龍の腕に咲く華

沙夜

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あなたのいる地獄へ

地獄の只中で

重厚な扉が、背後でゆっくりと音もなく閉ざされた。
部屋の中にいたのは、二人。
部屋の奥、豪華なソファに深く腰掛け、グラスを傾けている男。おそらくはここの主、鮫島組長。
そして、部屋の中央、椅子に腕を背中に回す形で縛り付けられ、口元から血を流しながらも、その瞳だけは少しも光を失っていない男。
――湊さん。

私の姿を認めた湊さんの目に、一瞬、信じられないものを見るような驚きが走り、次の瞬間には「なぜここにいる」という、燃えるような怒りの色に変わった。しかし、彼は何も言わなかった。ただ、唇を固く結び、私から視線を逸らした。

「あ? なんだ、お前は」

ソファに座る鮫島が、気だるそうに私に声をかけた。その目は、獲物を見下す捕食者のそれで、冷たく光っていた。
私は練習通り、怯えた小動物のように肩を震わせた。
「も、申し訳ありません! 下で、片桐様が、組長にこちらのお水を…」
「水だと? こんな時にか」
鮫島は訝しげに私を一瞥したが、すぐに興味を失くしたように、再び湊さんへと視線を戻した。
「まあいい。そこに置いとけ」

私は「は、はい」と震える声で答え、鮫島の座るテーブルへと、わざと覚束ない足取りで近づいた。お盆を持つ手が、カタカタと音を立てる。その全てが、私の計算された演技だった。

テーブルに水差しを置き、鮫島の空のグラスに水を注ぐ。その時、私はわざとバランスを崩したフリをして、グラスの水を少量、テーブルにこぼした。
「あ、申し訳ありません!」
「チッ、使えねえ女だな」
鮫島が悪態をつく。私は慌てて懐からおしぼりを取り出し、テーブルを拭き始めた。
この一連の動きは、全てカモフラージュ。私の本当の狙いは、テーブルの上にあった。そこには、鮫島がフルーツでも切っていたのだろうか、銀色に光る小さなペティナイフが無造作に置かれていた。

テーブルを拭くふりをしながら、私はおしぼりを持つ手で、そのナイフをゆっくりとテーブルの縁へとずらしていく。数ミリ、また数ミリ。鮫島と、そして湊さんからも死角になる位置へ。

「おい、いつまでやってる。さっさと失せろ」
「は、はい! ただいま!」

鮫島の苛立った声に、私はびくりと肩を揺らす。そして、最後にテーブルを拭き上げたその瞬間、おしぼりを引く動きに合わせて、ナイフを床へと滑り落とした。
カタン、と小さな音がして、ナイフはソファの影、湊さんの足元へと転がっていく。完璧だった。

湊さんの身体が、わずかに動いたのが分かった。彼は、私の意図に気づいたのだ。

私は深々と頭を下げ、部屋の出口へと向かう。心臓は、今にも張り裂けそうだった。
扉に手をかけようとした、その時。

「待て」

鮫島の、静かだが鋭い声が、私の背中に突き刺さった。
「お前、本当にただの仲居か?」
全身の血が凍りつく。ゆっくりと振り返ると、鮫島の目が、獲物を捉えた蛇のように、私を射抜いていた。
「その歳で、この状況で、少し、落ち着きすぎじゃねえか?」

見破られた。
万事休す。
私が息を呑んだ、その瞬間だった。

「――てめぇの相手は、俺だろうが」

低い、けれど部屋の空気を震わせる声。
湊さんだった。
彼は、足元に転がったナイフを巧みに靴で操り、背中に回された腕の縄を、一本だけ切断していたのだ。自由になった片手で、彼は椅子を蹴り倒すと同時に、近くにあったウイスキーのボトルを掴み、鮫島めがけて投げつけていた。

ガラスの割れる派手な音と共に、部屋は一瞬で混乱に包まれる。
「奏! 走れ!」

あの夜、冷たく告げられた絶望の象徴。私の本当の名前。
それが今、私を逃がすための必死の叫びとなって、鼓膜を突き破った。
それが、反撃の狼煙だった。
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