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あなたのいる地獄へ
仲居の潜入
敵のいるクラブの裏口近く、車は息を殺すように停車した。
「これが、クラブの制服です。急いでかき集めました」
シゲさんが後部座席に投げ入れたのは、黒いベストとスラックス、白いシャツだった。私は震える手で、しかし迷いなく作務衣を脱ぎ捨て、それに着替える。サイズが合わないのは仕方がない。髪に挿していた簪を抜き、きつく一つに結び直した。鏡に映る私は、どこにでもいる緊張した新人バイトにしか見えなかった。
「敵の組長の名前は『鮫島』。幹部は『遠藤』と『片桐』。若は最上階のVIPルームに捕らえられている可能性が高い。だが、そこまでのルートにはおそらく大勢…」
「大丈夫です」
私は、シゲさんの言葉を遮った。彼が渡してくれたお盆と空のグラスを手に取る。
「仲居の仕事は、お客様が何を欲しているか、言われる前に察すること。…行ってきます」
車の外に出た瞬間、遠くで轟く爆発音と銃声が、陽動が始まったことを告げていた。
私は一度だけ深く息を吸い、心を研ぎ澄ませた。
裏口の業者用通用口へと走る。案の定、見張りは一人。しかし、彼は銃を構えたまま、私の姿を認めると即座に銃口を向けた。
「止まれ。誰だてめぇ」
「…っ!」
私はわざとらしくビクリと肩を震わせ、怯えた声を絞り出した。
「き、キッチンスタッフです! 片桐様から、至急お酒をお持ちしろと…!」
「あ? 片桐の兄貴が? こんな時にか」
男は全く信用していない。銃口は私に向けられたままだ。
「嘘つくんじゃねえぞ。今、正面はドンパチやってんだ。誰も酒なんざ頼むか」
「そ、それが…! 遠藤様と口論になって、頭を冷やすからだと…! インカムも繋がらないから、直接言いつかったんです! 遅いと殺されるって…!」
咄嗟に、シゲさんから聞いた幹部二人の名前を使い、ありそうな内部の揉め事をでっち上げる。私の必死の形相に、男の眉がわずかに動いた。
「…本当だろうな」
「本当です! ご不審なら、ここで待っていますので、どなたかに確認を…! でも、もしそれで私が遅れて、片桐様のご機嫌を損ねたら…!」
私はそう言って、お盆を持つ手をわざと震わせた。
その言葉が、男の思考を揺さぶった。この混乱の中、上の人間の機嫌を損ねるリスクと、私一人を通すリスク。彼はそれを天秤にかけたのだ。
男は忌々しそうに舌打ちすると、銃口を下げずに顎で中をしゃくった。
「…行け。だが、少しでも怪しい動きを見せたら、背中から撃ち抜く。覚えとけ」
「は、はい!」
第一関門、突破。心臓の鼓動は激しいが、私の意識は冷静だった。
クラブの中は、怒号と混乱に満ちていた。
組員たちが慌ただしく行き交う中、私はお盆を胸に抱え、壁際を早足で進む。常に目的があるように見せかける。仲居として叩き込まれた、客に不快感を与えない滑るような動きが、今は完璧なカモフラージュとなっていた。
最上階のフロアは、下の階とは打って変わって静まり返っていた。だが、その空気は鉛のように重い。一番奥の、ひときわ重厚な扉の前に、二人の見張りが立っている。ここが、目的地。
深呼吸を一つ。横柄な態度は、ここでは通用しない。私が演じるべきは、上の命令に怯え、板挟みになった哀れな末端だ。
私は、わざとらしくお盆を持つ手を震わせながら、泣きそうな顔で見張りたちに駆け寄った。
「あ、あの…!」
「なんだ騒がしい。持ち場を離れるな」
「すみません! 下で、片桐様が…! 組長に、至急このお水をお届けしろと…!」
私が差し出したお盆を、見張りは訝しげに見下ろす。
「水だと? 組長は今、大事な客人の相手をしてるんだ。邪魔するんじゃねえ」
「で、でも、片桐様が『遠藤との話が長引く前に、組長にこれを飲んでいただいて、頭を冷やしていただかなければ大変なことになる』って…! 私、何を言ってるのか分からなくて、でも、とにかく早くしろって…!」
幹部二人の名前と、意味ありげな言葉。そして、それを運ぶのがただの水であるという不自然さ。私の必死の演技が、見張りたちの思考を混乱させた。
彼らが判断に迷っている、その一瞬の隙を私は見逃さない。
「どうしたら…! このままじゃ、私、片桐様に殺されます…!」
そう言って、私はその場にへたり込み、お盆を抱えてわざとらしく泣き真似をした。
下っ端の女が、幹部の無茶な命令でパニックに陥っている。その構図は、彼らにとって見慣れたものだったのかもしれない。
「…チッ、面倒なこと押し付けやがって」
見張りの一人が、渋々扉のロックを解除した。
「いいか、水だけ置いて、すぐに戻ってこい。余計なことは一切するなよ」
「は、はい…!」
心の中で、勝利を確信する。仲居の仕事は、時に客の無理難題を、いかに穏便に、しかし確実に通すか。嘘と真実を織り交ぜて相手の同情を誘い、懐に入り込むのは得意分野だった。
重い扉が、ギ、と音を立てて開く。
私は怯えた表情を完璧に作りながら、中に足を踏み入れた。
部屋の中央、椅子に縛り付けられ、口元から血を流しながらも、その瞳だけは少しも光を失っていない男。
――湊さん。
私は、無事、彼のもとにたどり着いた。
