白と灰の優しい獣

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2 灰色の狼

2-3

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「ここは私が住むところだよ。普通の動物達には来られない、山の社のずっと奥にあるところ。保護した君をここに連れてきたんだ」
「……山の奥?」
「んー、少し違うけどそんな感じかな」

 先程までの荒らげた声とは違う短い返答に兎は穏やかに微笑みながらそう応えると、頭に添えたままの手で髪の毛をわしゃりと撫でた。
 すると、少年ははっと目を見開き、自然に受け入れていたその行為を手を跳ねのけるようにしてぶんぶんと頭をふりながら拒んでみせる。

「あんたは?」

 じっとりとした視線を向け、物言いたそうに眉間に皺を寄せながら口をとがらせる少年に対し、兎はさして気にする素振りも見せずに人あたりの良さそうな笑みを浮かべながら口を動かした。

「俺は雫。君は?」
「……優」
「ユウちゃんか。いい名前だね」

 振り払われた手がまた再び灰色の髪をわしゃわしゃと撫でる。先程より少しだけ勢いを増して髪を掻き混ぜるように動かされた手を少年――優は、いいよいよ片手で払い除け、ぱしりと軽い音が部屋に響いた。

「子供扱いすんな!つーかなんなんだよこの姿!」
「ああ、ごめんごめん」

 払われた勢いのまま行き場を失った手をひらひらと振りながら、雫は謝罪には似つかわしくない笑顔を浮かべながらそう言った。
 言葉尻に高らかな笑いを混ぜた後に、雫は不信そうに己を見つめなおすと、どこから話したものかと口元に手を添えながら少しばかりの思案の姿勢を見せる。そして、ほんの僅かに声のトーンを落としてこう言った。

「ここはね、世界の中でも不思議な力が集う場所のひとつなんだ。この姿はその影響のひとつさ」
「不思議な力?」
「生き物にはみんなそれぞれ不思議な力がある。それはとても小さなものなんだけど、ごく稀に強い力の持ち主や場所が存在しているんだ」
「なんだよ、それ……。ってか、なんでよりによってニンゲンなんだよ……!」
「……ごめん。それは俺にもよく分からない」

 優の瞳がわかりやすく怒りに濁る。その心中を察すると、雫はこれ以上の説明もせずに一言の詫びの言葉で話を締め括った。

 雫は分からないと一言で返したが、人間の容姿に酷使する現象についてはいくつかのおとぎ話がつたわっている。
 一説によれば、進化と成長の証として『人』は利便性に特化している姿であり、子が親に似るように神に近づいたものだからと言われているが、また別の説では進化しすぎた『人』を欺くために、似通った容姿へと多種族が擬態した事が起源ともいわれていた。
 話したところで、おそらく今の優には人間に関わる話など耳にしたくもないだろう。そう思い、雫はあえてなんの情報も伝えず、ただ拳を強く握りしめる優を静かに見守ることを選択した。

「群れのみんなは……どうなった」

 ぎりりと、歯ぎしりの音がする。俯きながらそう言う優は表情こそ見えないものの、白くなるほど握り締められた拳が心境の全てを物語っていた。
 狼は誇り高く、敵対する者へも物怖じる事無く立ち向かう勇敢さに加え、群れで行動する動物の中でも特に仲間意識の強い生き物だ。雫は、子を守るように大人の狼が覆いかぶさっていた亡骸の山を実際に目にしている。
 そして、目の前の少年が自分は守られていたのだという事を自覚していることも同時に理解していた。守られているだけの不甲斐なさと、守れなかった己の弱さに悔いる姿が、雫にはとても痛々しく映った。

「……俺が助けられたのは君だけだ」
「――――ッ!」

 握られた拳が鈍い音をたてて床に叩き付けられた。
 声にならない、短い鳴き声のような高い音が俯いた優から堪えられずに溢れ出る。二度三度と叩きつけられる拳は薄い皮膚をうっすらと破り、白から赤へと血色が変わっていく。
 その様子を黙って見ていることが出来なかったのだろう。雫の色白の手が、もうやめろと言うように赤くなった拳を掴んだ。

 山の神とはいえ、弱肉強食という自然の摂理を否定する事は出来ない。弱い生き物が強い生き物によって糧とされるのは、いってしまうと仕方の無い事であり、それによってこの世界は成り立っている。
 しかし、全てを黙認する訳にはいかない。食物連鎖の域を崩すほどの規模であれば、このように神はその片寄った天秤を元の近郊に戻すべく強者を裁く。それがこの森の神に与えられた役割だった。

「ごめん。君の家族を、助けられなくて」

 それでも、もう少し早く駆け付けられていればこの子は一人にはならなかったかもしれない。
 そう考えたところで実際に起きた事態は変えられなかったとしても、雫は己の判断で一匹の狼に大きな孤独を背負わせた事実に拳を受け止めた掌が僅かに震えた。

 震えた理由はそれだけではない。人に殺された生き物は必ず人を憎むだろう。だが、その先にある復讐は新たな火種を産む原因にしかならない。
 神として、それを許す事も出来ない。雫は、優から復讐の機会さえも奪ったのだ。

「あんたが……!」

 再び手が振り払われる。子供とは思えない強さで跳ね除けたその手はそのまま雫の胸ぐらを掴み、涙を浮かべた歪んだ黄金の瞳が雫の真っ赤な瞳を真っ正面から捉えた。
 怒りと憎しみ。そして悲しさを全て綯い交ぜにしたようなその顔はくしゃくしゃに歪み、今にも零れそうな涙がゆらゆらと瞳を揺らす。

 己を責めることでこの子の気が紛れるのならと、雫はそう思い、罵倒も暴力も全て受け入れるつもりで瞼を下ろした。

 胸ぐらを掴む手にさらに力が込められる。
 だが、雫の予想に反し、視界を閉ざしたまま状況は変わらない。


「あんた、が……」


 そして、鼻をすすり、弱々しく震えた声が耳に届いた。


「助けてくれたんだろ……俺の、こと……。そんな顔、すんなよ……っ」


 殴られるよりも強い衝撃が雫を襲った。
 少し前までの命の危機に瀕していた子供が。家族を失ったばかりの子が。あったばかりの他者を労わっているのだ。
 本当ならば衝動のままに叫びたいだろう。何かに感情をぶつけたいだろう。
 だが、目の前の子供はそんな自分の感情よりも、不甲斐ない姿を見せた己を慰めようとしている。

 その事実はうっすらと開いた雫の瞳を潤ませた。

「ごめん……ごめんね……」

 胸ぐらを掴んだ手はわなわなと震え、必死に涙を堪えながらまっすぐと見つめる優を雫は何も言わずに抱き寄せた。胸元にうずめた小さな頭はしゃくりをあげながらふるふると震え、それを慰めるように何度も髪を撫で続ける。
 これからの事よりもまず考えてあげるべき事だった。

「もう、大丈夫だよ」

 この子は、怖かったんだ。
 家族に置いていかれた恐怖と、死ぬかもしれないという恐怖に押し潰されそうになっていた子供を、雫はできる限りの優しい声色で慰めた。
 縋るように回される手が、服をぎゅっと握りしめる。

「これからは、俺が君を守るから」

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