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京のかりそめ
第二十七話「空腹と、彼の違和感」
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10月22日。
その日の朝、私は初めて寮の朝食を断った。
「ごめん、今日は朝から行きたいカフェがあって」と嘘をつく私に、寮の皆は「いってらっしゃい」と笑顔で手を振ってくれる。彩花だけが、テーブルの下で、私の手を心配そうにぎゅっと握ってくれた。
彩花との最後のお出かけは、とても穏やかな時間だった。
話題の恋愛映画を見て、二人でこっそり涙を拭い、博物館では美しい展示にただただ心を奪われる。空腹を忘れるほど、夢中になっていた。
「なんだか、デートみたいだね」
「ほんとだね」
私たちは、どちらからともなくそう言って、笑い合った。この、何気ない一日が、私にとってどれほど大切な宝物になったか、彩花は知る由もないだろう。
寮に帰ると、夕食のいい匂いがした。
リビングでは、皆が楽しそうに食卓を囲んでいる。私は「夜も友達と約束があるから」と再び嘘を重ね、自室へと逃げ込んだ。
胃がきりきりと痛み始める。それは、空腹のせいだけではない、ということを私は分かっていた。
その夜、なかなか寝付けずにいると、ふと、このまま眠ってしまうのが酷く勿体ないような気がした。
この世界で過ごせる時間は、もうあと二日と少ししかない。
私は、何か静かな本でも読もうと、自室を出て一階のリビングへと向かった。心のどこかで、彼が帰ってきているだろうか、と期待している自分がいた。
リビングには、予想通り明かりが灯っていた。そして、パソコンのタイピング音が、静かに響いている。
伊織先輩だ。彼は、昼間はどこかへ出かけていたのだろうか。
「……お、おかえりなさい」
やや上擦った声で挨拶すると、彼はキーボードを打つ手を止め、パタン、と少し乱暴にパソコンを閉じた。そして、ゆっくりとこちらを振り返る。
その瞬間の、彼の雰囲気が、いつもと違うことに気づいて、私は思わずビクッと体を震わせてしまった。
いつもの穏やかな凪のような空気が、ない。瞳の奥が、鋭く光っているように見えた。
「……うん、ただいま」
しかし、次の瞬間には、彼はもういつもの優しい笑みを浮かべていた。気のせいだったのかと、私はほっと胸をなでおろした。
「今日も遅かったんですね」
「少しね。それより、美緒ちゃん。あと二日で、帰るって本当?」
「あ……はい。その、予定です」
「そっか……」
彼が、寂しそうに目を伏せる。その表情に、私の心はちくりと痛んだ。
その時だった。
―――ぐぅぅううう。
静まり返ったリビングに、私の腹の音が、あまりにも大きく響き渡った。
顔から火が出るほど恥ずかしい。慌ててお腹を押さえる私を見て、伊織先輩はくすっと笑った。
「お腹、すいたの? 夜ご飯、まだだったんかな。何か食べる?」
「あ、あの……! 大丈夫です! 飲み物だけ……もらえれば……」
「そう? 何飲む? いつものコーヒー?」
「いえ……! 今日は、普通のお水が、いいです」
松岡さんの「水以外は口にするな」という言葉が、頭にこびりついている。
私の返事に、伊織先輩の笑顔が、ほんの僅かに消えた気がした。
「……そうなんだ。分かった」
彼はすぐにいつもの表情に戻ると、キッチンへ向かい、私に一杯の水を差し出してくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
グラスを受け取りながら、私は彼の目を盗み見る。
彼の瞳は、笑っていなかった。
まるで、何かを分析するかのような、探るような視線。
彼は、私の嘘に気づいている。私の「絶食」という異常な行動に、何か感づいているのだ。
その事実が、グラスを持つ私の手を、カタカタと震わせた。
その日の朝、私は初めて寮の朝食を断った。
「ごめん、今日は朝から行きたいカフェがあって」と嘘をつく私に、寮の皆は「いってらっしゃい」と笑顔で手を振ってくれる。彩花だけが、テーブルの下で、私の手を心配そうにぎゅっと握ってくれた。
彩花との最後のお出かけは、とても穏やかな時間だった。
話題の恋愛映画を見て、二人でこっそり涙を拭い、博物館では美しい展示にただただ心を奪われる。空腹を忘れるほど、夢中になっていた。
「なんだか、デートみたいだね」
「ほんとだね」
私たちは、どちらからともなくそう言って、笑い合った。この、何気ない一日が、私にとってどれほど大切な宝物になったか、彩花は知る由もないだろう。
寮に帰ると、夕食のいい匂いがした。
リビングでは、皆が楽しそうに食卓を囲んでいる。私は「夜も友達と約束があるから」と再び嘘を重ね、自室へと逃げ込んだ。
胃がきりきりと痛み始める。それは、空腹のせいだけではない、ということを私は分かっていた。
その夜、なかなか寝付けずにいると、ふと、このまま眠ってしまうのが酷く勿体ないような気がした。
この世界で過ごせる時間は、もうあと二日と少ししかない。
私は、何か静かな本でも読もうと、自室を出て一階のリビングへと向かった。心のどこかで、彼が帰ってきているだろうか、と期待している自分がいた。
リビングには、予想通り明かりが灯っていた。そして、パソコンのタイピング音が、静かに響いている。
伊織先輩だ。彼は、昼間はどこかへ出かけていたのだろうか。
「……お、おかえりなさい」
やや上擦った声で挨拶すると、彼はキーボードを打つ手を止め、パタン、と少し乱暴にパソコンを閉じた。そして、ゆっくりとこちらを振り返る。
その瞬間の、彼の雰囲気が、いつもと違うことに気づいて、私は思わずビクッと体を震わせてしまった。
いつもの穏やかな凪のような空気が、ない。瞳の奥が、鋭く光っているように見えた。
「……うん、ただいま」
しかし、次の瞬間には、彼はもういつもの優しい笑みを浮かべていた。気のせいだったのかと、私はほっと胸をなでおろした。
「今日も遅かったんですね」
「少しね。それより、美緒ちゃん。あと二日で、帰るって本当?」
「あ……はい。その、予定です」
「そっか……」
彼が、寂しそうに目を伏せる。その表情に、私の心はちくりと痛んだ。
その時だった。
―――ぐぅぅううう。
静まり返ったリビングに、私の腹の音が、あまりにも大きく響き渡った。
顔から火が出るほど恥ずかしい。慌ててお腹を押さえる私を見て、伊織先輩はくすっと笑った。
「お腹、すいたの? 夜ご飯、まだだったんかな。何か食べる?」
「あ、あの……! 大丈夫です! 飲み物だけ……もらえれば……」
「そう? 何飲む? いつものコーヒー?」
「いえ……! 今日は、普通のお水が、いいです」
松岡さんの「水以外は口にするな」という言葉が、頭にこびりついている。
私の返事に、伊織先輩の笑顔が、ほんの僅かに消えた気がした。
「……そうなんだ。分かった」
彼はすぐにいつもの表情に戻ると、キッチンへ向かい、私に一杯の水を差し出してくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
グラスを受け取りながら、私は彼の目を盗み見る。
彼の瞳は、笑っていなかった。
まるで、何かを分析するかのような、探るような視線。
彼は、私の嘘に気づいている。私の「絶食」という異常な行動に、何か感づいているのだ。
その事実が、グラスを持つ私の手を、カタカタと震わせた。
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