かな警戒の火が見えた。確かめるように。でも、責めるような温度じゃない。
俺が何かを言えないでいることに、たぶん気づいてる。
その視線を避けるように、窓の外へ目を向けた。
自分でも、今日の自分が“間合い”を見失っていた自覚はあった。だからこそ、朱里の言葉が変に真っ直ぐ刺さった。
校門を出ていく神代が見える。白い傘を持って、ゆっくりと歩いていた。肩口のあたりで、光がひとつ、瞬いた気がする。
その瞬間だけ、こちらを向かれたような感覚があって、思わず息を止めた。
(……また、見てる)
『お前も見てるけどな』
(……うっ。黙れって)
胸の奥でケロスケの声が泡みたいに弾ける。その音が、笑いと動揺の境目をぐちゃっと曖昧にした。
目を閉じて、ひとつ深呼吸をしてみる。肺に入った空気は冷たいのに、どこかで引っかかる。笑えるのに、怖い。
その中間の温度を抱えたまま、窓を静かに閉めた。
雲は、晴れそうで晴れない色をしたままだ。
日常と非日常の境界線は、相変わらず曖昧なまま。 俺の中でも同じように、どこまでが“普通”で、どこからが“異常”なのか——その境目は、もうはっきりとは分からなくなっていた。
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