左腕のDALIA

TrueEnd

文字の大きさ
5 / 23
第三章

灰色の波紋

しおりを挟む
時間が、凍り付いていた。
健介の耳には、自分の荒い呼吸と、ドッドッと肋骨を内側から激しく叩く心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。床に伸びる高橋部長。その周囲に、まるでスローモーションのように散らばる書類の白。遠巻きに、しかし刃物のように突き刺す同僚たちの視線。誰もが、目の前で起きた暴力というあまりに直接的で原始的な出来事を、どう処理していいか分からずに立ち尽くしている。
『フン、静かになったではないか。やはり、ああいう輩には言葉より拳が効くようじゃな』
ダリアの声だけが、この世の出来事ではないかのように、他人事のように健介の脳内で冷静に響く。その声が、凍り付いた現実との間に、さらに一枚、分厚く冷たい壁を作った。
やがて、誰かの引き攣ったような悲鳴が静寂を破った。「部長!」「救急車!」。オフィスは一転して、パニックと混乱の渦に叩き込まれた。人々が右往左往し、電話をかけ始める。健介は、その光景を、まるで映画のワンシーンのように、どこか遠くから眺めているような感覚だった。健介は、自分の左拳を見下ろした。まだ微かに熱を帯びているそこを、まるで得体の知れない毒虫でも見るかのような目で。もはや、自分の体の一部ではないように感じられた。
程なくして、人事部の人間がやってきた。健介は、まるで容疑者のように別室の会議室へと連れて行かれた。冷たいパイプ椅子に座らされ、目の前には人事部長と、法務部の人間が厳しい顔で座っている。磨き上げられたテーブルが、青ざめた自分の顔を歪んで映し出していた。
「小林君、何があったのか、正直に話してくれたまえ」
人事部長の、怒りよりも困惑を滲ませた低い声が、静まり返った部屋に響く。
なぜ殴ったのか。何かトラブルがあったのか。一方的な暴力だったのか。矢継ぎ早に飛んでくる質問の弾丸に、健介の思考は麻痺していた。
「……侮辱的なことを言われ、カッとなってしまって……」
嘘ではない。だが、真実からは程遠い。
本当のことなど、言えるはずもなかった。「私の左腕には異世界の元女王が寄生していて、彼女が私の意思とは無関係に部長を殴り飛ばしました」などと。そんなことを言えば、精神病院の固いベッドの上に直行だろう。自分の身に起きていることは、この社会の物差しでは到底測れない。その絶対的な孤独感が、健介の心を締め付けた。
健介は、ただ「申し訳ありません」と、壊れた機械のように繰り返すことしかできなかった。クビは免れないだろう。問題は、会社都合での退職勧告で済むか、それとも最も重い『懲戒解雇』という不名誉な烙印を押されるかだ。最悪の場合、傷害事件として警察に突き出されるかもしれない。ローンが残っている家のこと、まだ学生である娘のことが、ぼんやりと頭に浮かんで、すぐに罪悪感の闇に消えていった。
その日の夕方、健介は人事部長から、最終的な通達を受けた。
「君の行動は許されるものではない。だが、今回の件は根が深い。よって、調査委員会を設置し、事実確認を行う。その間、君は謹慎処分とする。期間は、一週間を目安とするが、調査の進捗によっては前後する。追って連絡するから、今は帰りなさい」
重い足取りで、夕暮れの道を歩く。
謹慎処分。それは、判決を待つ罪人のような、生殺しの期間だった。
家の明かりが見えてくる。これから、このことを家族にどう話せばいいのか。健介は玄関のドアを開ける前に、何度も深呼吸をした。
「ただいま……」
リビングに入ると、妻の美奈子と、高校生の娘の遥が、ソファでテレビを見ていた。二人は一瞬だけ健介に視線を向けたが、すぐにテレビ画面に戻してしまう。
「……早かったのね」
美奈子が、画面を見たまま言った。
「ああ……会社で、問題を起こした」
健介の口から出たのは、ありのままの事実だった。
美奈子の動きが、ぴたりと止まる。彼女はゆっくりとテレビから夫に視線を移した。娘の遥も、スマートフォンをいじる手を止め、訝しげにこちらを見ている。
「問題って、何よ」
「部長に……侮辱されて、手を出してしまった。調査が終わるまで、謹慎処分になった」
「……は?」
美奈子の声が、みるみるうちに冷たくなっていく。
「手を出した? あなたが? ……まさか、クビにでもなるようなことじゃないでしょうね」
それは、心配よりも先に、詰問と軽蔑の色が濃く浮かんだ声だった。
それから数日、家の中には、これまでとは違う、重く、棘のある沈黙が支配した。
昼間は、娘の遥は学校へ、そして妻の美奈子もパートへと出かけてしまう。静まり返った家の中で、健介は自宅のソファで、ただ無為な時間を過ごすしかなかった。家族の中にいても、独りだった。
謹慎3日目の夜。重苦しい夕食の最中、美奈子が耐えきれないといった様子で口を開いた。
「……で、これからどうするつもりなの。会社、本当にクビにならないんでしょうね? 私のパート代だけじゃ、家のローンも遥の学費も、とてもじゃないけど払えないのよ」
責めるような妻の言葉に、健介は「……なんとかする」と、自分でも信じていない言葉を絞り出した。
その時、ダリアの声が脳内に響いた。
『ケンスケ、この女は何を言っておるのだ。お主は我の器、我の一部ぞ。その我の器に対して、なぜこうも無礼を働く? 我への侮辱と知っての狼藉か。少し黙らせろ』
(やめろ! お前には関係ない!)
健介は心の中で叫ぶ。だが、ダリアの思考は彼の感情を逆撫でする。そうだ、俺だって必死で働いてきたじゃないか。
「……俺が、何とかする。だから、いちいちそんな言い方をするな!」
健介の口から、怒声が飛び出した。
美奈子は、驚きに目を見開いている。遥は、びくりと肩を震わせ、俯いてしまった。
「……何よ、その言い方。私が間違ったこと言った? 心配してるから……!」
「もういい!」
健介は、自ら食卓をめちゃくちゃにしてしまった罪悪感に耐えられず、リビングを飛び出した。書斎として使っている小さな部屋に駆け込み、乱暴にドアを閉める。
最悪だ。何もかもが、悪い方向へ進んでいく。
会社での立場も、家庭での居場所も、全てを失おうとしていた。
『何をうじうじしておるのだ、ケンスケ。たかが数日、家から出られぬだけではないか。我など、お主という窮屈な牢獄にずっと閉じ込められておるというのに』
ダリアの呆れたような声が、追い打ちをかけるように響く。
「お前のせいでもあるんだぞ……」
健介は、力なく呟き返した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

