その腕は、やさしい地獄

沙夜

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鳥籠の扉が閉じる音

第三十四話「約束の日」

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目が覚めた時、最初に視界に入ったのは、穏やかな寝息を立てる伊織先輩の顔だった。
私は、彼の腕の中に、しっかりと抱き締められていた。
昨夜の出来事が、悪夢ではなかったことを突きつけるように、身体の節々が軋むように痛んだ。ここ数日の朝とは比べ物にならないほどの、凄まじい倦怠感。

自分の身体を見下ろして、私は息を呑んだ。
腕、胸、お腹。白い肌の上に、まるで所有印を刻むかのように、紫色の噛み跡や鬱血痕が、点々と散らばっていた。
そして、下腹部の奥には、無視しようのない鈍い熱が残っている。
これが、彼の「好き」の証明だというのか。

絶望に打ちひしがれていた、その時。
枕元のデジタル時計の表示が、目に入った。

【10月25日 AM 8:15】

―――約束の、日。
今日、昼に、松岡さんと会って、私は家に帰るんだ。

その事実だけが、死んでいた私の心に、無理やり火を灯した。
行かないと。
何としてでも、ここから抜け出して、あのカフェへ。

私は、彼の腕をそっと持ち上げた。眠っている彼を起こさないように、息を殺し、ベッドから抜け出そうと試みる。
身体は悲鳴を上げていたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
あと少し。あと少しで、彼の腕から解放される―――。

そう思った瞬間、背中に回っていた腕に、ぐっ、と力が込められた。

「ん……あっ!?」

強く引き戻され、再び彼の胸の中に閉じ込められる。
見上げると、いつから起きていたのか、伊織先輩がぱっちりと目を開けて、私を見下ろしていた。
その瞳には、いつもの穏やかさなど、どこにもない。

「おはよう、美緒ちゃん」

その声は、地獄の底から響くように、冷たかった。

「……はな、して……」
「どこ行くん?」
「行かなきゃ……! 松岡さんが、待ってる……! 私、かえら、なきゃ……っ!」

私の必死の訴えを、彼は、困った子どもを相手にするように笑った。

「逃がさんよ」

その一言が、私の最後の希望を打ち砕く。
彼は、私の身体の上に、再び乗り上げてきた。

「心も身体も、こないに結ばれたのに。僕を置いていくなんて、そんな酷いこと言うなんて……。まだ、僕の思いが、伝えきれてへんかったんかなあ」

その歪んだ愛情の言葉を、私はもう、恐怖でしか受け止められない。
抵抗しようとする私の両腕を、彼は片手で軽々と押さえつけた。

「ひっ……いやっ……やめ……!」
「大丈夫。もっと、もっと好きになってもらえるように、ちゃんと思い、伝えたるから」

再び、悪夢が始まる。
彼の部屋の時計の針が、無慈悲に時を刻んでいくのが見えた。
九時。十時。十一時。
約束の時間が、刻一刻と、近づいてくる。
そして、遠ざかっていく。

(松岡、さん……ごめ、なさ……)

何度も、何度も、身体の奥を貫かれ、思考が白く染まっていく。
与えられる屈辱的な快楽に、私の心は、完全に折れた。
もう、駄目だ。
もう、帰れない。
再び意識を手放す寸前、窓から差し込む光が、やけに明るいことだけを、ぼんやりと考えていた。
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