その腕は、やさしい地獄

沙夜

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京のかりそめ

第二十九話「繰り返す朝」

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10月23日、絶食二日目。
朝、目を覚ましてからの記憶は、思い出したくもない靄の中にあった。
空腹による気だるさと、下腹部に居座る鈍い感覚。そして、何よりも心を蝕むのは、自分の身体に何が起きているのか分からないという恐怖だった。

その日、私はほとんどの時間を自室にこもって過ごした。食事をとっていない分、無駄な体力は使いたくなかった。時折、彩花が心配してコップに入った水を持って部屋を訪ねてくれる。その優しさだけが、今の私の唯一の救いだった。

夕食後、リビングで皆が談笑している時間を見計らい、私は伊織先輩に声をかけた。昨夜の記憶の空白を、どうしても埋めておきたかったのだ。

「あの、伊織先輩。昨日の夜のことなんですけど……」
「ん? どうかした、美緒ちゃん」
「私、リビングで話した後の記憶が朧気で……。自分で二階に上がったんでしたっけ?」

私の質問に、彼は少しも動揺した様子を見せず、穏やかに答えた。

「ああ。美緒ちゃん、ここでうとうとしてたからね。心配で部屋の前までついて行ったけど、ちゃんと自分の足で部屋に入っていったよ」
「そっか……。すみません、疲れてたのかな……」
「多分ね。帰るための片付けとかもあるだろうし、肉体的だけじゃなくて、精神的にも疲れてるのかも」

彼の言葉は、あまりにも理路整然としていた。
そうだ、私は疲れているんだ。だから、記憶も曖昧になるし、身体にも変なことが起きるんだ。
私は、彼の完璧な嘘に、そうとも知らず安堵した。

その夜も、私はなかなか寝付けなかった。
空腹と、明日への緊張。そして、自分の身体への言いようのない不安。
様々な感情が渦巻く中、私はいつの間にか、深い眠りへと落ちていった。



そして、10月24日、絶食三日目の朝。
今日もあの感覚と共に目を覚ました。

気だるい身体。妙によれたパジャマ。そして、下腹部の違和感と、股の間に感じる、ぬるりとした不快感。
これまでと違ったのは、下腹部に甘い痺れを感じたことだ。
それが尚更、不気味だった。

震える足でトイレに駆け込み、下着を下ろす。
そこには、昨日よりも多くの、白濁した粘り気のある液体が付着していた。幸い、血は混ざっていない。

(これ、良くない病気なのかな……。性病、とか……?)

生まれてこの方、経験したことのない事態に、頭が真っ白になる。
産婦人科に行きたい。でも、保険証が通用するか分からないし、そもそも、この世界の病院がどうなっているのかも分からない。

(……どうせ明日、帰るんだから)

私は、自分に言い聞かせた。
明日、元の世界に帰れば、すぐに病院に行ける。そしたら、この異常の正体も分かるはずだ。
だから、今日一日だけ。
今日一日だけ、耐えればいい。

私は、バスルームで冷たい水を何度も顔にかけた。
鏡に映った自分の顔は、三日前の面影もないほど、青白くやつれていた。
帰還の条件である「絶食」が、皮肉にも、私の抵抗する力を、静かに、しかし確実に奪い去っていた。
そのことに、この時の私はまだ気づいていなかった。
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