最強無敗の少年は影を従え全てを制す

ユースケ
ファンタジー
不慮の事故により死んでしまった大学生のカズトは、異世界に転生した。 産まれ落ちた家は田舎に位置する辺境伯。 カズトもといリュートはその家系の長男として、日々貴族としての教養と常識を身に付けていく。 しかし彼の力は生まれながらにして最強。 そんな彼が巻き起こす騒動は、常識を越えたものばかりで……。

修復スキルで無限魔法!?

lion
ファンタジー
死んで転生、よくある話。でももらったスキルがいまいち微妙……。それなら工夫してなんとかするしかないじゃない!

勇者の隣に住んでいただけの村人の話。

カモミール
ファンタジー
とある村に住んでいた英雄にあこがれて勇者を目指すレオという少年がいた。 だが、勇者に選ばれたのはレオの幼馴染である少女ソフィだった。 その事実にレオは打ちのめされ、自堕落な生活を送ることになる。 だがそんなある日、勇者となったソフィが死んだという知らせが届き…? 才能のない村びとである少年が、幼馴染で、好きな人でもあった勇者の少女を救うために勇気を出す物語。

最難関ダンジョンをクリアした成功報酬は勇者パーティーの裏切りでした

新緑あらた
ファンタジー
最難関であるS級ダンジョン最深部の隠し部屋。金銀財宝を前に告げられた言葉は労いでも喜びでもなく、解雇通告だった。 「もうオマエはいらん」 勇者アレクサンダー、癒し手エリーゼ、赤魔道士フェルノに、自身の黒髪黒目を忌避しないことから期待していた俺は大きなショックを受ける。 ヤツらは俺の外見を受け入れていたわけじゃない。ただ仲間と思っていなかっただけ、眼中になかっただけなのだ。 転生者は曾祖父だけどチートは隔世遺伝した「俺」にも受け継がれています。 勇者達は大富豪スタートで貧民窟の住人がゴールです(笑)

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

【アイテム分解】しかできないと追放された僕、実は物質の概念を書き換える最強スキルホルダーだった

黒崎隼人
ファンタジー
貴族の次男アッシュは、ゴミを素材に戻すだけのハズレスキル【アイテム分解】を授かり、家と国から追放される。しかし、そのスキルの本質は、物質や魔法、果ては世界の理すら書き換える神の力【概念再構築】だった! 辺境で出会った、心優しき元女騎士エルフや、好奇心旺盛な天才獣人少女。過去に傷を持つ彼女たちと共に、アッシュは忘れられた土地を理想の楽園へと創り変えていく。 一方、アッシュを追放した王国は謎の厄災に蝕まれ、滅亡の危機に瀕していた。彼を見捨てた幼馴染の聖女が助けを求めてきた時、アッシュが下す決断とは――。 追放から始まる、爽快な逆転建国ファンタジー、ここに開幕!

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

処理中です...