「これが、クラブの制服です。急いでかき集めました」
シゲさんが後部座席に投げ入れたのは、黒いベストとスラックス、白いシャツだった。私は震える手で、しかし迷いなく作務衣を脱ぎ捨て、それに着替える。サイズが合わないのは仕方がない。髪に挿していた簪を抜き、きつく一つに結び直した。鏡に映る私は、どこにでもいる緊張した新人バイトにしか見えなかった。
「敵の組長の名前は『鮫島』。幹部は『遠藤』と『片桐』。若は最上階のVIPルームに捕らえられている可能性が高い。だが、そこまでのルートにはおそらく大勢…」
「大丈夫です」
私は、シゲさんの言葉を遮った。彼が渡してくれたお盆と空のグラスを手に取る。
「仲居の仕事は、お客様が何を欲しているか、言われる前に察すること。…行ってきます」
車の外に出た瞬間、遠くで轟く爆発音と銃声が、陽動が始まったことを告げていた。
私は一度だけ深く息を吸い、心を研ぎ澄ませた。
裏口の業者用通用口へと走る。案の定、見張りは一人。しかし、彼は銃を構えたまま、私の姿を認めると即座に銃口を向けた。
「止まれ。誰だてめぇ」
「…っ!」
私はわざとらしくビクリと肩を震わせ、怯えた声を絞り出した。
「き、キッチンスタッフです! 片桐様から、至急お酒をお持ちしろと…!」
「あ? 片桐の兄貴が? こんな時にか」
男は全く信用していない。銃口は私に向けられたままだ。
「嘘つくんじゃねえぞ。今、正面はドンパチやってんだ。誰も酒なんざ頼むか」
「そ、それが…! 遠藤様と口論になって、頭を冷やすからだと…! インカムも繋がらないから、直接言いつかったんです! 遅いと殺されるって…!」
咄嗟に、シゲさんから聞いた幹部二人の名前を使い、ありそうな内部の揉め事をでっち上げる。私の必死の形相に、男の眉がわずかに動いた。
「…本当だろうな」
「本当です! ご不審なら、ここで待っていますので、どなたかに確認を…! でも、もしそれで私が遅れて、片桐様のご機嫌を損ねたら…!」
私はそう言って、お盆を持つ手をわざと震わせた。
その言葉が、男の思考を揺さぶった。この混乱の中、上の人間の機嫌を損ねるリスクと、私一人を通すリスク。彼はそれを天秤にかけたのだ。
男は忌々しそうに舌打ちすると、銃口を下げずに顎で中をしゃくった。
「…行け。だが、少しでも怪しい動きを見せたら、背中から撃ち抜く。覚えとけ」
「は、はい!」
第一関門、突破。心臓の鼓動は激しいが、私の意識は冷静だった。
クラブの中は、怒号と混乱に満ちていた。
組員たちが慌ただしく行き交う中、私はお盆を胸に抱え、壁際を早足で進む。常に目的があるように見せかける。仲居として叩き込まれた、客に不快感を与えない滑るような動きが、今は完璧なカモフラージュとなっていた。
最上階のフロアは、下の階とは打って変わって静まり返っていた。だが、その空気は鉛のように重い。一番奥の、ひときわ重厚な扉の前に、二人の見張りが立っている。ここが、目的地。
深呼吸を一つ。横柄な態度は、ここでは通用しない。私が演じるべきは、上の命令に怯え、板挟みになった哀れな末端だ。
私は、わざとらしくお盆を持つ手を震わせながら、泣きそうな顔で見張りたちに駆け寄った。
「あ、あの…!」
「なんだ騒がしい。持ち場を離れるな」
「すみません! 下で、片桐様が…! 組長に、至急このお水をお届けしろと…!」
私が差し出したお盆を、見張りは訝しげに見下ろす。
「水だと? 組長は今、大事な客人の相手をしてるんだ。邪魔するんじゃねえ」
「で、でも、片桐様が『遠藤との話が長引く前に、組長にこれを飲んでいただいて、頭を冷やしていただかなければ大変なことになる』って…! 私、何を言ってるのか分からなくて、でも、とにかく早くしろって…!」
幹部二人の名前と、意味ありげな言葉。そして、それを運ぶのがただの水であるという不自然さ。私の必死の演技が、見張りたちの思考を混乱させた。
彼らが判断に迷っている、その一瞬の隙を私は見逃さない。
「どうしたら…! このままじゃ、私、片桐様に殺されます…!」
そう言って、私はその場にへたり込み、お盆を抱えてわざとらしく泣き真似をした。
下っ端の女が、幹部の無茶な命令でパニックに陥っている。その構図は、彼らにとって見慣れたものだったのかもしれない。
「…チッ、面倒なこと押し付けやがって」
見張りの一人が、渋々扉のロックを解除した。
「いいか、水だけ置いて、すぐに戻ってこい。余計なことは一切するなよ」
「は、はい…!」
心の中で、勝利を確信する。仲居の仕事は、時に客の無理難題を、いかに穏便に、しかし確実に通すか。嘘と真実を織り交ぜて相手の同情を誘い、懐に入り込むのは得意分野だった。
重い扉が、ギ、と音を立てて開く。
私は怯えた表情を完璧に作りながら、中に足を踏み入れた。
部屋の中央、椅子に縛り付けられ、口元から血を流しながらも、その瞳だけは少しも光を失っていない男。
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私は、無事、彼のもとにたどり着いた。
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